JOG(1373) 国柄に根ざした帝国憲法はいかに生まれたのか?
明治天皇が体現された歴代天皇の「民安かれ」の祈りが成文化されて帝国憲法が生まれた。
■1.「臣民の権利」か「おかすことのできない、永久の権利」か
ある中学公民教科書の憲法のページを読んでいて、この執筆者は憲法を学んだことがあるのか、と疑問に思いました。そこには、大日本帝国憲法と日本国憲法の比較表が出ていましたが、「人権」の項は、以下のように記述されています。
大日本帝国憲法:「臣民ノ権利」(法律によって制限)
日本国憲法: おかすことのできない、永久の権利として認められる(基本的人権の尊重)
そもそも日本国憲法にも、憲法12条では、国民の自由及び権利は「これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」、第13条でも国民の権利は「公共の福祉に反しない限り」と「制限」がついています。
「法律によって制限」されない「おかすことのできない、永久の権利」を強者が振り回したら、弱者の基本的人権を守ることはできません。こんな記述では、中学生たちは「公民」が知るべき法治主義の常識すら持つ事はできません。
■2.帝国憲法のどこが「天皇主権」なのか?
もう一つのトンデモ記述は「主権」の項です。
帝国憲法: 天皇主権 日本国憲法: 国民主権
帝国憲法には「天皇主権」などとは書いてありません。そもそも立法権、行政権、司法権とも、天皇が独裁権限をふるえないようになっているのです。
・第5条 天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う
議会が議決した法案は、天皇の裁可によって公布・執行されるというだけで、天皇が議会の同意なく勝手に法律を公布する事も、議会が議決した法律を裁可しないことも憲法違反とされていました。
・第55条(行政権)
(2)すべて法律勅令その他国務に関る詔勅は国務大臣の副書を要す
・第57条(司法権)
(1)司法権は天皇の名において法律により裁判所これを行う
天皇はあくまで「国民の安寧を追求する」という国家理念の体現者であり、その権威のもとで、議会、内閣、裁判所が、それぞれ立法、行政、司法の3権を行う、という権威と権力の垂直分担が図られていました。
たとえば、明治天皇は日清戦争には「閣臣らの戦争にして、朕の戦争にあらず」とまで言われて反対でしたが、帝国憲法の定めにより、内閣の開戦の決定に従いました。これのどこが「天皇主権」でしょうか? ここは日本の国柄で最も重要な点で、本来、日本国の「公民」はこの点を弁えて政治参加しなければなりません。この「公民」教科書では「公民」は育ちません。
■3.立憲政治の高いハードル
アジアで最初の近代憲法の制定で、我が先人たちがどれほどの苦心を続けたのかを考えれば、こうしたトンデモ教科書には心が痛みます。
日本の前に、オスマン帝国(トルコ)が近代憲法を1876年に公布していました。しかし、公布の2年後、ロシアとの露土戦争に完敗した皇帝アブデュルハミト2世はロシアと講和し、その非常事態を理由に、憲法の施行を停止、以後、専制政治を続けました。ここから東洋的な専制帝国では近代憲法など無理、というのが、世界常識になってしまいました。
明治日本が欧米諸国に不平等条約の改正を申し入れるにも、憲法の下での法治国家であることを示さざるを得ず、しかも立憲政治に失敗したら国内はまた大混乱に陥りかねない。明治日本にとって、立憲政治への挑戦とは、そのような高いハードルでした。
■4.「国会開設は未曾有の大変革にして、もしこれが失敗したら」
その苦闘の中心にあったのが、明治天皇でした。明治14(1881)年10月12日に天皇は、明治23(1890)年を期して憲法を定め、国会を開設するという「国会開設の詔(みことのり)」を発せられました。自由民権運動の盛り上がりとともに、政府内でも大隈重信の急進論と、伊藤博文の漸進論が対立して、大隈が追放されるという「明治14年の政変」の混乱の最中でした。
翌年3月14日に伊藤博文は欧州へ憲法調査に出発しますが、その直前に天皇は太政大臣・三条実美(さねとみ)に次のような勅旨を与えています。
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国会開設は未曾有の大変革にして、もしこれが失敗したら、数千年来の歴代天皇に対し、また今後百世の子孫に対し、その責任は我が身にあると、昨冬以来、苦慮を続けている。外国で調査する伊藤と、国内で準備にあたる閣僚たちは、心を合わせて取り組んで欲しい。[渡辺、p433、伊勢意訳]
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参議一同は、天皇の御懸念に感激して、一致協力してその成功を期すべき旨を奉答しました。
しかし、この「未曾有の大変革」とは、外部から与えられた受け身的な課題というだけでなく、明治日本が自らの未来を切り開いていくための主体的な挑戦でもあったのです。
明治天皇は、即位の直後の明治元(1868)年、いまだ戊辰戦争の最中にも関わらず、五箇条の御誓文を国是として発せられました。そこには「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という、後の議会政治に通ずるビジョンが示されていました。
また、「官武一途庶民に至る迄、各々その志を遂げ」と、人々の自由活発な志を通じて、国を興す原動力となすべきことを述べています。イギリスの立憲政治を基にした国民の自由闊達な努力が大英帝国を築いたように、明治天皇も国民の志が原動力となって国家の隆盛発展を招く、その基盤としての立憲政治を目指していたのです。
■5.明治天皇の熱心な憲政のご勉強
明治3(1870)年から、明治天皇は西洋政治学、三権分立、市町村自治、欧米憲政史などを学び始めます。明治8(1875)年まで、侍講(天皇の教師)加藤弘之・文学・法学博士(後の東京帝国大学総長)が原書からのご進講を続けました。加藤は次のように、天皇の御修学ぶりを伝えています。
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天皇は物事を中途半端にするということなく、物事を根底から真髄まで理解されねば止まぬ、という有様でした。今日申し上げたことも、不審な点があれば、明日ご理解のゆくまではご質問された。
私は多年教育家として多数の学生にも接したが、陛下のごとく試験があるわけでもないのに、全く御自身の御修養のために学問研究に御熱心にわたらせられた人は未だ他に見たことがない。[渡辺、p394、抄訳伊勢]
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明治12(1879)年には、米国のユリシーズ・グラント前大統領が来日し、明治天皇は忌憚のない助言を求められました。前大統領は、次のような意見を述べました。
(1)国民に依拠して立つ政府は強固なので、国民の意向を察知するためにも議会は必要である。
(2)しかし、そのためには国民を立憲政治に向けて教育して、徐々に良い結果に導かなければならない。
天皇は終始熱心に傾聴され、「卿のいうことははなはだ面白い。おおいに朕が参考となる」と語られました。(1)については、五箇条の御誓文が目指していた方向に合致したものです。また(2)についても9年後の憲法発布、国会開催を約束するという漸進主義と一致していました。天皇も心強く思われたことでしょう。
さらに明治天皇は明治18(1885)年8月、侍従子爵・藤波言忠が欧州に出張した帰りに、伊藤博文が学んだウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授の許に赴き、憲法とその実施のための制度、心構えの講述を依頼させました。その講述をもとに藤波は帰国後、明治20(1887)年12月から翌年3月にかけて、夜一時間のご進講を33回に渡って行いました。
天皇は一日の政務の後での夜間ご進講ということで、お疲れもあったはずですが、熱心に聴講されました。
こういう精励ぶりから、明治天皇ご自身が立憲政治について、日本でも有数の深い見識を持たれていたことは間違いありません。
■6.憲法会議における精魂込めた条文検討
明治21年5月、伊藤博文と助手・金子堅太郎(ハーバード大学で法学専攻)などが、帝国憲法の草稿をまとめると、明治天皇は憲法会議を設けて、皇族、大臣、元勲、その他当代一流の識者を招き、一条づつの検討に入りました。
12月までに76回、午前10時から昼食を挟んで午後3時まで審議が続けられました。明治天皇は身じろぎもせず、一言も発せず、議論を傾聴されていました。その天皇の御前で、時には数時間にもわたる大激論が展開されました。天皇は10月12日の午前中のみ、病気のため欠席されましたが、それ以外はすべて出席されました。
その最中にはこんな事がありました。11月12日の会議中に、侍従が慌ただしく入ってきて、伊藤議長に耳打ちをしました。伊藤は立って、天皇に何事かを内奏しましたが、その後、会議はそのまま続けられました。
会議が終わって、天皇が退出されると、参加者たちは伊藤に何事だったのか、と尋ねました。伊藤は、皇子のお一人が亡くなられたので、天皇に議事を中止しましょうか、とお尋ねしたところ、「議事を続けよ」との仰せでした。
そして、議事が終わったところで、天皇は亡くなられた皇子の許に行かれたのです。憲法の会議は国家の公事であり、皇子の薨去という皇室の私事よりも優先すべきと考えられたのです。
毎回の会議の後、伊藤博文は草案にその日の議論による修正点などを朱文字にて書き記し、天皇に提出しました。天皇はそれをさらに慎重に検討されて、疑義があれば、ただちに伊藤議長を宮中にお召しになって、疑義が氷解するまでお尋ねになりました。伊藤の助手をしていた金子堅太郎は、こう述べています。
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世人は帝国憲法が陛下御親裁の下に成ったといえば、あるいは御裁可の御判を押させたまふのみではありませぬかと、一般に恐察するものもあるかも知れぬが、事実は決してそんなことではなく、真の御親裁で、一宇一句、総て詳細に御研究あそばされたのであります。[渡辺、p444]
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■7.「神武天皇と歴代天皇が子孫に遺された統治の理想を詳しく述べたもの」
こうして起草された帝国憲法に関して、『明治天皇』の著者・渡辺幾次郎氏は、明治天皇の叡慮は次の2点にあった、と指摘されています。
(1) 許す限り多くの自由と参政権とを国民に与えて、国民の要望・要求を満足させたい
憲法の条文は3回に渡って憲法会議で検討されましたが、草稿が、一次、二次、三次と見直されるにつれて、より多くの権限が議会に与えられました。たとえば、当初案では法律の起草は政府のみが行い、議会はそれを審議するのみとされていましたが、最終的には議会にも起草権が与えられました。
(2) 立憲政治で、我が国の伝統精神にもどり、歴代天皇の遺訓に違わぬようにしたい
この点は、シュタイン教授の「法は民族精神・国民精神の発露」という当時最先端の歴史法学の教えに合致していました。明治天皇は明治22(1889)年2月11日、帝国憲法発布の日の朝、宮中の賢所を御自ら拝礼され、皇祖皇宗(神武天皇と歴代天皇)に憲法発布を奉告しました。その告文(こうもん)は次のようなものです。
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ここに皇室典範と憲法を制定します。これはみな神武天皇と歴代天皇が子孫に遺された統治の理想を詳しく述べたものに外なりません。
現在および将来の臣民に率先して、この憲法を履行することをお誓い申し上げます。[伊藤、p173、伊勢抄訳]
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それは、明治天皇が制憲の過程で、最も願われた処でした。帝国憲法は「欽定憲法」、天皇が与えた憲法と呼ばれますが、それは神武天皇と以後の歴代天皇の「民安かれ」の祈りを明治天皇が群臣を用いて成文化させたものだからです。
■8.近代立憲政治と親和性の高い国柄に根ざしたからこそ
オリヴァー・ウェンデル・ホームズ米・連邦最高裁判官は帝国憲法を次のように評価しています。
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この憲法につき、予が最も喜ぶ所のものは、日本古来の根本、古来の歴史・制度・習慣に基づき、しかしてこれを修飾するに欧米の憲法学の論理を適用せられたるにあり。
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「日本古来の根本、古来の歴史・制度・習慣」は、近代立憲政治の議会制民主主義(日本神話の「神集い集いて」)、人権(大御宝、民安かれの祈り)、法治(神勅)と、きわめて親和性の高いものでした。
そのように大日本帝国憲法は国柄に根ざしたものであったからこそ、国民の心に広く深く浸透し、その後の法治主義の定着と条約改正、議院内閣制、政党政治などの大正デモクラシーをもたらし、近代日本の発展の基盤となったのです。
かみつよ(神つ代)の御代(みよ)のおきてをたがへじ(違えじ)と思ふぞおの(己)がねがひ(願い)なりける
この御製(天皇の御歌)は明治天皇終生の願いでした。「御代のおきて」とは、神武天皇が示された、国民を大御宝としてその安寧を祈ることです。明治天皇はその「願い」を体現しつづけることによって、それを群臣たちが帝国憲法として成文化したのです。こうして「御代のおきて」を成文化した帝国憲法によって、明治日本の国家基盤が築かれ、世界史的大躍進がもたらされたのです。
(文責 伊勢雅臣)
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