日本の橋梁技術
日本には河川や湖沼が多いことから数々の橋が作られており、また、地震や台風、河川の氾濫など自然災害の多い国なので、これらの災害にも耐えられる橋を建設することが求められてきました。
近代以前は、「木橋」と呼ばれる、主要部材に木材を用いた橋が一般的でしたが、高度成長期以降は交通量が増加し、コンクリートや鋼材を材料とする橋に置き換えられ、そのほとんどが姿を消しています。
しかし、1987年の建築基準法改正以降は、従来の無垢材に加えて集成材の利用が可能となり、矢ケ崎大橋のような支間長50mを越える橋も建設されています。これらは従前の伝統的木橋と区別して「近代木橋」と呼ばれることもあります。
20世紀初頭は日本の橋梁技術は、欧米に比べて半世紀は遅れていると言われていました。
しかし、明治維新以降、軽量で強度の高い橋梁を建設することができる技術が海外からもたらされ日本の持つ独自の技術力が加わることによってその技術は、急激に発展を遂げました。
そして、今や日本の橋梁技術力は世界一と賞賛され、世界各国から必要とされています。
日本国内の橋梁建設
世界のトップクラスの長大橋がならぶ本四連絡橋
本四連絡橋が計画された頃、日本の橋梁技術は、欧米に半世紀は遅れているといわれていました。しかし、日本初の近代橋といわれた「若戸大橋」(1962年 367m)の架設に続いて、「関門橋」(1973年 712m)によって、技術を修得し、本四連絡橋によって、世界のトップ水準に躍り出ることができました。 完成した本四連絡橋は、世界長大橋の展示会場のような観を呈しています。現在、世界第1位の明石海峡大橋、10位の南備讃瀬戸大橋、以下世界の長大吊り橋のトップ20の内、6つを占めています。 また、斜張橋では、第1位の多々羅大橋、第11位の生口橋など、斜張橋ランキングでも、世界トップ20の内、2つ含まれています。
橋の構造で見ても、明石海峡大橋や南北備讃瀬戸大橋はトラス補剛桁、伯方・大島大橋や来島大橋はイギリス式の箱桁を採用しています。その他、斜張橋、鋼製アーチ橋やトラス橋もあります。世界のすべての優れた橋梁技術がこの本四連絡橋に使われています。 1999年7月には、アメリカの技術雑誌ENR誌による、ここ125年間で世界のトップクラスの125プロジェクトの選定にあたって、明石海峡大橋と多々羅大橋が選ばれました。
瀬戸大橋
瀬戸大橋
瀬戸大橋は、本四連絡橋の内、児島~坂出ルートの島々を渡る六つの橋の総称です。 児島側から、吊り橋の「下津井瀬戸大橋」(span=940m)、斜張橋の「櫃石島橋」「岩黒島橋」(ともに420m)トラス橋の「与島橋」、最後に備讃瀬戸を越えるのが吊り橋の北備讃瀬戸大橋(990m)、南備讃瀬戸大橋(1100m)です。南北の備讃瀬戸大橋は、海中に築かれた共通のアンカレイジ(吊り橋のケーブルを引っ張っている重し)で結ばれた2連構造となっています。 この主塔とアンカレイジの基礎は「設置ケーソン工法」によって建設されました。
瀬戸大橋の列車通行試験
瀬戸大橋は上段を車、下段を列車が走るダブルデッキ構造です。 1100mの瀬戸大橋に1000トンの列車を時速100kmで走らせることは、世界でも経験したことがありません。そのため、吊り橋に重量列車を通す緩衝桁を開発しました。
橋の完成後、16両編成の新幹線の重さにあたる1000トンの列車を走らせたところ、橋の中央部で約80cm下がりました。 しかし、橋桁の下降はこれ以上になります。 真夏の太陽が照りつける日中にはケーブルが伸びて約3m下がります。 また、貨物列車が橋の中央ですれ違い、上段では大型トラックがびっしり渋滞になるという一番荷重のかかる条件を想定すると、橋にかかる重量は8240トン、橋桁は最大5.1m下がる計算になります。
瀬戸大橋は、完成当時、ダブルデッキ構造の吊り橋としては、世界第1位でしたが、 1997年、ホンコンに完成したツィン・マ橋にその座を奪われます。 この橋も、瀬戸大橋と同じく、道路・鉄道併用橋で中央径間は1377m。 新空港のあるランタオ島と本土を結ぶ橋で中央径間の長さでも世界第5位です。瀬戸大橋で開発した緩衝桁の技術はこの橋にも生かされています。
明石海峡大橋
世界一の吊り橋、明石海峡大橋の着工は1986年(昭和61年)4月、瀬戸大橋完成の2年前でした。それから12年の歳月を経て1998年、中央径間1991mの優美な長大吊り橋が明石海峡に完成しました。この世界一の長大吊り橋を建設するにあたっては、文字通り、日本の橋梁技術のすべてが結集されました。
基礎を据える地盤
明石海峡の幅は架設地点で4km。これを1つの橋で渡るには、主塔の海中基礎を神戸側と明石側に1基ずつ、ケーブルを支えるアンカレイジを神戸側と明石側の岸に1基ずつ設置しなければなりません。その基礎を支えるためには、しっかりした地盤が必要です。他の本四連絡橋では海底の地盤が、花崗岩であるのに対して、明石海峡では、海底が、花崗岩の上に、砂岩や泥岩で構成される神戸層・砂礫層の明石層があり、その上に沖積層があるという複雑な構造になっています。明石大橋の主塔の基礎は、神戸層や明石層においていますが、こうした地盤に基礎を据えても安全であるということが分かったのは、最新のコンピュータによる解析をしたからです。
その基礎の場所については、170万年前以降に動いたすべての活断層だけではなく、すべての断層を調査して、その箇所を避けて決めています。
風への対策
台風のよく来る明石海峡では、風に対する対策が重要になってきます。 強風観測で今日までで最も強かった記録は、1965年(昭和40年)の台風23号の時の瞬間最大風速40mでした。 明石海峡大橋の設計では、風速78mまで耐えられることとし、橋の構造について、70分の1の精巧な模型をつくり、風洞実験を行いました。風洞実験では、トラス桁を採用した場合と、箱桁を採用した場合とを比較しながら、最も強風に耐える構造を検討し、結果的にはトラス桁を採用することとなりました。箱桁の研究は、今治-尾道ルートの来島大橋で活かされることになります。 明石海峡大橋で、橋にかかる風荷重を減らすために、橋の中央に風を通すグレーチングを設けたことも研究成果のひとつです。
6-7 主塔基礎の洗掘防止
明石海峡の潮の流れは速く、1日4回も流れを変えます。こうした場所に構造物をおくと、洗掘という現象が起きて、基礎の周辺の土砂が流され、基礎が傾いてしまいます。 この洗掘を防ぐために、海底の地盤を20m以上掘り下げて、そこに基礎を据え、その周りに重さ1トンくらいの石を高さ10mまで積み上げて基礎を保護しています。基礎の掘削面積は直径110m。甲子園球場とほぼ同じ広さとなります。
設置ケーソン工法
高さ300m近い主塔を支える基礎は、直径が80m・高さ70m。霞ヶ関ビルとほぼ同じ容積になります。瀬戸大橋では、直方体でしたが、明石海峡大橋では、潮流が速いので円筒形につくられました。 この巨大ケーソンは、三重県津市の造船所で製作され、紀伊半島を回って、明石海峡まで十数隻のタグボートで曳航され、潮の流れのない時を見計らって設置されました。ケーソンの沈設後、二重壁の間にコンクリートが打設されます。ここでは、新開発の水中不分離性コンクリートが使われました。このコンクリートは水中でも溶けず、しかも流動性が良いので、海中で打設しても、隙間なく硬い基礎をつくることができます。
主塔の建設
明石海峡大橋の主塔の高さは、297m。日本一の超高層ビル、横浜ランドマークタワーよりも1m高くなっています。 その主塔を海上で建設するのにも最新の技術が使われました。 主塔はブロック毎につくられ、現場で積み上げられて接合します。 主塔の設置誤差は極力少なく抑えられ、接合面で許される誤差はわずかに0.04mmという厳しい条件でした。 そのため、この接合面の工場での研磨は、温度が一定になる夜間に行いました。 また、設置後の接合面の検査は、厚さ0.04mmの金属箔(隙間ゲージ)を差し込んで行われ、これが通るようなら、やり直しとなる厳しい検査を経て、完成しました。
ケーブルの架設
主塔が完成すると、次はケーブルの架設工事です。 ケーブルの架設は、高張力鋼のワイヤを百数十本束ねた六角形をしたストランドを一本ずつ掛け渡して行われます。 主塔間の最初のパイロットロープは、ここでは、ヘリコプターによって掛け渡されました。このパイロットロープで順次太いワイヤーロープを架けていって、キャットウォークという足場をつくります。それからいよいよ、ケーブルの架設が始まるわけです。 ストランドを290本束ねるとケーブルができあがります。 吊り橋は、橋桁を支えるケーブルの支持力が命です。そのため、吊り橋建設のために、引張りに強い高張力鋼が開発されてきました。 昭和60年に架けた南北備讃瀬戸大橋では、ワイヤの強さは1mm2当たり160kgでした。それから約10年後、明石海峡大橋では、20kg強い180kgとなっています。こうした技術革新によって、橋荷重を支えるケーブルも2本ですますことができたのです。
橋桁の架設
ケーブルが完成すると、橋桁の架設になります。この作業では、橋桁のブロックを架設地点の真下まで運び、クレーンで架設する方法が採られました。 橋桁のブロックは最大で2400トンもの重さになります。これをクレーンで一括架設するのです。 橋の中央部では、この方法は、船舶通行の妨げになるので、主塔のところで、橋桁や補剛トラスの部材をつり上げ、橋上で組み立てて、張り出しながら建設していく方法が採られました。 こうして設置した橋桁の上に橋床を載せ、その上を舗装した後、照明や情報機器、道路標識などを取り付けて橋は完成します。
震度7という激震にも耐えた建設中の明石海峡大橋
この明石海峡大橋の建設の最中に、1995年1月17日、阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震がその直下で発生しました。震度7という激震に明石海峡大橋は見事に耐えたのです。 この時、主塔にケーブルを掛け渡した直後でした。震度7という激震にあい、二つの主塔は最大で1m近く地盤ごと移動し、また、両端のアンカレイジも1.1m広がりましたが、その後の調査で、主塔他橋の施設には何ら損傷がないことが分かりました。念には念を入れた地震対策の面でも、明石海峡大橋の技術は世界でもトップクラスであることを証明したのです。
日本百名橋
日本百名橋(にほんひゃくめいきょう)は、橋梁工学の専門家である大阪市都市工学情報センター理事長の松村博が、その著書『日本百名橋』(鹿島出版会、1998年、ISBN 4-306-09355-7)において私選した日本の100の橋。同書では百選の番外として20の橋(自然橋などを含む)を選定している。
日本の橋 ~古代から中世まで~
天と地を結ぶ橋
神話や伝説にでてくる橋は、人が橋に架ける夢を語っているように思われます。日本の神話にでてくる最初の橋は「天の浮き橋」で、日本列島を作る際に、この橋を通って、天の神々が自由に天と地の間を行き来したと伝えています(古事記)。京都府の「天橋立」の言い伝えは、日本列島をつくったとされるイザナギの尊が天に上る橋をつくったが、それが横に倒れて天橋立になったという内容です。世界の神話を見ても、たとえば、空に架ける橋が、神が天に昇る橋であるといった神話が多く、そのほとんどは、空にかかる虹を天と地を結ぶ橋としています。
鮫が作った浮き橋
大国主の国曳きの神話で有名な出雲には、『いなばの白兎』という伝説があり、白兎が鮫をだまして、鮫の橋をつくらせ、それを伝って向こうの島を渡ったという話が伝えられています。 国曳き神話は、たとえば北欧のデンマークなどにも残されており、『遠くのものを引き寄せたい、歩いていけないところへ行きたい』という願いは、人類共通 の夢なのかもしません。
人類が作った最初の橋
人が架けた最初の橋は、歩いて通る道のつながりとして作られたものと思われます。大昔の橋は、自然の倒木を利用した丸木橋であったり、川の流れに飛び石をおいただけのものだったのでしょう。 人は文明が起きる古代から、道具を使い、経験的に橋をつくる技術を学んできました。 そして、現代に見るような長大な橋を建設する技術を自らのものにしてきたのです。
日本で初めての橋は?
日本で初めての橋とはどんな橋だったのでしょうか。 記録にのこる最古の橋は、「御木のさ小橋(みけのさをばし)」という倒木を利用した橋です。この橋は、福岡県大牟田市の三毛(三池)の地にあったとされています。(日本書紀 景行天皇18年)
また、仁徳天皇の14年(おそらく5世紀頃)に「猪甘津(いかいつの)に橋わたす」という記述があります。形や大きさは不明ですが、人が通 る街道に架けられた橋のようです。この橋は、「つるのはし」と呼ばれており、現在の大阪市生野区猪飼野町に石碑がたてられています。
記録のない時代にも橋が作られていたことが、考古学の発掘調査により明らかになっています。弥生時代の中期末つまり、紀元前後には、環壕集落が各地で作られ、それを取り巻く壕(ほり)(幅約4m)に架かる橋の遺構が発掘されているのです。
(神戸市川谷町、富山県上市町)
日本の三奇橋
日本には三奇橋と呼ばれる橋があります。 山梨県大月にある猿橋。木曽の桟橋(かけはし)、山口県岩国の錦帯橋の三つが、日本三奇橋にあげられています。 このうち、木曽の桟橋は深い渓谷沿いに桟道をつけ、その先に渓流を渡る橋があったようですが、現存しないのでその構造は不明です。おそらく、大月の猿橋と同じような構造であったのではないかと思われます。
1-6 大月の猿橋
大月の猿橋は、非常に古く、推古天皇の頃(620年頃)とみられています。それ以来、25年ごとに架け替えられてきましたが、昭和7年(1932年)、そのとなりに鋼製のアーチ橋が完成したので、現在は史跡として保存されています。 この橋は、両岸の懸崖から刎木を何段にも重ね、それで橋桁を受ける「刎橋」といわれる珍しい構造で、力学的にも非常に合理的につくられていて、その後の日本の橋には類のないユニークな橋です。 この橋の由来については、はっきりしたことは分かっていません。推古天皇の20年、百済工人に、御所内の庭に「呉橋」を架けるように命じたという記録と、その後、百済工人が「兜岩猿橋」をつくったという記録が残っています。これが大月の猿橋でないかという説があります。1400年間、同じ構造を守り続けて現在まで伝えられてきた珍しい橋です。
岩国の錦帯橋
岩国の錦帯橋は木の橋としては、世界的にみても素晴らしい橋です。この橋は江戸時代の初めにつくられたのですが、川の中に飛び飛びに島をつくり、そこに石で橋脚を建て、アーチ型の橋桁を木で渡しています。こうした工夫によって洪水にも流されることなく、現在でも当時の姿のままに残すことができたのです。
僧侶が架けた奈良時代の橋
日本では、奈良時代の初期から、橋が架けられた記録が残っています。 その当時は、僧侶が現世の救済のために橋を架ける場合が多かったようです。遣隋使や遣唐使で中国に渡った僧侶が橋の技術を学んで帰り、日本に広めたのです。 宇治橋は、元興寺の僧、道登・道昭の手によって、大化2年(645年)架けられました。 宇治橋東詰めよりやや上流の放生院から、橋建立の由来を示す石碑の一部が発見されています。 その石碑には、衆生済度の祈願と橋建立協力への呼びかけが記されています。
また、その弟子にあたる僧 行基は諸国を旅して、山崎橋を初めとする、多くの橋を架け、また洪水を防ぐために堤防を築きました。こうした活動により、行基は民衆から行基菩薩(ぼさつ)とあがめられたといわれています。
日本の場合、橋を造る材料として木材が多く使用されていました。そのほとんどが、川の中に木の橋脚を建て、それに橋桁を渡したいわゆる桁橋でした。そのため、洪水で流されたり、火災にあったりすることが多く、当時の橋はほとんど残っていません。
日本の道路の原点となった日本橋
「お江戸日本橋、七つ発ち…」という唄で有名な日本橋は、江戸城を築いた徳川家康により、架けられた橋です。 徳川家康は秀吉から関八州の支配を任されると、江戸の地先を埋め立てて、日本橋川を整備します。そして、そこに日本橋を架けたのです。その後、江戸に幕府を開いてからは、この橋を東海道・中山道など、五街道の起点と定めました。そのため、日本橋は「まるで蟻が熊野詣でをしているよう」といわれるほどにぎわい、江戸の町の繁栄を象徴していたのです。日本橋は明治になって石の橋に掛け替えられ今に至っています。日本橋は今も日本の道路の原点となり、橋のたもとには、日本道路原標が据えられています。 江戸幕府をひらいた徳川家康が隅田川に最初に架けた橋は、千住大橋です。
日本に伝わった石造りアーチ橋の技術
木の橋が中心の日本で、江戸時代に石造りアーチ橋の技術が日本に伝わり、九州でこの石の橋が多く造られました。 この技術の伝播のルートには、三つのルートがあります。中国から長崎へ・長崎の出島にきていたオランダ人から・中国から沖縄経由で鹿児島へ、という三つのルートです。
中国から伝わった技術を元に作られたのは、長崎で最初の石造りアーチ橋である長崎眼鏡橋です。 この橋は、1643年(寛永20年)中国から渡来して興福寺2代目の住職となった如定(にょじょう)が、中国の石橋の技術を使って架けた橋です。これに、オランダ人からアーチの技術を習得した末次平蔵一族も加わって長崎の中島川には20の石橋が架けられたそうです。 この末次一族が秘伝として橋造りの技術を伝承し、諫早の眼鏡橋、熊本県矢部の通 潤橋などをつくります。(この3つの橋は共に国の重要文化財)
中でも通潤橋は、谷に囲まれて米がとれなかった矢部地方に水を送るために架けられた日本では珍しい水道橋で、サイフォンの原理を応用して水を送るようになっています。毎年、橋の中央にある樫の木の栓を抜いて、水道にたまった土砂とともに水を抜く行事があり、観光客が多く訪れています。 本州各地でこのタイプの橋が架けられるようになるのは明治から昭和にかけてです。中でも有名なのは東京の二重橋、日本橋、大阪の心斎橋です。
現存する日本最古の石造りアーチ橋
沖縄には、「天女橋」という日本最古の石造りアーチ橋が残っています。(1502年、重要文化財) この橋は、沖縄・那覇市の円覚寺総門前の円鑑池の中にある弁財天堂に架けられた、橋長9.4m・幅3mの小さな橋です。弁財天堂は、尚真王時代の1502年に、朝鮮から贈られた経典を収納するため建立されました。天女橋はそれへ渡る橋として架けられたのです。
このような 素晴らしい技術を世界の国々が放っておくはずがなく世界中の様々な国が日本にこぞって橋の建設を要請しています。
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