戦乱を逃れてやってきた帰化人たちは平和な日本で国づくりに参画した

日本の歴史
JOG(1417) 戦乱を逃れてやってきた帰化人たちは平和な日本で国づくりに参画した
■■ Japan On the Globe(1417)■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 国柄探訪: 戦乱を逃れてやってきた帰化人たちは 平和な日本で国づくりに参画した  戦乱の大陸・半島を逃れてきた帰化人たちは戸籍と口分田を与えられ、国民同胞として国づくりに参加していった。 ■転送歓迎■ R07.04.20 ■ 84,717 Copies ■ 9,112,711Views■ 過去号閲覧: 無…

JOG(1417) 戦乱を逃れてやってきた帰化人たちは平和な日本で国づくりに参画した

戦乱の大陸・半島を逃れてきた帰化人たちは戸籍と口分田を与えられ、国民同胞として国づくりに参加していった。

■1.地名に残る帰化人の足跡

伊勢: 花子ちゃん、今日は古代の日本が帰化人たちをどう迎えたのか、考えてみよう。最近の移民難民の問題にも参考になると思うんだ。

花子: 学校では「渡来人」と学びましたけど、帰化人と渡来人はどう違うんですか?

伊勢: それは大事なポイントだけど、帰化人たちに関する史実を見た後で考えよう。まず、かつて帰化人が集住して、今も地名で「百済」「高麗」「新羅」「漢」などの字を含む土地や神社・お寺などが日本各地にたくさんある。こんな具合だね。

・百済: 百済野(大阪市)、百済寺跡(大阪市、枚方市)、百済大橋(大阪市)、百済(ひゃくさい)寺町(滋賀県)、百済来(くだらぎ)(熊本県八代市))

・高麗: 高麗(こま)川・高麗神社(埼玉県日高市)、狛(こま)(奈良県桜井市)、高麗(こま)町(鹿児島市)

・新羅: 新羅郷(宮城県)、新羅神社(岐阜県、長野県、新潟県、山形県など多数)

・漢: 綾部市(京都府、漢部(あやべ)が綾部に)、余部(兵庫県美方郡、姫路市、岡山市、漢部(あやべ)が余部(あまるべ)に)

花子: 余部鉄橋は「空の駅」のある絶景スポットとして有名ですね。私もいつか行ってみたいと思っていましたけど、これも漢部(あやべ)から来ているのですか?

伊勢: 古くは「余部」は「あやべ」と読まれていたらしいけど、現在では「あまるべ」と読まれているね。

■2.古代の帰化人たちの移住定住

花子: 余部鉄橋は、兵庫県の日本海側で、鳥取県にも近い所ですよね。帰化人がそういう所まで、どういう機縁で住み着いたのですか?

伊勢: 8世紀初頭、古事記や日本書紀の成立と同じ頃だけど、その頃に編纂された「播磨国風土記」には帰化人たちが各地に移住、拡散していった様子が描かれている。大和朝廷は帰化人に戸籍と口分田を与えていた。各地の開発を考えて、帰化人の一族に居住する場所を指示していたようだ。

 余部鉄橋の余部とは別だけど、兵庫県姫路市の余部は、讃岐国(香川県)から漢人(あやひと)が移り住んだ事が記されている。

花子: 今で言えば、香川県から、瀬戸内海を北東方向に渡って、姫路市に移り住んだということですね。

伊勢: 讃岐は瀬戸内海で大陸や朝鮮半島との海上交通の要衝だった。だから、日本にやってきた帰化人たちがまず、そこに集住するのは、自然なことだった。一方、姫路は畿内と中国・九州を結ぶ山陽道の中継地点だけど、さらに姫路からは但馬、因幡、出雲への街道が伸びている。そこでまず漢人たちの一部が姫路に移り、そこからさらに日本海側の余部に移り住んだ可能性も十分、考えられる。

 綾部市も姫路から北東に120キロほどの所だから、その一環かもしれないね。

 ちなみに、綾部市には優れた機織り技術を持つ漢氏(あやし)が移り住んで、「綾部」という朝廷に奉仕する職能集団となり、その伝統が明治時代に「グンゼ」という企業の源となったらしい。

花子: あの肌着などで有名なグンゼ株式会社ですね。

伊勢: そう、グンゼとは創業者・波多野鶴吉が、地域の発展のために養蚕業の振興が「郡の方針(=郡是)」であると考えたところから命名したらしい。

花子: へえー、それでは千数百年も前の帰化人たちのもたらした養蚕業や機織りの技術が地域に根付いて、現代企業にまで繋がっているということなんですね。日本の歴史は本当に根が深いですね。

■3.帰化人たちはなぜ日本にやってきた

花子: そういう帰化人たちは、どういう理由ではるばる日本までやってきたのでしょうか?

伊勢: 歴史上、帰化人の波は何度かあったけど、その一つに『日本書紀』で第15代応神天皇の時代、西暦390年前後に、阿知使主(あちのおみ)が、帯方郡、つまり朝鮮半島の北西部のソウル周辺から、17県の民を率いて、日本にやってきたと記されている。百済と高句麗の戦争を逃れて、大挙して日本に逃げてきたようだ。

 古代日本では外国人という意味で一般に「あやひと」と呼ばれていたようだ。「あや」とは古代の日本語で「異邦、渡来」という意味があった。阿知使主の一族は後漢霊帝の子孫と自称したけど、これは史実かどうか分からない。いずれにしろ、日本では「あやひと」と呼ばれていた一族が「漢人」と自称することで、「漢」が「あや」と訓じられるようになったようだ。

 同様に、帰化人のもう一つの大勢力である秦氏も、「秦の始皇帝の末裔」ということで、秦氏と自称したらしい。秦氏も秦が滅亡した時の遺民、または秦の始皇帝の圧政から逃げ出したユダヤ系民族という説もある。いずれにせよ、戦乱の続く大陸や半島を逃げ出して、日本にやってきた「戦争難民」だね。

■4.専門職集団として朝廷に奉仕

花子: こういう帰化人たちは、どのように朝廷に迎えられたのでしょうか?

伊勢: 帰化人に関する代表的な研究者・関晃(せき・あきら)東北大学名誉教授は、厳密な資料批判の結果、次のように書かれている。
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漢氏の祖先が渡来してから一、二代の間に文筆・財務・外交などに携わり、またあとから渡来した手工業技術者を部下に従えて、朝廷の中でかなりの地歩を占めるようになったらしいということは、漠然と想像できるであろう。[関、p67]
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花子: 帰化人とは、そういうエリート層ばかりだったのですか?

伊勢: いや、手工業技術者や農民なども当然、多かった。こういう人々は、朝廷が集団で地方に移住させ、口分田をあてがい、戸籍に編入し、当面の生活費や衣服を支給したようだ。綾部とか余部などと地名にその足跡が残っているのは、そのためだろう。

■5.新羅からの移民700人の争乱「弘仁新羅の乱」

花子: 戦乱の続く大陸や半島では安定した生活ができないので、一族で日本にやってきて、読み書きや機織りなどの専門技能を生かして、朝廷での地位を築いたということですね。さらに、綾部や余部など、地方でもその技術を生かして、地域の発展に貢献したんですね。

伊勢: そう、平和な日本で処を得て、国家共同体の一員として、安らかな、はりあいのある生活を送れたんだろう。

花子: 現代では、移民の争乱などが欧州や日本でも問題となっていますが、そういう事はなかったんですか?
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テーマ・マガジン「国民共同体を壊す移民・難民問題」
 移民問題で欧米は大混乱。その失敗から学びましょう。
https://note.com/jog_jp/m/m34d58d501d54
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伊勢: 帰化人たちはおおむね平和的に日本国内で受け入れられ、共同体の一員として活躍したけど、一つ大きな集団的反乱があった。弘仁新羅の乱という820年に起きた事件で、遠江・駿河両国に移配された新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、周辺人民を殺害して建物を焼き討ちした事件だ。

  一説には、当時は新羅は国内が混乱し、対馬や北九州を略奪する海賊まで現れた。その一部が博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでやってきた。朝廷はこれを見抜いて東国に移したところ、逆恨みしたものと推定されている。

 彼らは東国の兵士に鎮圧されたけど、その後は新羅からの来航・帰化申請は断られ、漂流民も衣服食糧を与えて追い返すこととなった。[新羅の入寇]

花子: 大陸や半島からの戦争難民も平和的な人々ばかりではなかったのですね。

伊勢: まったくその通り。これらの人々は新羅の海賊の一部で、日本に拠点を持とうとして帰化人のフリをしたという事のようだ。今で言えば北朝鮮の工作員が大挙して移民申請してきた、というようなことだね。

■6.同化していった帰化人たち

伊勢: あと、我が国の帰化人受入の歴史で興味深いのは、帰化人たちも2世、3世となると次第に土着して、帰化人という意識も薄れ、もとからの日本人に同化していった、ということだね。

花子: そういう帰化人の子孫として、有名な人はいますか?

伊勢: たとえば、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は平安時代の武将で、阿知使主の子孫、東漢(やまとのあや)氏の出身だね。

花子: 坂上田村麻呂と言ったら、征夷大将軍として蝦夷の平定に多大な功績を挙げた人ですね。それも、武力で鎮圧するのではなく、蝦夷に農業を教えて帰順させた、とJOGで読んだ記憶があります。
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JOG(1172) かくて蝦夷は「和の国」に迎え入れられた
 坂上田村麻呂に「征服」された蝦夷の子孫たちは、なぜ彼を称え、思慕するのか?
https://note.com/jog_jp/n/n178a986581e4
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花子: でも名前からして、帰化人の子孫とは思いもしませんでした。そもそもなぜ「坂上」という和風の名字をつけているのですか?

伊勢: 田村麻呂は来日した阿知使主から400年近く後の子孫で、一族が奈良県高市郡の「坂ノ上」に住み着いたことから、「坂上」を名乗るようになっていた。当時は、居住地や職能にちなんだ名前をつける習慣があったんだ。

花子: それなら、当時の人々も本人も、帰化人の子孫などという意識はなかったでしょうね。

伊勢: そうだろうね。ただ、田村麻呂は身長175センチほど、当時の平均身長より20センチほども高かったし、胸板が40センチもあったと伝えられている。体格から言ったら、帰化人の血筋を引いていることが一目瞭然だったろう。

 でも人柄が「怒れば猛獣もたちまちたおれ、笑えば幼児もなつく」と伝えられ、田村麻呂が創建・関係した神社が東北地方だけでも50以上もあって、今も東北地方で敬愛されている人物だ。体格は帰化人の血筋でも、「大御宝を鎮むべし(国民を大切な宝として安らかに生活できるようにしよう)」という皇室の伝統精神を受け継いだ人物だったようだね。

伊勢: もう一人、高向玄理(たかむくのくろまろ)は聖徳太子の遣隋使とともに大陸に留学して、30年以上も現地にいて、隋の滅亡から唐の建国を見た。その後、日本に帰ってきて、「国博士(くにのはかせ)」として、大化の改新や律令国家の建設に政治顧問として重大な貢献をした人物だ。

 高向の先祖は、阿知使主と同時期に渡来した人物で、玄理はそれから約200年後の人物だ。高向というのは、やはり土着した河内国の高向という地名からとったんだね。

花子: 30数年も中国に留学しても、日本に帰ってきて国家のために尽くしたということは、きっと日本こそが祖国だという意識が強かったのでしょうね。

伊勢: 帰化人の末裔として漢文はよくできたろうけど、聖徳太子の理想をその後の律令国家に生かした立派な人物だったようだね。

 おっと、国中連公麻呂(くになかのむらじ・きみまろ)も忘れてはならない。奈良の大仏鋳造の中心となった芸術家だ。天智天皇2(663)年に百済の争乱を逃れて帰化した国骨豊の孫で、大和国葛城郡の国中村に住んでいたので、それを姓としている。聖武天皇の大仏鋳造の志を見事に実現した人物だ。
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JOG(272) 天平のミケランジェロ ~ 「国民の芸術」を読む
 東大寺大仏などの傑作を続々と生みだした国中連公麻呂は、世界三大巨匠の一人。
https://note.com/jog_jp/n/nb0b5d607ca51
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花子: 軍事の坂上田村麻呂、政治の高向玄理、芸術の国中連公麻呂と、大陸や半島からやってきて土着化した人材が、大和朝廷の理想をよく体現して、国づくりに貢献しているのですね。

伊勢: 帰化人たちを温かく迎え入れて、同胞として処遇した大和朝廷の政策が、彼らを成功させた、とも言えそうだね。平安時代初期にまとめられた『新撰姓氏録』という畿内にすむ各一族の名鑑があるけど、帰化人系は「諸蕃」としてまとめられていて、全体の1/3ほども占めている。帰化人とその子孫の国家建設の貢献は大きいね。

■7.「帰化人」は歓迎、「渡来人」はお断り

伊勢: さて、ここで冒頭の「帰化人」か、「渡来人」か、という問題を考えてみよう。歴史家の中では、いろいろな論争があるようだけど、花子ちゃんは、この二つの言葉からどんな印象を持つ?

花子: 日本にやってきて戸籍と口分田を貰い、朝廷で高い地位を得て国づくりに貢献した人々。あるいは、地方に住み着いて、機織りなどの技術を広めて地域の発展に貢献した人々。そういう人々は共同体の一員になったので「帰化人」と言った方が良いと感じます。

「渡来人」と言ったら、単にやってきただけで、国家共同体にも入らずに、自分たちだけで固まっている集団を思い描きます。「弘仁新羅の乱」の新羅人たちのように。

伊勢: そうだね。私はサンフランシスコのチャイナタウンには良く行ったけど、そこでは中国系の住民がアメリカ社会とは交わらずに浮いた存在になっていた。彼らはまさに「渡来人」だろう。

 一方、日本の横浜や神戸の中華街は、おいしい中華レストランや春節のお祭りなど異国情緒が楽しめるけど、華僑系の住民や団体が日本人とよく協力してやっている。これなどは、我が国の「帰化人受入れ」の伝統が今も継承されているように感じる。

 また、アメリカや南米に渡った日系移民は、現地社会に溶け込んで、日本人らしい勤勉さを発揮して、尊敬される地位を築いている。立派な「帰化人」だね。

花子: 現代の移民難民問題を考えるにしても、日本国民になろうという志を持つ「帰化人」は歓迎すべきですけど、欲得でやってくる「渡来人」はお断り、というのが、歴史から学べる原則ですね。

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