太平洋戦争時の日本や当時の大日本帝国軍に対しては否定的な面の情報ばかりが取沙汰されているように思います。
今回は「ユダヤ人難民と北海道の分断をソ連から救った、旧陸軍中 将樋口季一郎」の記事を紹介します。
当時の日本を取り囲む世界状況や国内状況をしっかり把握したうえで、事実を掴むことが必要ですね。
又、歴史を学ぶ上でも、このような事実は重要ではないでしょうか?
2020(令和2)年9月、北海道石狩市に1人の旧陸軍中将を称える記念館が開館。彼の名前は、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)。1938(昭和13)年、多数のユダヤ人難民を救出しました。ユダヤ人難民救出と言えば、「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝が有名ですが、樋口はその2年前に救出を行っています。
また1945(昭和20)年、終戦後に関わらず千島列島の占守(しゅむしゅ)島に侵攻したソ連軍と戦い、北海道を守りました。
今回はそんな彼の生涯を紹介します。
樋口季一郎記念館長に伺う、設立への思い
樋口季一郎記念館は、北海道石狩市内にある「古民家の宿Solii」(古民家の一棟貸しを行う宿泊施設)内の、蔵を再生して開館。館長の江崎幹夫さんに、記念館を立ち上げようと思ったきっかけを伺いました。
「樋口季一郎のユダヤ人難民と北海道の分断をソ連から救った功績は、日本ではあまり知られていません。札幌市の『つきさっぷ郷土資料館』でも紹介されていますが、情報発信の場所として単独の資料館を作りたいと思ったのです。
2019(令和元)年春に直系の孫である明治学院大学名誉教授樋口隆一先生に、記念館を開設したい旨をお話したところ、快諾いただき計画を進めました。
石狩市は、直接関わりはありませんが、『北海道をソ連から救ってくれた人』なので、この場所でも良いのではと思いました」
陸軍将校として、世界各地へ
1888(明治21)年、兵庫県淡路島の阿万村(あまむら:現南あわじ市)に生まれた樋口季一郎(旧姓奥濱)。陸軍士官学校を経て、幹部養成機関である陸軍大学校を卒業。将来を嘱望され、陸軍将校としての道を歩み始めます。
1919(大正8)年、情報機関である特務機関員としてロシアのウラジオストクに赴任したのを皮切りに、ハバロフスクや満州国(現在は中国東北地方)のハルビン、ポーランドのワルシャワへ。陸軍将校は外交官のように、見聞や人脈を広める目的で、世界各地を赴任するのが常でした。
ウラジオストクでは、ユダヤ人の私邸に住んだことも。白人の有色人種に対する差別が、激しかった頃。日本人に下宿を貸してくれたのは、ほとんどがユダヤ人でした。樋口は、「日本人はユダヤ人に非常に世話になった」と、後年語っています。
樋口の任務は、軍事外交上の情報を収集すること。そのために、ワルシャワでは社交界に顔を出すことも業務の1つでした。
社交界といえば、ダンスは必修科目。苦手な日本人が多い中、樋口はワルシャワに赴任して早々、ダンスのレッスンを開始。ハバロフスク時代にはピアノを習ったこともあり、楽しみながら修得していきました。
ちなみに。出身地の淡路島は、淡路人形浄瑠璃が有名。幼少期は人形遣いに憧れ、元々芸術への関心は強かったようです。子孫には芸術方面で身を立てられた方が多いのも、樋口の影響かもしれません。
身長170㎝以上と当時の日本人としては長身の樋口は、ワルツを踊ってもさまになりました。ときには、侍の服装をして会場を沸かすので、社交界の人気者に。こうして情報収集と人脈作りに励みます。西洋文明を柔軟に受け入れ、視野を広げていきました。
ユダヤ人難民救出~オトポール事件
関東軍司令部へ、上司は東條英機
3年程ワルシャワで過ごし、国内外勤務を繰り返した樋口。
1937(昭和12)年5月、ドイツの視察旅行に行き、ドイツのユダヤ人迫害を目にしています。
同年8月、関東軍※1司令部付のハルビン特務機関長に就任。1か月前の7月には盧溝橋(ろこうきょう)事件が起こり、日中戦争へ。先のドイツとの状況と合わせて、日本の将来に不安を感じていました。
政府は中国に対し軍事行動を抑える「不拡大方針」を唱えていましたが、上司で後に首相になる東條英機(とうじょうひでき)参謀長は、拡大方針。樋口は違和感を覚えながら、業務に就きました。
※1 中国東北部に駐留した陸軍部隊。
第1回極東ユダヤ人大会で演説
しばらくして、樋口は極東ユダヤ人協会会長で内科医のカウフマン博士から、ある要請を受けました。ヨーロッパで、ユダヤ人がドイツの迫害を受けている実情を世界に知らせるための大会を開きたい。それを許可して欲しいとのこと。樋口は了承し、来賓として参加することを決意。
1937(昭和12)年12月、ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会の開催。軍服ではなく平服で登場。「軍人ではなく、1人の日本人」という意識だったのでしょうか。ドイツを批判し、ユダヤ人を擁護する講演を行って、ドイツ外務省の怒りを買います。
オトポール事件
1938(昭和13)年3月8日、樋口は満州国との国境にあるソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が現れたとの報告を受けました。人道的には救助したい、しかし軍人としての立場を考えると、行動は慎重にならざるを得ない。結局、自らの失脚も覚悟して、救出を決意。カウフマン博士に食料や衣服の手配を要請し、部下に素早く指示を与えました。南満州鉄道には、救出のための特別列車を出すことを取りつけました。こうして移動ルートを確保。「ヒグチルート」と呼ばれています。
そして3月12日、ユダヤ人難民一行がハルビン駅に到着。滞在ビザが出されました。
杉原千畝の「命のビザ」発行の2年前です。
東條英機に物申す
ユダヤ人難民救出後、樋口も覚悟していたように、ドイツから日本政府へ抗議書が届けられ、関東軍司令部から出頭命令が来ました。そこで対面した東條に向かい、こう言いました。
参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか。
早坂隆『指揮官の決断』148ページ
東條はその主張に耳を傾け、樋口に懲罰を科すことはせず、事件は沈静化しました。
樋口は戦後、東條のことを次のように語りました。
(東條さんは)筋さえ通ればいたって話のわかる人である。
同上 148ページ
アッツ島玉砕
太平洋戦争勃発翌年の1942(昭和17)年8月、樋口は北部軍司令官として札幌市に赴任。この頃には陸軍中将に昇進していました。この2か月前の6月、日本軍はアリューシャン列島※2の西端にあるアッツ島とキスカ島を占拠。目的は、米ソの連絡遮断、米軍の北方からの侵略阻止、日ソ開戦時にカムチャツカ半島攻略の基地とするため、でした。
アメリカとの戦局が激しくなる中、樋口はアッツ島に米軍が攻めてくると予測して、戦闘準備を進めていました。しかし、1943(昭和18)年5月12日、予想の時期より早く米軍が上陸。日本軍は苦戦の上、アッツ島は玉砕。2000人以上の犠牲が出ました。
樋口は大本営※3に部隊の増援を依頼しましたが、当時南方との戦いに力を入れており、アッツ島への増援は受け入れられませんでした。
※2 ロシアのカムチャツカ半島から、アメリカのアラスカ半島に連なる、約1930㎞の列島。
※3 日清戦争から太平洋戦争までの日本軍(陸海軍)の、最高統帥機関。
キスカ島撤退
増援の依頼を断られたことは、樋口には大変なショックでした。しかし、それを受け入れる代わりにキスカ島の即時撤退を申し出て、承認されました。入念に計画を練り、8月1日無事撤退し、5000人以上の兵士を救いました。樋口は撤退の際、兵器や弾薬の放棄を認めたことが、速やかな行動に繋がりました。軍人にとって武器は、生命同様。それを手放すことを認める樋口は、人命は武器より尊いと考えていたのでしょう。
占守島の戦い
1945(昭和20)年、戦局は日本にとって益々厳しい状況になり、8月15日終戦。8月16日、大本営は各方面軍に対し、止むを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為を停止する命令を下しました。さらに、自衛のための戦闘行動も、8月18日午後4時までと期限付き。
樋口は指揮官として、部下にこの命令を伝えました。しかし、ソ連が侵攻を止めるとは到底思えなかったのです。
千島列島の北東端にある占守(しゅむしゅ)島。ここにいた兵士の多くは、終戦の知らせを聞き、安堵していました。
しかし、8月18日未明、ソ連軍が占守島へ上陸。樋口の元へも連絡が届き、現地に次のように連絡しました。
断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ
同上227ページ
自衛のための戦闘として、現場の兵士には戦うことを命じました。日本側は停戦交渉を行いましたが、ソ連は応じず。期限の午後4時を迎え、日本軍はピタリと戦闘を停止しました。日本人の律義さを感じます。結局21日に停戦が成立し、23日から武装解除が始まりました。この戦いで、日本軍はソ連の侵攻を抑え、北海道そして日本を守りました。非常に意味のある戦いゆえに、多くの人に知られてほしいと思います。
ただ、武装解除した後、多くの日本兵がシベリアに抑留されました。多くの犠牲の上に、今の日本が成り立っていることを、改めて感じました。
戦後、軍人から一般市民へ
官邸から漁村へ
1945(昭和20)年10月、参謀本部と陸軍省が廃止。樋口は半年ほど復員業務※4に就きましたが、解任後は札幌市の官邸を出て、北海道小樽市郊外の朝里(あさり)に、知人のつてを頼り家族で住みました。これまでの生活から一変。自給自足で、家族は地引網を引く手伝いをしたこともありました。
※4 戦時に動員した軍隊を平時の体制に戻し、召集した兵士の服務を解くこと。
理解を深める、アメリカ
そんなある日、樋口の元を米軍の隊長が訪れました。樋口が率いた部隊の米軍捕虜に対する行動を、調査に来たのです。結局、捕虜に対する虐待は一切存在しませんでした。樋口は部下に「軽挙妄動は許さない」と、軍の規律を徹底させました。
パンを食べたい捕虜のために、小麦粉とパン釜を提供したことも。長年の海外生活で、異文化への理解もあったのでしょう。
さらに、終戦時における処理にも一切の不正がないことが明らかになり、アメリカ側の樋口に対する評価は上がっていきました。
戦犯にしたい、ソ連。窮地を救ったユダヤ人
対してソ連は、樋口に対し戦犯引き渡しを要求。特務機関員としてソ連に滞在していたため、スパイ罪を適用させる計算でした。
その窮地を救ったのが、樋口に命を救われたユダヤ人たち。世界ユダヤ協会(本部はニューヨーク)が、ソ連の要求を拒否するよう、アメリカ国防総省に訴えました。結果、樋口に対する戦犯引き渡し要求は、立ち消えになりました。
アッツ島と共に生きる
1947(昭和22)年に、朝里を離れ、宮崎県など何か所か住まいを変えました。1968(昭和43)年、札幌護国神社の「アッツ島玉砕雄魂之碑」除幕式・慰霊祭に参加。その後東京都文京区に落ち着き、1970(昭和45)年82歳で老衰で亡くなりました。
自室には、アッツ島を描いた水彩画が飾られており、毎朝これを拝んでいました。愛用の将棋盤の裏にも、亡くなった兵士を悼む俳句を書き残しています。戦後何年経っても、樋口の中ではアッツ島の戦いは続いていたのです。
樺太柳の将棋盤の裏面に書かれた、俳句 「樺太に玉とむれなお輝るやなぎ 季一郎 昭和卅八年五月四日 於大磯」 昭和38年当時、樋口は神奈川県中郡大磯町に在住。
大意「樺太の地で、群れをなして散った多くの兵士たちの上には、今もなお柳の木に朝日が当たって輝いていることよ」 「玉」に玉砕を掛けています。(樋口季一郎記念館提供)
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