日本の橋梁技術は世界一! 海外への貢献

日本の技術

日本の橋梁技術の海外貢献

前稿で紹介しましたように、日本の橋梁技術は世界トップです。

そして、橋梁を建設する技術だけではなく、その地域の実情や期待に合わせて対応する、【三方よし】の精神に基づいたビジネス、業務を行い、貢献しています。

「三方よし」が経済発展を導く
「三方よし」が経済発展を導く 「三方よし」で各地に進出した近江商人が、江戸時代の全国経済を築いた。 ■1.大飢饉の中での普請  江戸後期の天保の大飢饉(1833 -1839] )の最中、琵琶湖東岸、現在の彦根市に隣接する豊郷(とよさと)町で住宅の改築と寺院仏堂の修理工事を始めた商人がいました。今で言えば、コロナ禍で企業倒産と失業者も増える中で、家を改築するようなものです。  起工を知った彦根藩は飢饉に苦しむ人々を無視した傍若無人の振舞いとして、役人を派遣して咎めようとしました。しかし、役人が現地に行ってみると、工事の従事者には賃金を与え、家族にまで雑炊を振る舞っていたのです。  飢饉で人々が困っている時に、単に施しをするのではなく、仕事を作ってその対価として工賃を支払うというやり方には、相手の立場への思いやりが籠もっていました。工事をしたのは、地元の近江商人・7代目藤野四郎兵衛。派遣された役人は四郎兵衛の義挙を嘆賞し、地元民もこの一時を「藤野の飢饉普請」と呼んで、後世まで語り伝えました。 ■2.「サクラやカエデ?」  こうした義挙は、近江商人の歴史には事欠きません。現在の東近江市に寛政...

このような日本の素晴らしい技術と精神を世界の国々が放っておくはずがなく世界中の様々な国が日本に橋の建設を要請しています。

以下に、このような実例を紹介します。

バングラディシュ・・・カチプール・メグナ・グムティの3橋

近年、経済発展が著しいアジアの発展途上国は、インフラ建設が急務な課題となっています。

バングラディシュもそんな国の 一つです。かつてバングラディシュでは1970年か1990年代にかけて日本の大林組が首都ダッカと第二の都市チッタゴンを結ぶカチプール・メグナ・グムティの3つの橋を建設したという歴史があります。この3つの橋はバングラディシュの人口の3割とGDPの5割を運ぶ極めて重要なインフラです。しかし、この3橋は1970年代から1990年代にかけて建設されたもので、老朽化の恐れがあることとバングラディシュが大きく経済発展を遂げたことにより橋の容量が足りなくなり日常的に交通渋滞が発生するようになっていました。

そこでバングラディシュ政府は橋の建設を日本に依頼しました。これは3つの橋の改修だけでなくそれに並行する新たな橋を建設するという一大プロジェクトで2015年11月大林組・清水建設・JFEエンジニアリング・IHIインフラシステムの4社が約 900億円でこのプロジェクトを受注しました。

かつて大林組がこの3つの橋を建設したことや清水建設はチッタゴン空港の建設などバングラディシュで50年近くの実践があることなどから日本の建設技術への信頼度は抜群でした。

2016年にスタートしたこの工事では日本独自のハイレベルな劣化予測からその対策や耐震化補強など最新の橋梁技術を惜しみなく使い安全性の向上を図っています。

テロの影響があり半年も工事が中断しましたが、それにもかかわらず2020年1月完成の予定を7ヶ月も前倒しで工事は完成しました。

これにより交通容量は従来の1.8倍に拡大し交通渋滞も大きく緩和されています。

しかもこの話にはバングラディシュの人々が日本の技術の凄さと誠実さに脱帽した「国ごと日本に任せたい」と思ったという信じられない後日談があります。

工期が早まったために建設費用が数十億円も浮き、バングラディシュの経済発展に協力したいとの理由から、プロジェク企業が、バングラディシュ政府にこの浮いた工事費を返還したのです。

これには国内外から驚きと称賛の声が鳴りやまず現地メディアも稀に見る誠実さで、建設費の一部を返還と大々 的に報じました。これには【三方よし】の日本の精神の懐の大きさを感じます。

バングラデシュでカチプール、メグナ、グムティの3橋が完成しました | ニュース | 大林組
4車線の既存橋(右)に並んで新たに4車線の第2橋(左)が加わり8車線となったカチプール橋大林組、清水建設、JFEエンジニアリング、IHIインフラシステムが共同企業体を組成し、バングラデシ...

カンボジア・・・日本カンボジア友好橋

カンボジアにおいてもバングラディシュと同じような日本の貢献の話があります。

カンボジアの首都ブノンペンの東部バサック川にチュルイ・チョンバー橋という橋があります。

1963年に日本の援助で建設されたことから日本橋と呼ばれていました。以前は東部バサック川には橋がなく不便を強いられていた住民は大いに喜びそれ以降は国全体が徐々に活気づいたそうです。

しかし、この日本橋は物資の輸送路としても重要であったためカンボジアが内戦に突入すると1972年に爆破され橋の全長709メートルのうち中央部の 265mが落橋してしまいました。内戦の激化により日本のODAはなすすべもなく橋は長期にわたって放置されていました。

1992年に内戦が終結しシアヌーク前国王がまず着手したのが橋の修復でした。戦争の記憶を遠ざけるにはこの 橋を元の姿に戻さなければならないと考え、まず日本橋を修復しそれを復興の象徴としたいと日本政府に要請しています。

日本はもちろんこれに応じ無償資金協力によって橋の修復を決定、1994年に橋は再び開通しシアヌーク前国王によってこの橋は「日本カンボジア友好橋」と名付けられています。橋の開通後はプノンペン市民と対岸の村人との往来が頻繁になったことで経済が活性化し人々の生活を脅かしていたゲリラも影を潜めて治安が格段に良くなったそうです。他国の大使たちはこれを目の当たりにし武力によってゲリラを退けるのではなく経済協力によってカンボジアを再生し平和を取り戻したのは日本ならではだと称賛しています。

それから25年の月日が流れカンボジアもバングラディシュと同様に経済発展に伴って交通量が橋の許容量を大きく超えてしまいました。カンボジア政府から日本カンボジア友好橋の改修工事を依頼された日本はこれを快諾 し、2017年9月に大林組によって建設工事が着工されました。

そしてまたもや日本が粋な計らいをします。2019年6月に完成予定だった工事を2ヶ月も前倒しして4月に完工しました。

2ヶ月の工期短縮は、4月はクメール正月というカンボジアの人々にとって大切なお正月でその期間の渋滞緩和のために日本企業の努力で実現しました。日本の技術力に加え日本人のこの心意気はカンボジアの人々から大絶賛されたそうです。

そしてカンボジアには他にも日本の技術協力で建設された橋があります。

カンボジアの国道一号線は、アジア・ハイウェイの一部としてホーチミン(ベトナム)−プノンペン−バンコク(タイ)を結ぶ南部経済回廊の一部です。この道路は、ネアックルン地区でメコン川により分断されていましたが、ネアックルン橋の建設により、南部経済回廊を通じ物流・交通・交流などが円滑になり、国内のみならず、メコン地域全体の経済発展が実現されました。

主橋梁の橋長は河川幅を元に640メートルとし、航路条件から中央の210メートルおよび両端の122メートルは橋脚を設置しない設計となり、橋脚設置条件、および経済性・カンボジア国産品の有効利用・耐風安定性などの観点から、3径間連続PC斜張橋の形式に決定されました。

橋を建設した場所の地名ネアックルンがクメール語で黄色い人を意味することから黄色のケーブルが用いられた圧倒的な美しさを誇る橋です。

メコン川は6カ国に渡って流れている東南アジア最大の河川でカンボジアの国力ではこの川に橋をかけることは到底不可能でした。そこで総事業費121億円のほぼ全額を日本が無償供与し2015年3月に完成し、13000人もの地元住民が参加した開通式はお祭り騒ぎだったそうです。

カンボジアで2014年に発行された500リエル札には、同じく日本の援助で作られたきずな橋や日章旗と共に、ネアックルン橋が描かれています。他国の国旗を自国の紙幣に採用するというのはカンボジアの人々の日本への感謝の表れと言えます。

ODAメールマガジン第409号

パラオ・・・日本パラオ友好の橋

人口約1万8000人の小さな国パラオは代表的な親日国家です。

パラオは4カ国から支配と統治を受けていましたが1994年に独立を果たします。その独立式典において、パラオ国家に続いて君が代が斉唱されたそうです。

パラオの人々が日本に畏敬の念を抱いているのが伺えるエピソードの一つです。

1919年第1次世界大戦後のパリ講和会議によって日本のパラオ統治が始まります。そこで日本はパラオのインフラ整備や貨幣経済の導入を推し進めます。それまでの当主国であったドイツはそうした近代化事業を行うことはなく第一次産業で得た利益を吸い上げるだけでした。

日本の統治が始まったパラオでは農業開発や製造業が発展したおかげで地元経済が活性化し1920年代には統治から10年に満たないにもかかわらず近代的な街並みが生まれています。他にも学校を設立するなどして人材を育成し彼らは後にパラオの建設業界で活躍したそうです。

これらは日本以外の国からの統治時代にはありえなかったことでパラオの人々は当時のことを「オールグッド」と懐かしむようです。

日本とパラオとの友好な関係は戦後も続き日本は様々な面でパラオを支援しています。その象徴が「日本パラオ友好の橋」です。

この橋はODAを原資とし鹿島建設によって建設されました。この橋は二代目で初代の通称KBブリッジは1977年韓国の建設企業であるソシオによって建設されました。この建設にあたっての競争入札でソシオの入札価格は鹿島建設の半額でした。その結果、完成直後から中央部の陥没が始まり、開通から10年後には1.2mものたわみが生じるようになりました。そもそもこの橋は当初から手抜き工事が疑われていました。大掛かりな補修工事を繰り返すも改良されず1990年には230万ドル、3億3000万円をかけた補強工事まで行われましたが、その努力も虚しく1996年橋は中央から真っ二つに折れてしまう事故が発生しています。

この時2名が死亡4名が負傷するという大惨事となりました。

この橋の崩落によって電気水道電話などのライフラインが完全に途絶し首都機能が麻痺しパラオは大混乱に陥ります。

この事態を受けて当時の中村大統領はパラオ初の国家非常事態を宣言し、後に暗黒の9月事件と呼ばれます。各国は支援を開始し日本も飲料水の緊急輸送や仮設橋の設置などの支援を行いました。当然、パラオ政府は賠償請求をしましたがすでにソシオは解散していて手掛かりもなかったため賠償金は一切支払われなかったそうです。

このソシオですが韓国内でも1994年に崩落した聖水大橋にも関わっていたとされています。何ともひどい話ですね。

聖水大橋 - Wikipedia

そのようなパラオの苦境を見かねて手を差し伸べたのが日本でした。

国家予算 1980万ドルに対して 橋の建設費用は 約3000万ドル 独立直後のパラオには新たな橋の建設は不可能でした。

日本はその費用を無償で提供、建設工事は初代KBブリッジの入札で敗れた鹿島建設に託されました。

当時の最新技術を駆使し1から建設し、5年後の2002年橋は完成し、橋の新しい名称が発表されました。その名が「日本パラオ友好の橋」です。全長412m支柱の高さ40.6mの美しいこの橋の姿は 2012年パラオ郵便局が発売した建設 10周年を祝う記念切手に両国の国旗とともに描かれました。

日本・パラオ友好の橋 - Wikipedia

チュニジア・・・ラデス-ラグレット橋 日本の橋「(le pont japonais)」

日本の橋梁建設の技術と功績を称え自国の切手のデザインに採用しているのはパラオだけではありません。

北アフリカに位置する人口1000万人の小国チュニジアもその一つです。

面積は日本の約4割ですが、北東部の地中海南部にサハラ砂漠が広がるなど多様な自然を有しています。農業や観光業が主な産業です。しかし都市部を中心に経済成長を遂げ今や200万人が首都チュニス市とその近郊に居住するまでになっています。

この結果市内では1日10万台以上の車が往来し交通麻痺が大きな社会問題となったためチュニス市の南北を結ぶ約 300メートルのラデス-ラグレット橋の建設が計画されました。

建設は日本企業が担当、2004年に工事が開始され2009年に開通しました。ラデス-ラグレット橋によって交通 渋滞は大きく緩和し、チュニス湖運河の北側に位置するラグレットと南側のラデスが陸続きになったことで港湾施設の一体的な運営が可能になりました。またラデス-ラグレット橋はその美しさから2006年発行の日本チュニジア国交樹立50周年記念切手のモチーフに採用、さらにチュニジアの紙幣の絵柄としても使用されています。の橋は人々から日本の橋「(le pont japonais)」という愛称で呼ばれており日本の支援によって建設されたと広く認識されています。

地元チュニジア人に親しまれる「日本の橋(le pont japonais)」

コンゴ民主共和国・・・マタディ橋

祝!開通40周年「マタディ橋」:継承される日本の技術と橋への愛 | ニュース・メディア - JICA

コンゴ民主共和国は、アフリカ大陸で第2位、世界全体で第11 位の広大な面積を持つ国です。

日本とはあまり関わりがないようにも思われますが、この国にも日本人技術者によって建設された橋があります。コンゴにあるマタディという港町にコンゴ川があり、ここにかけられた本格的な橋梁で全長722m、建設当時アフリカで最大の吊り橋でした。1983年に日本の円借款と技術協力によって建設されました。

このマタディ橋は、日本とコンゴの国旗がデザインされ両国の友好のシンボルとして今後社会に根付いており、その存在感は非常に大きいものがあります。しかし、完成の数年後に発生した紛争動乱による混乱から日本は技術協力の中止を余儀なくされています。現地に残されたのは維持管理のマニュアルのみの中でコンゴ人のエンジニアだけで吊り橋という特殊なハガネ構造物の維持管理を続けました。

この橋の建設に携わった日本人技術者たちも「マタディ橋を考える会」を組織して技術面での助言を継続し、コンゴの人々は日本の支援の再開を望み続けながら橋を守ってきました。

2012年3月ようやく治安が回復し、マタディ橋維持管理能力向上プロジェクトがスタート、日本人専門家が現地入りして橋の検査を実施したところ、 管理は行き届いていることがわかりました。しかし、当時の技術者の多くが引退していたので、若い技術者の育成が急務な状況でした。

2013年にマタディ橋完成30周年記念式典が行われ、翌2014年にはマタディ橋保全計画が無償資金協力として決定しました。

こうして、コンゴの人々にとってなくてはならないマタディ橋はコンゴ民主共和国と日本の友好のシンボルになりました。今でもコンゴの観光名所として週末は多くの観光客で賑わっているようです。

パプアニューギニア・・・15カ所の橋梁整備

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ブーゲンビル海岸幹線道路橋梁整備計画

パプアニューギニアも日本人には馴染みがないようですが、この国の東部ブーゲンビルには、大東亜戦争中に山本五十六元帥が搭乗した飛行機が墜落した場所があります。

又、大東亜戦争の時には激戦地域であったため、多くの日本人が戦没者の慰霊や遺骨収集のために訪れる場所でもあります。

パプアニューギニア国内のブーゲンビル島は1988年ブーゲンビル分離独立運動の中、政府軍と独立派が武力衝突を繰り返していました。

2001年に和平協定が締結し、2005 年の自治選挙を経て、ようやく落ち着きしたが、このような背景もあり、ブーゲンビル島にある国道(約190キロメートル)のココパウ~アラワ間ほぼ未舗装で住民は徒歩か小舟で渡るしか手段はなく56時間も要していました。

この地域は降水量が多い上に頻繁に雨季や突然のスコールで増水するため橋の建設は住民の悲願でした。しかしこのような条件の地域に橋をかけるのは至難の技であり日本の技術力が絶対に必要 でした。

要請を受けた日本政府はこれを快諾し、無償資金協力で15カ所の橋梁整備を行うと決定し、2009年に着工した工事は2012年に完成しました。

未舗装の国道で車は大きくバウンドしますが、橋を通る時だけは車の振動が止まるので この不思議な感覚が橋の素晴らしさとして人々に共有されています。

橋の完成後、人々の移動は格段に便利になり、ココパウ~アラワ間の移動が3時間ほどに短縮され、収穫した野菜を市場に運んで売ることが可能となり、地域住民の収入も増加したそうです。

ところが2014 年洪水が起こり護岸が流され、橋が危険な状態になったことが有りました。

その際、下請けとなって工事に参加した地元企業と住民が橋を守ろう!との思いで一丸となり自力で護岸を修復しています。

現在も地元住民が水路の清掃や除草を率先して行なっているそうで、人々の熱い気持ちが伝わってきます。

現地では住民のみならず、政府要人からも日本といえば橋梁建設で、今後も橋の建設に協力をお願いしたいとの発言が繰り返されているようです。このような話は、日本人としてとても誇らしいです。

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