JOG(1473) ロシア共産革命は「棚からぼた餅」だった

ロシアの歴史
JOG(1473) ロシア共産革命は「棚からぼた餅」だった
ロシア共産革命という人類最大の悲劇は、当時の各国指導者たちの愚行の積み重ねから起こった偶然の産物だった。 ■転送歓迎■ R08.05.24 ■ 85,095 Copies ■ 9,476,428Views■ 過去号閲覧: 無料受講申込み: __________ ★★★「国の宝を育てる授業」★★★ 志ある小中高校の先生方が工夫して実践した「お手…

JOG(1473) ロシア共産革命は「棚からぼた餅」だった

ロシア共産革命という人類最大の悲劇は、当時の各国指導者たちの愚行の積み重ねから起こった偶然の産物だった。

■1.「史上初の社会主義の政府」の誕生

伊勢: やあ、花子ちゃん。今日は「ロシア革命」について話をしようか。学校では「歴史の必然」として、虐げられた民衆が立ち上がった素晴らしい革命だと習っているかもしれないけれど、実は、それは大きな誤解なんだよ。

花子: ええっ、そうなんですか? 私の習った教科書では、こんな風に書かれていましたけど。

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 19世紀後半のロシアでは、社会主義が、政府による弾圧にもかかわらず広まっていました。第一次世界大戦が総力戦として長引き、食料が不足して民衆の生活が苦しくなると、戦争や皇帝の専制に対する不満が爆発しました。1917(大正6)年に「パンと平和」を求める労働者のストライキや兵士の反乱が続き、かれらの代表会議(ソビエト)が各地に設けられました。
皇帝が退位して、議会が臨時政府を作りましたが、臨時政府とソビエトが並立したため政治は安定せず、社会主義者レーニンの指導の下、ソビエトに権力の基盤を置く新政府ができました(ロシア革命)。この革命政府は、史上初の社会主義の政府でした。[東京書籍、『新しい社会 歴史』令和2年検定済み]
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花子: レーニンの指導の下、労働者や農民が中心になって革命を起こしたんじゃないのですか?

伊勢: この記述には非常に大事な事が書かれていない。レーニンはスイスに亡命していたけど、ドイツがロシアを戦線から離脱させ、東部戦線の兵力を西部に集中させるために莫大な資金援助とともに送り込んだんだ。

 ソビエトは当初、1917年の2月革命で成立した臨時政府を支持していた。しかし、指導者ケレンスキーの相次ぐ政策の失敗と、それを衝いたレーニンが強硬な戦争中止の主張でソビエトを乗っ取り、わずか8ヶ月後の10月革命で政権を握った。ケレンスキーのオウンゴールがなければ、レーニンが権力を握ることはなかったろう。

 そして、そもそも第一次大戦が死傷者4千万人を出しながら、4年半も続いたのは、ロシア、イギリス、フランス、アメリカの愚行がいろいろあった。そもそも第一次大戦がこれほど長期間続かなければ、ロシア内の民衆もそれほどの苦境に陥らず、レーニンの権力奪取も起きなかった。

花子: この教科書の筆致では、「史上初の社会主義の政府」の誕生が、いかにも「社会主義者レーニンの指導」のもと、歴史の必然かのように読めますけど、教科書に書いてない事情がいろいろあったのですね。

伊勢: そう、今日はそのあたりをよく見ておこう。ソ連の誕生は、その後の中国や東欧への共産主義の広まりとして、『共産主義黒書』などの推計によれば1億人も虐殺されるなど、人類の最大の悲劇だけど、それが、いくつかの愚行の産物であることを、我々は知っておくべきなんだ。

■2.ロシア帝国を内部から崩壊させるためにレーニンを送り込んだ「封印列車」

花子: 先ほどドイツが革命家レーニンをロシアに送り返したというお話がありましたが、具体的にどのような経緯で、そうしたんですか?

伊勢: 当時のドイツ軍部は、東西二つの戦線で戦うことに苦しんでいた。もしロシアを脱落させられれば、東部戦線の兵力をすべて西部戦線に回せるからね。そこで、ドイツはこの案を実行に移すことを決めたんだ。

花子: それで、スイスにいたレーニンに白羽の矢が立ったわけですね。

伊勢: そうだね。もっともレーニンがそれほど強力な革命家と思われていたからではない。数多くの革命家の一人に過ぎなかった。ただ、彼が戦争中止を最も強硬に主張していたから、選ばれたんだ。

花子: 実際の「送り込み」はどのように行われたのですか?

伊勢: 1917年4月、ドイツ政府の全面協力のもと、レーニンとその一行32人を乗せた列車が秘密裏にスイスを出発した。これがいわゆる「封印列車」だね。レーニン自身が、ドイツの協力でロシアに送り込まれたということが分かったら、ロシア国民から「ドイツの回し者」として拒否されてしまうのを恐れたんだ。

■3.革命の毒が自国内にも逆流してドイツ帝国も崩壊

伊勢: でも、レーニンの革命思想の「毒」は後にドイツ自身にも回ってくる。具体的には、以下のようなことが起きたんだ。

・革命思想の逆流: ロシア革命の成功が刺激となり、ドイツ国内でも第一次大戦末期に「キール軍港の反乱」や労働者によるストライキが各地で頻発するようになった。

・それらの反乱やストライキが引き金となり、最終的にはドイツ国内でも革命が起きて(ドイツ革命)、皇帝ヴィルヘルム二世は亡命し、ドイツ帝国そのものが崩壊してしまったんだ。これで第一次大戦が終結した。

花子: ロシアを倒すために注入した「毒」が、ドイツにも逆流して国を滅ぼしてしまったということですね。

伊勢: その通り。ドイツ軍部は「ロシアが脱落すれば西部戦線に兵を回せる」という目先の利益しか見ていなかった。けれど、レーニンら過激派が掲げる「帝政打倒」や「共産主義」の炎は、国境を越えて自分たちの足元まで焼き尽くしてしまったんだ。これこそが、ドイツが犯した最大級の「愚行」の結果なんだ。

 ドイツがレーニンという毒を送り込まなければ、ロシアは2月革命で成立した臨時政府の下、対ドイツ戦を続け、ドイツはもっと早く敗戦を迎えていたろう。2月革命のわずか8ヶ月後に起きたレーニンによる10月革命がなければ、ロシアは民主国家として戦勝国の一員となっていた可能性が強い。

花子: その場合、「史上初の社会主義の政府」も誕生しなかったのですね。

伊勢: そう、そのソ連がその後、中国や東欧、ベトナム、北朝鮮など各地に「社会主義の政府」を広げていったのだから、ソ連が誕生しなければ、「社会主義の政府」など地球上に生まれていなかったかも知れない。それなら1億人と言われる犠牲者もでなかったはずだ。

■4.レーニンを見くびって帰国を許したケレンスキーの愚行

伊勢: その毒薬たるレーニンを、ロシア国内に入れてしまったのは、臨時政府のリーダー・ケレンスキーの失敗だった。彼は弁舌には長けていたけれど、政治的な実務能力や危機管理能力が致命的に欠けていたんだ。

 当時のアメリカのウィルソン大統領は、ロマノフ王朝のような「専制国家」が嫌いだった。彼は、ロシアが革命によって「民主主義国家」に生まれ変わることを強く望んでいたし、そう信じたかった。

 そのアメリカからの莫大な資金援助や食料支援、そして戦争への協力を、ケレンスキーは喉から手が出るほど欲しがっていた。だから、彼は民主国家であることを証明するために、「政治犯の完全な特赦」や「言論・集会の絶対的な自由」を宣言してしまったんだ。

花子: その「自由」の中に、レーニンたち過激派の活動も含まれてしまったわけですね。

伊勢: そうだ。ドイツがレーニンを送り込もうとしている情報は臨時政府にも入っていたはずだが、ケレンスキーは「民主国家」としての体面を保つために、帰国を拒めなかった。もっとも、ケレンスキーも、レーニンなどは国内に戻しても、たいしたことはできないだろうと、見くびっていたんだけどね。

花子: アメリカにいい顔をするために、危険な虎を国内に入れてしまったのですね。

■5.ケレンスキーのオウン・ゴール

伊勢: その虎にさらに檻から出してしまったのが、1917年9月に起きた「コルニーロフ事件」での対応だね。コルニーロフ将軍は、レーニンなどの過激派の危険性を分かっていた。そこで将軍は、部隊を首都に送って、過激派を一掃しようとした。

 この動きに、ケレンスキーは、自分に代わって軍部独裁を目指しているのではないかとコルニーロフ将軍を疑い、将軍指揮下の兵士たちに将軍の拘禁を命じた。それと同時に過激派は兵士たちを扇動した。「対独戦争を止めたい」と思っていた兵士たちは、レーニンの革命思想にすぐに魅了された。

 過激派はソビエトに属する労働者や兵士を動員し首都防衛隊を組織させた。鉄道労働者はサボタージュで軍の移動を、電信労働者は軍の交信を妨害した。軍からの信頼を完全に失ったケレンスキーは、孤立無援の状態になってしまった。

 もし彼が将軍との連携を維持し、過激派に立ち向かっていれば、10月革命が成功する隙はなかったはずなんだ。彼の政治的無能と、目先のライバルを追い落とすための近視眼的な判断が、過激派に政権をプレゼントしてしまった、と言えるだろうね。

花子: 歴史の必然というより、ケレンスキーのオウン・ゴールで、「棚からぼた餅」で、レーニンが権力を奪ってしまったのですね。

■6.ドイツの講和提案を無視した英仏の愚行

伊勢: 愚行は英仏側にもあった。実は、レーニンの送り込みの前の1916年12月、ドイツは英仏に対して、講和の提案をしていた。それを英仏が無視したことで、戦争の早期終結ができなくなってしまった。この時、英仏が少なくとも講和の交渉に入っていれば、ドイツはその翌年4月にレーニンを送り込むこともしていなかったろう。

花子: でもドイツはどうして、このタイミングで「戦いをやめよう」と言い出したのですか?

伊勢: 最大の理由は、戦争の長期化と膠着状態だね。提案前のヴェルダンの戦いはフランス軍対ドイツ軍で、フランス側は約38万人の死傷者、ドイツ側も34万人の死傷者を出していた。英仏軍対ドイツ軍の戦いとなったソンムの戦いでは、英仏側約90万人、ドイツ側約60万人もの死傷者を出していた。

 当時のドイツ政府内では、外交による解決を模索する和平派と武力による決着を主張する強硬派が激しく対立していたんだ。和平派はアメリカが参戦してくる前に、幕引きをしたいと考えたんだ。

 しかし、イギリスやフランスはこの提案を拒否した。イギリスでは、ドイツを徹底的に叩き潰すことを誓って首相になったばかりのロイド=ジョージが妥協を許さなかった。フランスのポワンカレ大統領はロシア皇帝やロシア政府と緊密な関係を保っていて、ドイツとの戦いを継続するようロシア側を鼓舞していた。

 そして、英仏ともロシア軍が東部戦線でドイツ軍の進撃をそれなりに食い止めていたのを見て、これでアメリカがやってくれば「勝機がある」という見通しを抱いていた。その結果、彼らはこの講和提案を真剣に検討することなく退けてしまった。これが、ロシアの内部崩壊を早め、共産主義革命を引き寄せるという最悪の結果につながったわけだね。

花子: 英仏の指導者たちがこの講和提案を真剣に受け止めていれば、その後の悲劇は避けられたかもしれないのですね。

■7.アメリカの愚行

伊勢: 愚行はアメリカの側にもある。先ほど述べたように、ケレンスキーが、パンと平和を求める国民の声を無視してまで「戦争継続」にこだわったのは、アメリカからの支援を繋ぎ止めるためだった。もし、アメリカが参戦せず、こうした強力な「後ろ盾」になる見込みが最初からなかったとしたら、ケレンスキーが無理をしてまで戦争を続ける理由はなくなっていたはずだ。

 民衆や兵士たちは何よりも「パン」と「平和」を欲していた。レーニン率いる過激派が支持を広げた最大の武器は、「臨時政府は戦争を続けて国民を苦しめている」という批判だったんだ。もしアメリカの支援という期待がなければ、ケレンスキーは自分の政権を守るために、過激派に先を越される前にドイツと講和せざるを得なかっただろうね。

 同時に、アメリカの参戦があれば勝てるという期待感を、英仏露の連合国側に与えてしまった。もしアメリカが中立を維持していたら、英仏とも1916年のドイツの講和提案に乗る形で、出口を模索していた可能性が高い。

花子:アメリカの「善意の参戦」や「理想主義」が、結果的にロシアを極限まで追い詰め、レーニン率いる過激派に権力を握らせる隙を作ってしまったなんて……。

伊勢:だから、ロシアの共産革命は、次の愚行のどれか一つでもなければ、起こらなかったはずだ。時間を逆にして並べると:

(1)ケレンスキーがアメリカの支援をつなぎ止めるために、民主国家というポーズをとってレーニンの入国を許した。さらに、パンと平和を求める民衆の声を無視して、対独戦を継続した。同時に過激派を一掃しようとしたコルニーロフ将軍を排除し、そこで過激派が軍を掌握した。

(2)ドイツがロシアとの休戦を実現するために、レーニンを送り込んだ。

(3)アメリカの後ろ盾を見込んで、英仏がドイツの講和提案を無視した。

(4)アメリカのウイルソン大統領が、ヨーロッパの紛争には介入しないというモンロー主義の伝統と、自らの選挙公約を破り、第一次大戦に介入した。

 追加として、もう一つの愚行を挙げれば、英仏はロシアの戦線離脱になんとか対応しようと、日本にシベリア出兵を求めた。しかし、アメリカは日本がシベリアを侵略しようとしているのでは、と疑って、様々な干渉をした。それが無ければ、共産革命に反対していたロシア国内の白軍と日本軍の連携で、ロシアの過激派による政権は打倒できたのかもしれない。
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JOG(1234) シベリア出兵 ~ 共産主義の芽を摘みとれなかった世紀の「失敗」
 第一次大戦の連合国は、20世紀最大の惨劇を生んだ共産主義を萌芽のうちに摘み取るチャンスを逃した。
https://note.com/jog_jp/n/n34bda086e1bb
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花子: 歴史って、本当に偶然と人間の愚行の積み重ねでできているんですね。

伊勢: そうだね。ロシア共産革命は「輝かしい民衆の勝利」などではなく、各国指導者たちのプライド、無知、目先の利益に目が眩んだ結果生み出された「愚行の蓄積の結果」だった。その「棚からぼた餅」でレーニンは権力を掌握し、世界各地の紛争で1億人とも言われる犠牲者を出した「ソビエト連邦」が生まれてしまったんだ。

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