大東亜戦争敗戦後の日本は、文字通りの混乱状態、無法状態でした。
旧占領地民=三国人の犯罪や横暴、連合国軍人による横暴と犯罪、もちろん、日本人の犯罪もあったと思います。
これに対処する為に警察が任侠団体に支援を要請し、事実として、任侠団体が一般市民を守っていた。
このような事実は私たちが学ぶ「歴史」になかなか出てきません。
冷徹な歴史をしっかり見つめる事、本当の事実が掴める、そして、将来への可能性も見いだせるのではないかと思います。
戦勝国民を僭称する旧占領地民=三国人が各地で横暴を働きGHQに無力化された警察は任侠団体に支援を懇請。東京では1946年 #7月19日 渋谷警察署と落合一家,武田組,万年東一が武装台湾人を叩く #渋谷事件 が起り神戸で抜刀隊を率いた田岡一雄は港湾荷役と芸能で山口組を興します
「終戦後の連合国軍人による犯罪は数多く行われたといわれる。しかし、当時は連合国による厳しい言論統制が施かれ、占領軍人の犯罪は一行も新聞に登載されることはなかった。事件の捜査も処理もすべて米軍MPによって処理され、警察には一片の資料も残されていない。果してどのくらいの犯罪が行われ、どの程度検挙されたか、今日になっては知ることはできない。」
終戦後の実話
ネット保守には今更な内容ですが、保守以外の読者さんもいらっしゃるようなので良ければお読み下さい<(_ _)>
反韓を煽ることが目的ではないです。
でも日本人なら知っておくべき事実
「山口組三代目」(1973年作)
戦勝国民を僭称する旧占領地民=三国人が各地で横暴を働きGHQに無力化された警察は任侠団体に支援を懇請。
ダイジェスト
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①~⑭
一部第三国人の暴動は天皇の玉音放送があった数時間後に国鉄湊川駅の襲撃から始まった
第三国人達は略奪した物品を闇市で売りさばいた。
「相手にしたらあかん、一人は機関銃まで持ってるんや」
女性が強姦されているところを田岡が救出
(田中邦衛・朝鮮人役)わしに真心の親切の日本人、兄貴だけでした。わしの身寄り、兄貴だけでした。
三国人連盟は全国に300もあり、戦後日本での権利確立を信条としていたが、その一部は戦勝国意識に酔いしれて暴走し、集団によるテロ・略奪を欲しいままにしていた
「そこでや。わい、山口組で自警団つくって不良三国人と正面切ったろうと思ってるんや」
昭和21年 2月23日自警団発足
新開地
「おどれら、今日から伝助ばくちはこの山口組の田岡が許さんのじゃ」
警察二人が集団暴行にあう
「あいつら。警察を目の敵にしとるねん。警察倒して神戸を自分達の手で支配しようと思ってるねん。」
「お前達。田岡必ずぶち殺せ!」
「田岡さん、あなたの力を是非借りたいと思って」「焼け残った湊川署に収監している20人ほどの囚人を奪還するために襲撃するといわれている」
「親分、来ましたぜ。トラック二台に百人はおりますぜ。」
(…これ、戦争!?銃器がすごい)
「あいつらのことを堪忍したってくれ。頼む。」(田中邦衛・朝鮮人役)
「恨み骨髄に達した三国人連盟は田岡個人に決闘状を送り、応じない場合は一般市民に危害を加えると脅した。」
「どかんかい。会長に会いに来たんじゃ。」
「三国人」という言葉がある
これは 戦後の混乱期に 自らの地位を「戦勝国民」と偽って 乱暴狼藉を働く朝鮮人が 余りにも多かったので GHQが 朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない 「第三国人である」としたことが発端
外国籍でも生活保護が得られるようになったのはこういう経緯だったそうです。
ここで公平を期するため当時の進駐軍についても述べておきます
(↑このサイトは戦後の混乱をかなり詳しく述べられています。また、三国人と闘った暴力団を美化しすぎるのも良くないとも述べてあります。)
犯罪が1件もなし=記録を残していない ということでしょう
兵庫県では、昭和20年9月25日、連合軍兵士の進駐が始まりました。『兵庫県警察史』によると、同年10月2日付『神戸新聞』は「進駐軍による暴行や掠奪、県下を通じて1件もなし」と報じているそうです。
一方、『福岡県警察史』は、
「終戦後の連合国軍人による犯罪は数多く行われたといわれる。しかし、当時は連合国による厳しい言論統制が施かれ、占領軍人の犯罪は一行も新聞に登載されることはなかった。事件の捜査も処理もすべて米軍MPによって処理され、警察には一片の資料も残されていない。果してどのくらいの犯罪が行われ、どの程度検挙されたか、今日になっては知ることはできない。」
と記しています。連合軍兵士による数々の犯罪の詳細は不明です。
兵庫県警察史も、神戸新聞の記事について「前掲神戸新聞の記事は、人心の動揺を防ぐための政策的報道と考えざるを得ない」としています。
それから素晴らしい記事を紹介します。〝在日〟の成り立ちと歴史です。私も勉強になりました。底本にして抜粋してまとめます。
注記
当記事に在日コリアンを誹謗中傷する意図はありません。また、北朝鮮の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国ですが、便宜上〝北朝鮮〟〝北〟と書きます。同じく大韓民国を〝韓国〟〝南〟とも書きます。文中に〝共産主義者〟との表記もありますが、これもまた差別意識ではなく、純然たる「コミュニスト・共産主義に正しさを見出す人」とお考えください。
在日朝鮮人の定義が誕生したのは1947年。
北朝鮮の建国(1948年)のほうが後
在日朝鮮人とか北系とか総連系とか言われる人達は、ほぼ半島南部(現在、大韓民国が統治している地域)の出身
1910年・日韓併合
日本籍だった朝鮮人
(併合によって多くの朝鮮人が日本に渡ってきます)
1945年・敗戦し朝鮮半島を手放す
日本に残っている朝鮮半島出身者は、まだ日本国籍のまま
1946年・朝鮮半島出身者の帰国輸送終了
朝鮮半島出身者205万人のうち、半島へ戻ることを希望する140万人帰国
1947年・外国人登録令
〝在日朝鮮人〟の誕生
済州島民虐殺と密航
日本に残った人達は在日朝鮮人。いずれ半島に統一政府ができればその国の国籍となる。
それなら話は簡単なんですけど、残らなかった人達、半島へ戻った人達が再び日本にやってきたため、話はややこしくなった。
済州島はかつて独立国で、李氏朝鮮とは異なる文化だった。流刑地として扱われたこともあり、徹底的に見下されました。日本も佐渡や伊豆は流刑地だったけど、差別感情なんてある? ないよね。でも半島は違う。
そんな韓国で悲劇が起きた。
1948年4月3日、済州島4.3事件勃発
(李承晩政権による虐殺から逃れるため密航)
軍と警察、李承晩政権の支持者は、済州島民の2割以上を虐殺。村の7割、山林の9割を焼き尽くした。
虐殺前の人口は29万人。6万人が殺され、20万人は済州島を脱出。かといって半島へ渡ったところで殺されますから、日本へ密航しました。
多くは大阪へ辿り着いたといわれます。残った島民は虐殺前のわずか1/10、3万人でした。
韓国では今も済州島出身者への差別感情は根強いですし、慶尚道と全羅道の地域対立は日本人には理解できないほど強烈です。
1948年8月15日、大韓民国樹立
アメリカの支援の受けて韓国政府が誕生
GHQの統治下にある日本は、大韓民国を朝鮮半島における唯一の政府と認めます。
これにより朝鮮半島出身者は「日本籍の外国人(朝鮮)」→「韓国籍の外国人」へ変更できるようになりました。
済州島事件の余波で政情不安。韓国籍を選ぶ人は少なく、引き続き日本籍の外国人(在日朝鮮人)をチョイスします。
1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)樹立
半島北部に共産主義国家が樹立
朝鮮半島は南北に分断
1950年・朝鮮戦争による密航
(朝鮮戦争の経済難民が密航)
米ソの代理戦争、朝鮮戦争が勃発。当時の経済力は圧倒的に北朝鮮の方が上で、韓国は一瞬で経済的に困窮しました。ここで経済難民として日本への密航が発生します。
日本の敗戦から5年。引き上げ船からわずか3年なので、親戚や友人知人を頼れば日本でも生活できると考えたんですね。
1950年・韓国政府による虐殺で密航
(共産主義者が日本へ密航)
韓国は李承晩大統領の元、国内にいる共産主義者を徹底的に弾圧します。
なんと民間人114万人が虐殺されました(保導連盟事件)。
共産主義者は北へ逃れようとしましたが、すでに朝鮮戦争は激化しており、国境を越えられません。しかし南に残っても殺されてしまう。
済州島民に続き、真っ赤に燃える共産主義者の若い男性達もまた、日本にいる同胞を頼り密航したのです。
この共産主義者たちは在日本朝鮮人連盟(朝連)へ入り込み、日本共産党の支援の元で組織を左傾化させます。朝連はGHQにより解体させられるも1955年に再結成。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)となりました。
1952年・サンフランシスコ講和条約
(特別永住資格)
「朝鮮人は朝鮮半島の国家に帰属する民族」と法的に定義され、日本と完全に切り離されました。
日本は大韓民国を統一政府として帰国を打診しますが、なんと韓国政府は在日の引き受けを拒否します。
・共産主義者に来られたら困る
・仕事も食料も無いため来られたら困る
在日は、国籍国もなければ住む国もない民族となってしまったのです。
そこで日本政府は当座の処置として、日本国籍の外国人から朝鮮籍の外国人とした上で、統一国家誕生までは特別な資格無しでも日本に在留できるようにしました(永住資格)。
1953年・朝鮮戦争休戦
朝鮮戦争で焦土と化しており、仕事もなければ食料もない。逆に日本は朝鮮特需で好景気。在日朝鮮人は日本に残る選択をしました。
当時の朝日新聞によると、「在日韓国・朝鮮人は、日本政府や連合国による帰国手配を拒み、自ら残留した」とあります。
生活基盤を作れたのにわざわざ帰国する在日はおらず、むしろ韓国から命がけで密航してくる人が増える始末。日本政府は、新たに密入国した韓国人にも「特別永住資格」を与えました。
1955年・北朝鮮への帰還事業
1955年、ついに密入国者は100万人を超え、収容施設は完全にパンク。韓国政府は引き受け拒否し続けるため、日本政府は頭を痛めます。
そんな時、北朝鮮へ帰国しようとする運動が起きた。
当時は北朝鮮の国力は韓国を凌駕していたため、日本での貧しい生活から抜け出したい在日朝鮮人は帰還事業に参加します。
日本政府もこれ幸いと後押しした。
「在日朝鮮人の北朝鮮への帰還」と聞けば、半島北部出身者を送ったと思うじゃん。違うのよ。上述の通り、日本にいる半島出身者はほとんど南部生まれ(ほぼ密航者)。つまり、韓国民を北朝鮮へ送ったようなものなんです。
一緒に渡った日本人妻もいたんだから目も当てられない。
閑話休題・在日朝鮮人なのに日本に忠誠を誓った人達
在日朝鮮人・在日韓国人の多くは密航者ですけど、戦後、一旦半島へ帰ることなく、日本へ強い愛国心を持って残った人達もいました。
在日第一世代には、日本人として太平洋戦争を戦うことを誇りに思い、天皇陛下万歳を叫び、皇国のため粉骨砕身し、大和魂を持って日本に残った朝鮮人がいる。高い国家観と忠誠心を持つ人達です。
彼らは、天皇陛下とのつながりを断ちたくなかった。日本とのつながりを持ち続けたかった。韓国籍なんていらない。帰国する気もない。ただひたすら〝日本人〟でありたい。ゆえに、日本が統治した〝朝鮮〟の籍を捨てず、日本に骨を埋めました。
もちろん彼らは共産主義でもなんでもありません。北朝鮮とも無関係。現在はほぼ他界し、子孫は日本に帰化しています。
ごく少数ではありますけど、かつてはそんな「在日朝鮮人」もいたことを覚えておきたいですね。
1965年6月22日・日韓基本条約調印
(韓国籍を選んだ人が在日韓国人(より優遇)、選ばなかった人は永住資格のまま)
日韓法的地位協定により〝在日韓国人〟の法的地位が決まります。韓国籍を申請した人は「日本に住む韓国人=在日韓国人」となりました。
〝在日韓国人〟の誕生
しかし彼らはもともと日本国民(大日本帝国臣民)ですし、敗戦から20年もずっと日本に住み続けてる。そこで政府はこれまでの在留資格より優遇される「協定永住」を付与し、日本での永住が許可されました。
韓国籍を選ばなかった在日朝鮮人は、そのまま古い永住資格のままです。
1991年11月1日・協定永住と永住資格を一本化
(一本化 特別永住許可へ)
在日韓国人の協定永住と、在日朝鮮人の永住資格を一本化し、特別永住許可(特永)となりました。
特永は一般の永住許可と比べ大きく優遇されています。例えば永住許可は素行良好で生計を立てるだけの資産を求められますが、特永はそんなもん無関係。国家レベルの重大犯罪でも犯さない限り強制退去になりません。
その後、小泉訪朝により北朝鮮は拉致を認めます。同時期に朝銀も破綻したことで、物心両面で在日朝鮮人は追い込まれました。結果、朝鮮籍を捨てて韓国籍へ移る人が続出しました。
在日といっても様々
1・日本への愛国心を持った在日
2・済州島虐殺から逃れ密入国した在日
3・朝鮮戦争による経済的困窮で密入国した在日
4・共産主義者虐殺から逃れ密入国した在日
保守派が嫌悪する〝在日〟ってどれですかね。たぶんきっと、こんなに分かれてることを知らず、全部ひっくるめて「帰れ!」と言ってるんじゃない?
在日コリアンには、自民党支持者もいれば民主系支持者もいる。参政権を求める人もいれば、気にしない人もいる。今後も帰化が進みつつ共存していくことになるでしょう。
朝鮮半島で統一国家が誕生した場合、どうなるんでしょうね。おそらく特別永住許可は廃され、他国と同様の永住許可になると思われます。もちろん強制送還は無いでしょう。その時初めて〝在日〟の戦後が終わるのかもしれません。
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以上
強制連行自体も嘘なのですが、とにかく、戦前に日本に渡った朝鮮人は現在殆どいません。
戦後、密航してきた人達が今の在日だということがわかります。
強制連行はなかった
大正12年、朝鮮半島から月に3万人も内地に朝鮮人が押し寄せてくるために、内地の先住朝鮮人が渡航差し止め運動を始めたという記事。
※1923年4月23日付 大阪毎日新聞 神戸大学付属図書館 蔵
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