「神なき江戸」に生まれた信仰。京都や大阪にはない“七福神”を家康のブレーン天海僧正がプロデュースした理由

日本の文化

江戸の都市計画は、古代中国から京都につながる碁盤の目のような町割りではなく、有機的な螺旋構造をモデルにしている。そのため、江戸は拡大を続けることができた。

また、平和な時代に相応しい産業都市をも目指していた。それが具体化したのが「日千両」と言われた三つの場所、日本橋の魚河岸、浅草猿若町の江戸三座の芝居、吉原遊郭である。これらは、いずれも町人の消費が主役だった。

当時の欧州も中国も消費の主役は、王族や貴族、豪族だった。これは、江戸以前の日本も同様である。しかし、江戸幕府は王族、貴族は京に、大名はそれぞれの領地に留まらせ、江戸は全く新しい町人の町を作ったのである。

その基盤になるのは、人々の信仰である。家康と天海は権力と結びついた古い神々を切り捨て、新しい神々と新しい信仰を創り出した。江戸には、そんな宗教改革都市の一面があったように思う。

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宝船に乗り人々に福を運び来るという七福神。一説では徳川家康の「ブレーン」であった天海という僧が江戸の地に七福神信仰を広めたとされていますが、そこにはどのような意図があったのでしょうか。今回のメルマガ『j-fashion journal』ではファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、七福神の構成を改め

「神なき江戸」に生まれた信仰。京都や大阪にはない“七福神”を家康のブレーン天海僧正がプロデュースした理由

宝船に乗り人々に福を運び来るという七福神。一説では徳川家康の「ブレーン」であった天海という僧が江戸の地に七福神信仰を広めたとされていますが、そこにはどのような意図があったのでしょうか。今回のメルマガ『j-fashion journal』ではファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、七福神の構成を改めて紹介するとともに、家康と天海の「狙い」を推察。さらに江戸という都市が持ち合わせていた特徴について考察しています。

神なき江戸の七福神

1.江戸が排除した神々

徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、武家政権、武家勢力と対抗した神社、寺院は排除されている。この作業には寛永寺を創建した天台宗の天海が大きく関わったと考えられる。

鎌倉時代から武家政権に対し、京都の公家勢力は常に討幕を仕掛けていた。そのため、江戸には京都を本拠とする天津神系の神社は少ない。多くの江戸の神社は国津神系の神社である。

反対に公家が嫌う怨霊となった平将門、菅原道真、崇徳天皇の神社は、鬼門、裏鬼門に配置されている。

信長と敵対していた比叡山、石山本願寺系の勢力もない。江戸の裏鬼門を守る増上寺は徳川家の菩提寺である。

浅草寺は徳川家の祈祷所にもなったが、独立系の寺院で宗教色は薄い。浅草寺の本尊は聖観音で、628年に檜前浜成・武成兄弟が江戸浦で漁をしていた時に発見されたものである。浅草神社の祭神は、土師真中知命と、観音像を拾った檜前浜成命、檜前武成命の兄弟だ。

江戸には関西にあるような巨大な神社、寺院は存在しないのだ。江戸は宗教的空白地域だったといえる。

2.世界の福の神が乗る宝船

そんな神なき江戸に生まれたのが七福神信仰である。一説によると、七福神をプロデュースしたのは天海だという。

七福神を構成する神々は以下の通り。

大黒天だいこくてん

元々ヒンドゥー教の神であり、シヴァ神の別名で「マハーカーラ」とも呼ばれている。後に仏教に取り入れられ、日本では主に富と繁栄の神として信仰される。

毘沙門天びしゃもんてん

毘沙門天は仏教の守護神で、インドの戦神ヴァイシュラヴァナが起源。七福神の中では武将の姿をしており、戦勝と財宝の神とされる。

恵比寿えびす

恵比寿は唯一の日本由来の神で、大和民族の神道における神である蛭子(ひるこ)に由来している。商売繁盛や漁業の神として広く信仰されている。

弁財天べんざいてん

弁財天はインドのヒンドゥー教の女神サラスヴァティが起源。芸術や学問、音楽の神として信仰されている。琵琶を奏でる姿で有名。

福禄寿ふくろくじゅ

福禄寿は道教に由来する神。寿命と幸福、財運を司る神とされている。中国の道教と儒教に源がある。

寿老人じゅろうじん

寿老人も福禄寿と同様に道教に由来する神で、長寿と健康の神とされている。頭には桃を持ち、丹が効くとされる杖を持っている。

布袋ほてい

布袋は中国の実在の僧侶、契此(けいし)がモデルで道教の神でもある。大きな腹と笑顔が特徴で、満足と幸福を象徴している。

以上のように七福神の構成は宗教も国籍もバラバラだ。どう考えても誰かが何らかの意図を持ってキャスティングしたとしか思えない。

3.ビジュアル系神様

私は、七福神は由来よりもビジュアル中心で選ばれたのだと思う。ビジュアル系神様だ。現在に例えるなら、ハッピー戦隊七福神であり、招福キャラクター軍団のようなものだ。

これを天海が考案したとすれば、天海という人物はアニメや漫画が好きなオタクに通じるセンスの持ち主ではないか。

このセンスは、市川団十郎の歌舞伎十八番に登場するスーパーヒーロー的主人公や、絵草紙や北斎漫画のキャラクターにも通じている。

七福神は、宝船に乗っている。見るからに福々しい異国の神々が集団で押し寄せるのだから、こんなに縁起の良いことはない。

恵比寿は蛭子(ひるこ、えびす)が起源の日本の神といわれているが、蛭子は船で旅立った神である。そして、恵比寿は、夷、戎、胡の字もあてられる。夷はえみしで異民族を表し、戎は中国の西部および北部に住んでいた遊牧民族を表し、胡も古代中国において北方や西方の異民族を表している。恵比寿という名前は異民族を表す言葉なのだ。

なぜか、異世界の福の神が宝船に乗り合わせて海を越えて日本にやってくる。それが七福神である。

4.江戸は宗教改革都市

江戸の都市計画は、古代中国から京都につながる碁盤の目のような町割りではなく、有機的な螺旋構造をモデルにしている。そのため、江戸は拡大を続けることができた。

また、平和な時代に相応しい産業都市をも目指していた。それが具体化したのが「日千両」と言われた三つの場所、日本橋の魚河岸、浅草猿若町の江戸三座の芝居、吉原遊郭である。これらは、いずれも町人の消費が主役だった。

当時の欧州も中国も消費の主役は、王族や貴族、豪族だった。これは、江戸以前の日本も同様である。しかし、江戸幕府は王族、貴族は京に、大名はそれぞれの領地に留まらせ、江戸は全く新しい町人の町を作ったのである。

その基盤になるのは、人々の信仰である。家康と天海は権力と結びついた古い神々を切り捨て、新しい神々と新しい信仰を創り出した。江戸には、そんな宗教改革都市の一面があったように思う。

編集後記「締めの都々逸」

「初物好きな 江戸っ子だから こんなのどうよ 七福神」

七福神は奇天烈です。とても江戸っぽいと思います。

中国の神様もインドの神様も日本の神様も一つのチームです。韓国人と日本人混合のアイドルグループの上を行っています。

このセンスは京都や大阪にはありません。シュールでパンクなビジュアル系神様です。ビックリマンにも見えます。

現在の漫画やアニメに共通するセンスが江戸にはあります。そう考えると、天海さんって、かなりポップでオタクな人だったのでしょうね。(坂口昌章)

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