人間はなぜ自然に癒やされるのか?
人類はこれまでの進化の過程で99.9%の時間を自然のなかで過ごしてきた。都市生活にはまだ適応していない。
■1.東京から地方に10万人近くが脱出
コロナ禍でリモートワークが普及しつつあり、週に2、3回の通勤なら、オフィスから遠くとも、自然の豊かなところに転居しようという人が増えているようです。
昨・令和3年には31道県で人口の流入がありました。人口比率で最も流入の多かった茨木県は0.33%と、一昨年の-0.15%の流出から流入に反転しました。以下、山梨県、島根県、福井県と続きます。一方、東京都は一昨年の0.1%の流入から、昨年は-0.7%の流出に転じました。10万人近くが、東京都から地方に脱出したのです。
地方なら自然が豊かだから、というのがその一つの理由かと思います。また休暇で海や山に行ってリフレッシュできるというのは、誰でも経験のあることでしょう。人はなぜ自然に癒やされるのか? その理由が心理学・生理学的にも解明されつつあります。今回はその一端を覗(のぞ)いてみましょう。
■2.自然のなかでストレスが減る理由
自然が人間に及ぼす影響に関する研究では、日本が世界を牽引しているようです。千葉大学の宮崎良文教授は森林セラピー、森林浴を提唱され、全国各地にセラピーロードを設け、訪れた人たちの体調の変化を測定しています。
教授の研究によれば、森のなかをゆっくり散策すると、都会を歩いているときと比べて、ストレスホルモンと呼ばれていたコルチゾール値が16%下がり、血圧が1.9%、心拍数も4%下がりました。[ウイリアムズ、p40] 宮崎教授はこう語っています。
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これまで進化をとげてきた過程のなかで、人間は99.9%の時間を自然のなかですごしてきました。ゆえに、われわれの生理機能はまだ自然に対して適応しているのです。[ウィリアムズ、p39]
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「自然に適応している」とは具体的にはどういうことか、ハーバード大学のエドワード・O・ウィルソン教授は著書『バイオフィリア』で、次のように説明しています。
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過去300万年の大部分のあいだ、ヒトはアフリカのサバンナ、後にはヨーロッパやアジアの似たような環境で暮らしていた。それは、まばらに生えた木々や小さい森が点在するだけの、公園を思わせる広大な草原だった。・・・
サバンナでは、他に何もなくとも、そのなかだけで充分な食糧となる動植物を得ることができる。これは雑食性のヒト科にはきわめて適した環境であり、また視界が開けているおかげで、動物や敵対する部族を遠くから見つけることもできた。・・・
サバンナにある湖や川は、魚や貝、新たな食用植物をもたらした。また、人間を襲うような動物のほとんどは深い川を渡ることができなかったので、水辺はそのまま自然の防衛線ともなる。[ウィルソン、p178]
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こう言われてみると、我々が都市の内部においても、わざわざ広い芝生や木立、噴水を作る理由がわかります。それは我々の先祖が安心して暮らしたサバンナの光景を再現しているのです。その光景に我々の本能は安心して、ストレスが減るのでしょう。逆に本能がまだ適応できていない都市での暮らしでは、常に危険に身構えなければならず、ストレスに苦しむのです。
■3.鳥のさえずりで癒される理由
ウィルソン教授の「バイオフィリア(生命愛=自然とのつながり)」とは、自然が人間に与える数々の影響を合理的に説明できる仮説です。
例えば人は都会で自動車などの騒音に苛(さいな)まれ、森の中を散策していると鳥のさえずりに癒されます。科学ジャーナリスト、フローレンス・ウィリアムズ氏は自分が被験者として参加した実験を紹介しています。
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わたしが見たビデオでは、ヨセミテ国立公園の夏の草原と青空の光景が映り、一緒に鳥のさえずりが流れていた。ところが二分ほどたつと、トラックのエンジン音が聞こえ、・・・
自然の景色を見ていると心拍数がすぐに通常の60台半ばまで下がった。ところがトラックのエンジン音が聞こえるやいなや、心拍数は一気に10ポイント上昇した。[ウィリアムズ、p139]
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なぜでしょうか? ウィリアムズ氏はこう説明しています。
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聴覚は、動物が「油断なく注意を払い」「方向を見定める」際におもに活用する感覚だ。・・・
鳥のさえずりを耳にすると、人はその音を注意が行き届いて安全な状態と結びつけ、きょうもすべてこの世は事もなしと感じる。人間は進化の過程で、鳥のさえずりをそういった意味で解釈してきた。[ウィリアムズ、p143]
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鳥たちが一斉に飛び立ったら、それは猛獣が近づくなどの危険が迫っているサインです。逆に、鳥たちが楽しげにさえずっているのを聞けば、人間はそういう危険がないと安心できるのです。
トラックのエンジンの重い騒音は、大きな猛獣の息づかいに似ているのかも知れません。それを聞くと人間の本能は危険が迫っていると感じ、それがストレスになるのです。
■4.緑が見える住宅では犯罪は少ない
ウィリアムズ氏は、視覚の面でも興味深い調査結果を紹介しています。シカゴのある公営団地には多くの住宅があり、それぞれが中庭に面しています。中庭には、植栽がほとんどないもの、コンクリートの地面に樹木が植えられているもの、緑が豊かに茂るもの、の3種類があります。この中庭の種類によって、犯罪発生件数には明らかに差が見られました。
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窓から豊かな緑が見える棟は、緑が見えない棟と比べて窃盗犯罪の件数が48%少なく、暴力がからむ犯罪の件数は56%も少なかった。・・・
心地よい中庭があることで、住人が外に出るようになり、その結果、住人同士が顔見知りになり、互いの行動に注意を払うようになった。・・・
緑豊かな中庭に面した棟の住人は、互いに助けあい、協力しあうことを大切に考えていたし、ほかの住人と一体感を覚え、社会活動に参加し、訪問客も多かった。[ウィリアムズ、p158]
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バイオフィリア仮説から考えれば、樹木は木の実や果物で人間を養ってくれる存在です。樹木が見える光景では、人間は飢餓の心配はないと安心し、逆に全く樹木が見えなければ、ここで生きていけるだろうかと不安を感じます。樹木のもとで安心した人間どうしは、ゆとりをもって互いに助け合い、一体感を持って暮らしていけます。犯罪が少なくなるのも当然ですね。
またストレスから解放され、精神の安心と余裕が持てれば、知的創造力もよりよく発揮できるようになるでしょう。これが、昨今のワーケーション、すなわち自然豊かなところでバケーションを楽しみつつ仕事をすることの理論的な根拠になりそうです。
■5.1ヶ月に5時間、自然と共に過ごせば
ただ大都市の中で、自然と隔絶した生活を送っている人にも救いはあります。科学的な調査の結果では、1ヶ月に5時間、自然と共に過ごせば、気持ちが前向きになり、活力が湧いて、ストレスが軽減できるという研究結果があります。
これをもとにネイチャー・ピラミッドという考えが提唱されています。ピラミッドの底辺は毎日、庭や観葉植物、街中の公園で一息つくことです。2段目は、毎週一回、緑豊かな大きな公園や川辺などでリラックスすること。3段目は毎月一回はハイキングや森林浴に出かけること。そして最上部は年に一回は休暇をとって何日か大自然の中で過ごすことです。
毎日3分、ベランダの植物に水をやり、30分の公園散歩を週に2回行えば、それだけでゆうに月5時間に達します。こういう形で都会の中においても、自然の力を借りて元気を取り戻せるのです。
また、子供には早いうちに「自然の中にいると気持ちが落ち着く」という体験をさせるのがよいと考えられています。子どもが森で2日間過ごすと、ストレス・ホルモンであるコルチゾール値が下がり、自尊心の評価が大きく改善します。夏休みの林間・臨海学校、ボーイ/ガールスカウトなどのキャンプは、この面での効果が期待できます。
ただ、できることなら都会を脱出して、海や山の近くに住むことが子供にとっても親にとっても理想的であることは言うまでもありません。
■6.「畏敬の念」が、私たちを深遠な自然の力に結びつける」
自然は人間を守ってくれるだけでなく、時には畏敬の念を与えます。ウィリアムズ氏の著書の訳者・栗本さつき氏は「あとがき」で次のように美しく語っています。
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山の稜線で眼下に雲海を望んだとき、水平線に沈みゆく燃えるような太陽を見たとき、古代からただどっしりと存在する巨岩を目の当りにしたとき……。そんなときに「畏敬の念」を覚え、なにか大きなものに包まれているような気がして、自分の存在が取るに足らないものに思えたという経験がある方も多いだろう。[ウィリアムズ、p375]
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こうした「雄大な自然の景色や自然現象が、この世のより深遠な力とわたしたちを結びつけるのだ」とウィリアムズ氏は指摘します。
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激しい恐怖による──台風や竜巻に直撃されたときなどに覚える──畏怖の念でさえ、助けあいの精神をもたらし、その結果、地域社会が一丸となって共通の目標に向かっていける。人知を超えた自然の圧倒的な力に直面したとき、人類は助けあって絆を強めることで環境に適応し、進化してきた。そうやって、こんにちまで生き抜いてきたのだ。[ウィリアムズ、p276]
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巨木を見て畏敬の念を覚えた後では、人は他者に対してより思いやりをもって行動するという実験結果も報告されています。
■7.我が先祖たちの「生命愛」
ウィリアムズは森林浴を「シンリンヨク」と日本語で紹介し、「その核には五感を通じて全身に自然を浸透させるせるという太古の神道と仏教の修養がある」と述べています。
太古のすべての人間は、自然に生かされ、万物の命への共感、すなわちバイオフィリア(生命愛)を抱きつつ、暮らしていたものと思われます。その中でも我われの祖先である縄文の人々は日本列島の美しい山河や海に抱かれて、1万年以上の年月を過ごして、神道の自然観を発達させてきました。その記憶が日本神話に結晶しています。
日本神話では、動植物ばかりか、海や山や川、さらに石つぶにまでも神の分け命が宿り、人間の同胞であると考えます。次の一節は19世紀のアメリカの思想家にして詩人のラルフ・ワールドー・エマーソンの言葉ですが、日本人ならたやすく共感できるでしょう。
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野と森が与えてくれる最大のよろこびは、人間と植物の間の不思議な関係を暗示してくれることにある。私は孤独で、無視された存在ではない。木や花は私にうなずき、私もかれらにうなずく。〔『自然について』〕[ウィリアムズ、p233]
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石との間にも「不思議な関係」を築いた人がいます。スウェーデンの研究者ヨハン・オットソンは交通事故の後のリハビリで自然から治癒力を与えられた経験を研究し、博士号を取得しました。
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最初は、石を眺めていると気分が落ち着くことに気づいた。「その石はまるで彼に話しかけているようだった。『わたしは古来、ここにいた。そして永遠にここにいる。わたしの価値はわたしの存在そのものだ。きみがどんな人間で、なにをしようが、わたしの知るところではない』……この感覚が彼の気持ちを鎮め、彼の心を調和で満たした。[ウィリアムズ、p230]
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このような「自然との不思議な関係」は縄文の人々にとっては、日常的なものだったのでしょう。現代の日本人も、その記憶を受け継いでいると思われます。
■8.先祖に教えを請うべき時
かくいう私も昨年末、大阪の郊外を引き払って、東京から一時間半ほど離れた田舎に引っ越しました。三方を山に囲まれ、前面に海を望む人口2万5千人ほどの小さな町です。毎朝の散歩では緑の山並みを眺めつつ清流沿いに下って、海から上がる朝日を拝みます。
半年ほどそのような散歩を続けていると、太古の人々が山や川や海や太陽を神々として拝んでいた気持ちがわかるようになってきました。山は緑を育て、食べ物を恵んでくれます。雨を集めて、澄んだ水を与えてくれます。太陽はすべての生き物に明るさと温かさを与えてくれます。人間も草木も昆虫たちも、すべての命は太陽や海、山、川に生かされているのです。
こうした自然に対する感謝と畏敬を抱きつつ、我々の先人たちはこの美しい列島で、数万年も生かされてきたのです。そう思うと、この1世紀ほど近代物質文明の都市化とグローバル化に明け暮れて、国土を荒廃させ、ストレスとリスクに満ちた都会生活で自らを苛(さいな)んでいる現代日本人の問題が見えてきます。ご先祖様に教えを請うべき時でしょう。
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