日本に存在する古墳の数は16万基から20万基と言われています。
日本において古墳が作られた時代を古墳時代と呼ばれ、日本の歴史における弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代を指します。
古墳の建造は畿内、瀬戸内海沿岸の地域から始まり、全国各地に広まっています。
一般的に、古墳はその地域の指導者や有力者の墓だと言われています。或いは水田や水路の造成残土を活用したモノだという説もあります。
いずれにしても、古墳が全国各地に存在すると言うことは、各地域に指導者や有力者がいた、そして、それぞれの地域で自治を行っていた・・・墓であれ、土木工事であれ、集団統合されていたと言うことではないでしょうか。
当時、大和朝廷が日本全国を統治していた、と言うイメージより各地域が自治を行い、大和朝廷が緩やかな統治、統合を行っていた・・・このような国のイメージが近いように思います。
江戸時代も同様で、各藩が独自に自立した、地方自治を行っていて、徳川幕府は緩やかに各地域を統治していたのが事実です。
西洋社会における国家体制のように、古代からの支配・被支配の関係だけが国家のシステムでは無いと思います。
この事は、これからの国家、国家システムを考える上で重要な事実だと思います。
古墳時代年表
西暦 | 主な出来事 |
---|---|
3世紀半ば | 前方後円墳が出現する |
247年頃 | 卑弥呼が死去、大きな墓が造られる |
266年 | 倭の女王・台与、晋に遣使する これ以降、316年までは書物による記録はない |
4世紀 | ヤマト王権による統一が進む |
4世紀前半 | 巨大な前方後円墳が数多く造営される |
316年 | 仁徳天皇が民衆の税を三年間免除する |
369年 | 倭国、朝鮮(伽耶(任那))に出兵※近年では否定説あり 百済王の世子、倭国に七支刀を贈る |
391年 | 倭、高句麗と戦う |
413年 | 倭国、東晋に遣使する |
421年 | 倭の五王の倭王讃(さん)、中国南朝の宋に遣使し、宋の武帝から称号を賜る |
5世紀半ば | 各地に大規模な古墳が出現 |
425年 | 倭王讃が再び宋に遣使、貢物を献上する |
438年 | 倭王珍(ちん)、中国南朝の宋に遣使し、「安東将軍 倭国王(あんとうしょうぐんわこくおう)」となる |
443年 | 倭王済(せい)、宋に遣使し、「安東将軍 倭国王」となる |
451年 | 倭王済、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」となる |
462年 | 倭王の世子興(こう)、「安東将軍 倭国王」となる |
478年 | 倭王武(ぶ)、宋に遣使氏、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」となる |
507年 | 武烈天皇(ぶれつ)に子がなく、北陸から継体天皇(けいたい)が迎えられる |
522年 | 渡来人の司馬達等が草庵で仏像を拝む(民間では既に仏教が伝来していたと推測される) |
527年 | 磐井の乱、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が反乱を起こし、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧される |
538年 | 百済の聖明王(せいめいおう)が仏像・経典を伝える(仏教公伝) |
540年 | 大伴金村が任那4県割譲問題で失脚 |
552年 | 仏教を巡り、祟仏論争(すうぶつ)が起こる |
585年 | 物部守屋(もりや)、仏殿を焼き、仏像を捨てる |
587年 | 丁未の乱で、蘇我馬子、泊瀬部皇子(はつせべのみこ:崇峻天皇)、厩戸皇子(うまやどのみこ:聖徳太子)らと共に、物部守屋を滅ぼす |
588年 | 飛鳥寺の造営が始まる |
592年 | 蘇我馬子、崇峻天皇を殺害する 推古天皇が飛鳥・豊浦宮で即位(飛鳥時代の始まり) |
593年 | 聖徳太子、推古天皇の摂政となる |
594年 | 仏教(三宝)興隆の詔(みことのり)が出される |
6世紀末 | 前方後円墳が築かれなくなり、古墳の規模が縮小していく(古墳時代の本格的な終焉) |
600年 | 阿毎多利思比孤(アマ・タリシヒコ)が隋に遣使される ※この時の遣使は、国書を持っておらず、隋から相手にされなかった為、日本側の歴史には残っていない |


古墳の数は16万基、コンビニの約3倍! 日本が誇る「巨大な古墳」ができるまでの14プロセス


コンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が国内に存在するのをご存じだろうか。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。第1回は「古墳ができるまで」。
世界的にも特異な形状と規模 土製建造物の技術の到達点
エジプト・ギザのピラミッドや中国の始皇帝陵とよく比較される古代権力者の墓が日本最大の古墳・大山(仁徳陵)古墳である。
墳長は486mで、航空写真で見て初めて鍵穴のような形の全体像を見ることができる巨大さだ。
この大山古墳は、巨大古墳が相次いで築かれた古墳時代中期前半の築造だが、古墳時代初期でも墳長280mもの巨大な箸墓古墳が築造されていた。
いったい、これほどに大規模な埋葬施設はなぜ築かれたのか。そもそも古代人はいかにして、この途方もない大きさの古墳を築き上げたのか。
それは文献にはいっさい記されていないが、調査成果や出土品などからおおよそ推定できる。
何事もそうだが、古墳の築造も、まず建設地を決めることから始まる。
冒頭に挙げた大山古墳は、堺の港付近の台地端部に造られているが、これは海から来る人々に、その威容を見せつけるためであった。
場所が決まれば、地面に杭や縄で測量し設計図を描いた。広大な古墳築造には木の伐採もかなり多く行われただろう。
それが終わると、次に土を掘って墳丘の土台などから土を盛り上げていく。土を固め石室を造ればほぼ完成だ。ただ、まさに言うは易し、その完成には小さいものでも数年、長大な前方後円墳なら数十年かかったとみられる。
古墳ができるまで
現代のような大型機械やトラックのない時代、古墳のような大規模なものをつくるのは困難であった。古代人がどのような技術で、どれほどの人手や予算で古墳を築造したのか。文献史料はなく、実地の調査や出土品などをもとに考えるしかない。また、文化的な影響を受けたと思われる中国や朝鮮半島との比較からも、ある程度は類推することが可能である。
1 古墳を設計する
建物を造る場合、実際より小さな模型を作成して完成イメージを共有する。それと同様のことが古墳でも行われていたはずだ。
2 用地を選定
古墳は被葬者の権力を示すものであるため、多くの人に見てもらえる山や丘など、人々が往来する交通の要衡が選ばれた。
3 予定地の木を伐採
木の伐採は広範囲におよび森林を伐採して用地を確保する。大山古墳など全長数百m規模のものは多くの森林が伐採されただろう。
4 用地をならす
伐採が終わると、今度は地面・基盤をならして整える。巨大な古墳ともなれば固い地盤であることも用地選定の絶対的な条件だった。
5 測量を開始
最初の設計図をもとに、杭と縄を用いて測量したと思われる。これが終わると設計図を地面にも正確に描いていく。
6 地面に設計図を描く
手の指や足の歩幅など人間の体を使って測る身度尺、水田などを方形に区画した方格地割の技術などが用いられたと考えられる。
7 周囲の土を掘る
地面に描いた設計図に沿って、古墳の周囲を掘削し、掘り下げることで空堀や濠になる。また掘った土で盛り土を確保できる。
8 土を盛り上げる
掘削して得られた土を古墳内面に盛土する。採土場である濠から網状編んだモッコに土を入れオウコ(天秤棒)で担いで運んだ。
9 盛土を固める
盛土は最初に周囲に溝を掘り、その外側を土手状に高くして土で埋めてから固め、それを何度も繰り返して高くしていく。
10 石を運ぶ
古墳の斜面は、むき出しではなく、石が葺かれていた(葺石)。そのための石が河原や石切り場、石材置き場から運ばれた。

11 葺石を葺く
各斜面に葺石がはめ込まれることで古墳表面が石に覆われ、雨水からも保護された。装飾が施されていったと思われる。
12 石棺を造る
石棺は輸送中に傷つくことがあるため、ある程度完成させてから、現場近くで石工が最後に仕上げていたとみられる。
13 石室を造る
墳丘内に石室を造る。石棺を安置する玄室までの羨道(通路)が、石棺より狭い場合は、玄室内に石材を運び入れて石棺を造った。
14 完成
石室内部の装飾を行い、墳丘上に埴輪などを並べて完成となる。こうして、埋葬の日に備えられたとみられる。
天皇にだけ許された前方後円墳から下位のリーダーも入った円墳まで 古墳の「形」と「大きさ」の謎

日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。 第2回は「古墳の形」について。
時代に応じて変化・進化 形や大きさの法則性を探る
ひと口に古墳といっても、その形には様々なものがある。大きくは「前方後円墳」「前方後方墳」「円墳」「方墳」の4つに分けることができる。その大きさや形状は、埋葬された人(被葬者)の階層によって決められていた。
たとえば、多くの人に馴染みの深い「前方後円墳」は古墳の最上位に位置する。上から見れば鍵穴のような形をしていて、大王やその一族および、大和政権と密接な関係を持つ有力な首長が埋葬されたと考えられる。3世紀中頃に成立した形で、7世紀初め頃までの約350年間に造られた。前方後円墳は全国に約4700基あるが、被葬者の位によって大きさにも差があり、大山古墳のような巨大な規模のものは大王(天皇)のみに築造が許されていた。
それに次ぐクラスの墳形が「前方後方墳」で、形状は「前方後円墳」に似ているが、後部も方形・台形に造られたという点で違いがある。こちらも各地の首長層に造られたと考えられるが、中央政権(大和政権)からの格付けは、前方後円墳の下位であったとみられる。その数は全国で約500基と比較的に少ない。造られたのが主に3世紀から4世紀末頃までに限定されていることもその理由だろう。
それらに比べ「円墳」や「方墳」などは下位に属する古墳であるだけに数も多い。古墳は全国に約16万基あるといわれるが、9割を占めるのが「円墳」だ。その理由は、首長層(各地の政治的リーダー)の下位の中間層にまで、造墓が及んだ政治的理由に基づく。7世紀後半になっても築造が続いた。サイズは小型のものが多いが、埼玉県にある丸墓山古墳のような大規模なものも存在する。
「方墳」は5〜6世紀の大王墓など巨大前方後円墳に付随したものも多く、7世紀になると大型のものが多くなる。それは「前方後円墳」の築造が終わりを迎えた時期でもあり、代わって大王や有力首長の墓として方墳が築かれたためだ。大阪府にある春日向山(用明陵)、蘇我馬子の墓と推定される石舞台古墳(奈良県)などが有名である。
古墳のランクとは?
古墳の大小の差と形状は一見、無作為にも見えるが、実際は被葬者の位や大和政権との距離に応じ築かれるものが決まっていた。大和政権が君臨した畿内の一部では前方後円墳を頂点とした墓制が敷かれ、全国に広まった。

仁徳天皇凌はクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に匹敵する! 「前方後円墳」大きさランキング

日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを6回にわたって伝授する。第3回は古墳を代表する形といえばこれ「前方後円墳」について。
より大規模に墳丘を高くして権力の象徴となっていった
古墳のなかで最上位に位置する「前方後円墳」の特徴は、やはり、その大きさと独特の形状である。
墳長は大山古墳(大阪府)の486m、誉田御廟山古墳(大阪府)の425mが2トップ。それ以外に300mを超えるものが上石津ミサンザイ古墳(大阪府)、造山古墳(岡山県)、河内大塚古墳(大阪府)など西日本に6基あり、200mを超えるものを含めると合計39基。200m以上の古墳はいずれも前方後円墳に限られる。
きれいな鍵穴の形の古墳もあれば方形部がやや細めや太めに造られるなど、築かれた時代の流行が認められる。たとえば3世紀の箸墓古墳(奈良県)は、被葬者が埋葬された後円部より前方部が細く、前方部の頂から後円部の方向に向かって緩やかなスロープを描く。
同じ奈良県でも、その少し後、3世紀後半の西殿塚古墳は後円部の最上段がやや高く、4世紀の行燈山古墳、渋谷向山古墳は突出して墳丘の最上段が高くなっている。また5世紀前半には前方部の幅が後円部の直径を超えるものが現れた。古墳時代中期に向け、全体的に巨大化していったのも、被葬者の権力を示すための動きとみられる。
後円部で注目すべきは、墳丘上に設けられた方形の区画である。周囲を円筒埴輪で方形に囲み、さらに墳丘頂上の周囲にも円形に円筒埴輪を置いた。円形は神々の住まう天、方形は人々の住まう地を表すと考えられ、被葬者が統べていた共同体の再現および、土地の豊作と繁栄を願ったと考えられる。
ただ、この前方後円墳は7世紀初めになると築かれなくなり、用明天皇(聖徳太子の父)の頃以降、大王の古墳も方墳に変わる。聖徳太子が主導した天皇を中心とした中央集権国家体制が指向された時期に重なり、前方後円墳を権力の象徴とする体制が転換されたと推測される。

三大陵墓の比較
世界三大墳墓の一つに数えられる大山古墳。高さではピラミッドが世界一だが、全長で比べると230mのピラミッド、350mの始皇帝陵を上回る。
比較すると大山古墳の巨大さがわかる。
盗掘の被害にあいやすい古墳もあった!? 「竪穴式」と「横穴式」内部構造の意外な秘密

コンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が国内には存在する。その種類や造営方法など、古墳見学を楽しむハウツーを伝授する基礎講座を5回にわたってお届けする。第4回は竪穴式石室、横穴式石室など「古墳内部の構造」について。
内部構造も被葬者および時代によって大きく変遷した
古墳は古代人の墳墓である。その中心部には当然ながら遺体を安置するための施設が設けられた。そこに置かれていた棺は遺体を納める箱、槨は棺を覆う粘土や木炭、石などのこと。石室は棺を安置した空間のことである。
まず石室だが、これには竪穴系と横穴系の2種類が存在し、古墳時代の前期、3世紀の段階では竪穴系が主流であった。墳丘の頂上部に長方形の穴(墓壙)を掘り、その中に埋葬する形式である。墓壙の底に板敷を敷くなどして基盤とし、さらに棺を支えるために粘土を敷いて粘土床をしつらえたり、砂利を敷いたりして棺を安置した。
なお、粘土床などが設けられたのは上位の人物に限られ、下位の人物の場合は粘土床もなく、棺を土中にじかに埋葬する直葬が行われていた。
全体に防腐用のベンガラ、祭祀用の顔料の水銀朱を塗布して埋めて蓋をし、そこに石を積んで厳重に密閉された竪穴式石室、粘土槨、木槨、木炭槨、礫槨、石槨などからは、木棺に納めた亡き首長の遺骸を保護・密閉・辟邪するという思想が読み取れそうだ。
前期末から中期初頭(4世紀末〜5世紀はじめ)以降、古墳の墓室は横穴式石室に変化した。頂上ではなく墳丘の側面に入口が設けられ、墳丘の中心部に向かって羨道が延び、その奥に石造りの玄室がある。これは朝鮮半島の百済の影響を最も強く受けた九州にはじまり、5世紀末に西日本にも広がった。
竪穴系との機能的な違いは、棺を納めたのちも玄室に出入りすることができるという点である。竪穴系の場合は埋められて密閉されるため、塞いでしまうと二度と開けることはできなかった。そのため被葬者は1人が多い(2〜3人の人骨が出る場合もある)。
横穴式の場合も入口は閉塞石で塞がれたが、それを開ければ、同じ石室に複数人を埋葬(追葬)できるという違いがある。ただし、出入りが容易なぶん、盗掘の被害にも遭いやすいというデメリットも見逃せない。被葬者を納めた棺については主に木棺と石棺の2種があった。古墳時代初期は木棺であったため、近現代に発見された木棺は長い年月をへて朽ちてしまい、ほとんど残っていない。ただ、その痕跡から棺の全長が5mから8mという長さに達するものもあったことがわかっている。これは副葬品も棺内に入れるためであったと思われる(2024年2月6日、奈良市の富雄丸山古墳から、奇跡的にほぼ当時の姿のまま残る「割竹形木棺」が出土。木棺内からは金属反応もあり、今後の調査が期待される)。
前期後半からは石棺が使われるようになる。4世紀に木棺の形を石をくり抜いて造った割竹形石棺が讃岐地方に現れている。4世紀末には同じく木棺の形をもとにした舟形石棺が造られ、また同時期から5世紀のはじめには長持形石棺が造られるようになる。これは6枚の板石を加工して組み立てるなど手のかかったもので、被葬者の権威をあらわすもので「王の棺」と呼ばれたりもする。

(イラスト/蓬生雄司)

高松塚古墳とキトラ古墳の壁画から読み解く 古代人が装飾や壁画に込めた「霊魂への思い」

コンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が国内には存在する。その種類や造営方法など、古墳見学を楽しむハウツーを伝授する基礎講座を5回にわたってお届けする。 最終回の第5回は鮮やかな壁画が人気の「壁画古墳」について。
古代人の思いが込められた装飾や壁画には何が?
古墳のなかには、石室内に鮮やかな壁画や装飾が描かれたものがある。まず壁画で有名なのが、奈良県明日香村にある高松塚古墳とキトラ古墳だ。
高松塚古墳の壁面には四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)および男女の群像が、じつに色鮮やかに描かれている。またキトラ古墳には天文図、十二支像、四神の壁画が残っていた。いずれも大陸文化の影響を強く受けた壁画で、壁画古墳と呼ばれている。ただ、この2つの古墳は古墳の装飾のなかでも例外的なもので、装飾古墳とは系統が異なる。どちらも古墳時代の終末期(7世紀後半から8世紀初頭)にかけて描かれたとみられる。
では、装飾古墳とは何だろうか。成立は先の壁画古墳よりも古い5世紀であり、当初は石棺の蓋や側面などに、装飾が見られた。それが、次第に内部の壁面に絵や文様が描かれるようになる。図文には刀や弓、楯や靫といった武器・武具や人物や船や鏡、遅れて鳥や魚や木葉なども描かれたりする。最初は彫刻で浮彫りされ、彩色は赤色顔料だけが使われていたが、6世紀以降は彩色だけで文様が描かれた。彩色は赤・黄・緑・青・黒・白があり、古墳によって使われる色の数は異なる。こうした文様は時代が進むごとに色彩も豊かなものになっていった。福岡県の王塚古墳は室内のほぼ全面にわたって描かれた様々な壁画に先の青以外の5色が使われ、じつにカラフルである。
ただ見比べると、こうした装飾古墳と先の2つの壁画古墳の壁画とでは、かなりタッチや色合いの違いがあり、性質が異なることがわかるだろう。
装飾古墳の数は日本全国に約700基と多く、しかもその半数近くは九州にあり、とくに福岡県、熊本県に集中する。その理由は明らかではないが、大半は横穴式石室であることから見ても亡き首長の霊魂の住処である墓室を守護するという観念に基づくと考えられる。
さて、装飾古墳には幾何学模様をはじめ、武具や鳥獣といった図柄あるいは彫刻がある。それらは古代の人々の美意識や死生観といったものを考えるうえで、非常に貴重な資料でもある。
たとえば熊本県の井寺古墳に見られる直線と弧線を組み合わせた「直弧文」という幾何学模様。これは邪悪なものを避けたいとの思いで描かれたとみられる。
また福岡県の日岡古墳など円形の模様は、魔よけやまじないに使った鏡をかたどったものと考えられている。そして馬や船の画は、それらに乗って死後の世界、すなわち横穴式石室へ行くと考えられていた。
壁画古墳
壁画古墳とは、横穴式石室の壁に人物・四神・武器・武具などの図像や幾何学文が描かれたものをいう。高松塚古墳・キトラ古墳の2例が知られる。
[キトラ古墳]
奈良県高市郡明日香村、高松塚古墳の南約1kmにある。古墳時代終末期(7世紀末から8世紀初め)。直径約14m、高さ4mの円墳。

(イラスト/蓬生雄司)
[高松塚古墳]
古墳時代終末期、奈良盆地南部の丘陵上に築かれた円墳で直径18m、高さ5m。凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨。石室の壁に四神、星宿と人物像の彩色壁画が描かれていたことで著名。石槨は長さ2.7m、幅1m余、高さ1.2mである。

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