世界有数の親日国として知られているトルコ。明治次第から現在まで友好関係は続いています。
このような関係に関する記事の紹介です。
トルコは世界有数の親日国として有名です。トルコに旅行をしたら、みんな親切でフレンドリーに接してくれ、日本語を話せるトルコ人も多い、という評判もよく耳にします。実は、トルコと日本の交流の歴史はとても長く深いのです。
本記事では、日本とトルコが深い関係になった出来事や日本とトルコの交流のきっかけとなった歴史的エピソードなどについてご紹介します。
トルコと日本の交流のはじまりは?絆が深まった理由
トルコと日本の最初の交流は1873年にまで遡ります。当時、フランスに滞在していた岩倉具視率いる総勢107名の使節団「岩倉使節団」が、立会裁判諸制度の視察にイスタンブールに訪問したのが最初の交流です。岩倉使節団には、かの有名な大久保利通や伊藤博文も参加していました。
その後も日本は度々トルコを訪問し、当時の外相や皇帝スルタン・アブデュルハミト2世に面会するなどの交流を図ってきました。トルコと日本の交流が更に深まったきっかけは、1890年に起きたトルコ船の日本での遭難事件です。この時の日本人の行動によりトルコとの絆が一層高まったといわれています。
現在、日本には数多くのトルコ友好協会が存在しています。トルコ友好協会は日本とトルコの芸術や文化、スポーツなどを取り入れたイベントを開催するなど、日本とトルコの親睦を深めることを主とした団体です。
エルトゥールル号遭難事件とは?
日本とトルコの深い交流の端緒となった1890年に起きたトルコ船の遭難事件をエルトゥールル号遭難事件といいます。エルトゥールル号は、1887年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問への返礼などの目的で、オスマン帝国から日本に派遣された船です。
エルトゥールル号は親善使節団を乗せて1889年7月にイスタンブールを出港しました。数々の困難に遭いながらも航海の途中に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、日本に到着したのは、11ヶ月の時を経た1890年6月です。
使節団は東京に3ヶ月滞在したのち、1890年9月に横浜港を出港し帰国の途につきました。しかし、帰国途中の台風接近に伴う暴風雨により和歌山県串本町紀伊大島沖の樫野埼付近で岩礁に座礁し、沈没してしまったのです。
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日本人による献身的な救助活動
エルトゥールル号の沈没によって、多くの乗員は海に投げ出されたため、死亡者と行方不明者の数は500名を超えました。
この時、大島の人々は協力して献身的に救助活動を行い、乗船していた656人のうち69人の救出に成功したのです。この遭難に際して、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助と救護や遺体の捜索、引き上げにあたったといわれています。
島民による救助活動は子供から大人までが協力して行いました。生存者を探すために海に飛び込んだり、生存者の息が絶えないように必死の手当てをしたりする人もいたほどです。また、日本全国から多くの義援金や物資も寄せられました。
これに対し、オスマン帝国は日本人による必死の救助活動に大きな感銘を受たといわれています。
救助された69人の生存者は神戸で治療を受けてそれぞれ快方に向かいました。そして、同年10月に比叡、金剛2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、翌年1月に無事イスタンブールに無事入港したのです。
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エルトゥールル号遭難事件の慰霊碑とトルコ記念館
和歌山県串本町沖の海底には、未だエルトゥールル号の残骸が海底に沈んでおり、現在も引き上げ作業や調査は続けられています。串本町には、エルトゥールル号遭難事件の犠牲者を弔うために建てられた慰霊碑があり、5年ごとに追悼式典が行われているのです。
また、エルトゥールル号遭難事件の遺品や写真を展示したトルコ記念館が建てられています。
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日本人の危機を救ったトルコのエピソード
エルトゥールル号遭難事件では、日本人がトルコ船の遭難者を助けるために尽力しましたが、反対にトルコの人々が日本人の危機を救ってくれたというエピソードもあります。ここでは、その時の出来事について解説します。
トルコによるイラクでの日本人救出劇
エルトゥールル号遭難事件の後、イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日の出来事です。イラクのサダム・フセイン大統領が「これより48時間後にイラン上空を飛行する航空機を無差別に攻撃する」という恐ろしい声明を発表しました。
イラクに住んでいた日本人は一斉にテヘランの空港に急ぎましたが、どの便も満席で搭乗できずに困っていました。当時イラクにいた外国人は自力では脱出できなかったため、世界各国は救援機を派遣して自国民の救出にあたっていました。
しかし、日本政府は憲法違反を危惧したために自衛隊機での救出ができず、日本人だけがテヘラン空港に取り残されてしまったのです。
トルコからの恩返し
帰国へのタイムリミットが近づく中、テヘラン空港にトルコ航空の救援機が着陸しました。トルコ航空の救助機はイラクに残っている自国民ではなく日本人を優先的に救助したのです。イラク国内に残っていたトルコ人は500名でこの時、この救援機に同乗することは不可能でした。
そこで、残されたトルコ人は陸路でイラクを脱出しました。日本人を優先的に救援し、自国民を残すことは非難の対象になることも通常考えられます。しかし、エルトゥールル号遭難事件の恩返しの行動ということで、避難した人はいなかったそうです。
トルコ航空機が日本人を救出に来てくれた理由について、当時の駐日トルコ大使だったネジアティ・ウトカン氏は次のように語ったそうです。
「エルトゥールル号の事故での日本人の献身的な救助活動を、現在もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供たちでさえ、エルトゥールル号の事件を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
東日本大震災でのトルコからの支援
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、被災した東日本のために多くの国々からたくさんの救援物資が届けられました。
トルコからも32名の救助隊に18.5トンの飲料水に豆やツナなどの缶詰が約6万8800個、約5,000枚の毛布が届けられるほどの手厚い支援を受けました。更に義援金として1,600万リラとニューヨークのトルココミュニティから3万ドルが寄付されたのです。
反対に2011年10月にトルコ東部でマグニチュード7.2の大きな地震が発生した際には、日本からテントなど緊急支援物資を提供し、トルコ政府が計画した仮設住宅を支援するための緊急無償資金協力を行いました。
また、トルコで支援を行っていた国際NGO「難民を助ける会」に所属する日本人が余震により死傷した際にはトルコ政府から手厚い対応を受けました。このようにエルトゥールル号遭難事件をきっかけとした日本とトルコの友好関係は今もなお続いています。
トルコと日本の交友を更に深めた山田寅次郎
トルコと日本の関係を築く架け橋として活躍した人物として山田寅次郎が挙げられます。
エルトゥールル号遭難事件に感銘を受けた茶道家で実業家の山田寅次郎は、エルトゥールル号犠牲者の遺族に対する義援金を寄付することを思い立ちました。日本各地で演説会をしてまわり、2年間かけて5,000円(現在の貨幣価値で3,000万円から1億円相当)の寄付が集まったのです。
そして、寅次郎は義援金を当時のオスマン帝国であるトルコへ持参し、熱烈な歓迎を受けて首都イスタンブールで皇帝アブデュルハミト2世に拝謁しました。
その後、寅次郎は皇帝から軍の士官学校での日本語指導を依頼され快諾し、日本との貿易事業を現地で開始するなどして長期に渡り滞在したといわれています。
正式な国交がなかった当時の日本とトルコの間で、寅次郎は民間大使のような役割を果たしたのです。当時、イスタンブールを訪れた日本人は皇帝・政府との交渉から観光案内まで寅次郎を頼っていました。
その後、第一次世界大戦の勃発により帰国した寅次郎は、大阪に製紙会社を立ち上げ、会社の役員として事業展開をしながら、帰国後もトルコとの交流に尽力し続けたのです。
寅次郎は、1925年に大阪商工会議所が中心となって設立した日土貿易協会の初代理事長に就任し、トルコと日本の交友を更に深めた人物としても知られています。
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エルトゥールル号遭難事件を描いた日本の作品
エルトゥールル号遭難事件は、映画や歌など日本の作品としても残されています。ここでは、エルトゥールル号遭難事件を題材にした映画や歌をご紹介します。とても感銘を受ける内容なので、ぜひ作品にも触れてみてください。
遭難事件を映画化「海難1890」
トルコと日本の交流が深まるきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件は、事故発生から長い年月をかけて2015年に映画化、公開されました。
完成した作品名は、邦題で「海難1890」(英題:125 Years Memory)です。映画製作のきっかけは、事件当時、乗員たちの治療にあたった医師の手紙が発見されたことでした。
エルトゥールル号遭難事件で救出された後、トルコは自国の乗員が治療してもらった治療費を払おうと医師に請求書を求めました。しかし、医師はトルコからの要求に対して「お金は被害者のために使って欲しい」という内容の返事を出して治療費が支払われることを拒否したのです。
その後、串本町(事故当時の大島)の町長が医師からの手紙を発見し、映画化することを決めました。映画監督の田中光敏監督と大学の同期だった町長は、監督に手紙を送り、映画製作が実現したのです。
撮影はトルコ国内でもありましたが、主に事故現場となった串本町にセットを組んで行われました。通常は撮影できない場所で撮ったシーンなどもあり、とても貴重な映像が見られる作品となっています。
内野聖陽、ケナン・エジェ、忽那汐里、アリジャン・ユジェソイなど、両国で活躍する豪華キャストが勢揃いしたことも話題になり、映画の中でも両国の交流が実現したのです。
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日本・トルコ友好ソング
「飛んでイスタンブール」で一躍有名になった女性シンガーの庄野真代さんが、エルトゥールル号遭難事件120周年を記念した曲「誓い エルトゥールル号遭難120周年記念/日本・トルコ友好のテーマ」を2007年11月に発表しました。
この曲は、日本とトルコの友好ソングとされており、和歌山県出身で夫はトルコ人の及川眠子さんが作詞し、作曲は同じく和歌山県出身の蝦乃木ユウイチさんです。
両国の繋がりに想いをはせるような「愛は時を越えて駆けてゆく、波のように何度もよみがえる…」という歌詞が繰り返されます。日本・和歌山・串本町・トルコがこの曲でまた新しく繋がりました。
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