大正10(1921)年、6基の五重塔について震動測定実験を行った東京帝国大学地震学教室の大森房吉教授は、「五重塔を倒すほどの地震は存在しない」と報告している
塔の中心を太い心柱が貫いているが、この心柱の直接的な役割は相輪(塔の先端部)を支えることであり、塔そのものの構造とは無関係である。つまり、最も太い柱であるにもかかわらず、心柱は塔の荷重を支えることにはまったく貢献していない。なにしろ、宙吊りの心柱もあるくらいなのである(宙吊りでは、塔の荷重を支えるのは不可能でる!)。
心柱のほかに、五重塔の構造の大きな特徴として、各重を貫く「通し柱」が一本もないことがある。つまり、五重塔は鉛筆のキャップあるいは帽子が5個積み重なったような「キャップ構造」になっているのだ。
驚愕…! 五重塔の大黒柱は「地面から浮いていた」…だから、大地震でも「倒れない」奈良時代から培われた「超」技術
無惨な姿に…それでも倒れなかった
前回の記事で、数百に及ぶ木塔が破壊された歴史がある中、「地震によって倒壊した例」がほとんど皆無であるということを述べた。地震国の日本にあって、木造の高層建築物である木塔が地震に倒されたことがほとんどない(一説には、過去2例)というのは驚くべきことだ。
大正10(1921)年、6基の五重塔について震動測定実験を行った東京帝国大学地震学教室の大森房吉教授は、「五重塔を倒すほどの地震は存在しない」と報告している(上田篤編『五重塔はなぜ倒れないか』、新潮選書、1996)。
約96メートルの高さの東大寺七重塔、約81メートルの高さの法勝寺八角九重塔が、奈良・京都の都にそびえ立っていた頃、その地域を襲ったマグニチュード6以上の地震は約20回に及ぶ(国立天文台編『理科年表』丸善)。それらの大規模地震によっても、古都にそびえる木塔は倒れなかった。
鴨長明が『方丈記』に記す文治元年(1185)年の京都を襲った大地震は、特に白河界隈に大きな被害を与えた。白河にあった法勝寺も大きな被害を受け、周囲の築地塀(ついじべい)がすべて倒れ、諸門、金堂の回廊が倒壊し、阿弥陀堂も大破した。九重塔も相輪(塔の先端部)が折れ、屋根がすべて落ちるという被害を受けたが、塔自体が倒壊することはなかった。
大正12(1923)年9月1日、関東地方から広域を襲った「関東大震災」の際には、25万4000余の家屋が全半壊したと記録されているが、このときも木塔は1基も倒れていない。
未曾有の被害をもたらした2011年3月11日の東日本大震災の際にも、仏塔が倒れたという報告はなかった。
歴史上、日本の木塔が地震で倒れたことは皆無といってよい。暴風で倒壊した例もなく、木塔の崩壊は、火災による焼失がほとんどなのである。前述の法勝寺八角九重塔も火災による焼失であった。
その焼失のようすは、14世紀後半に成立した『太平記』巻第二一に詳しく記録されている。塔そのものの記述も含まれ、非常に興味深い。法勝寺の八角九重塔が、民家の失火から飛んできたほんの小さな火の粉のために焼けたようすが臨場感あふれる筆致で書かれているのである。このとき、華頂山知恩院の五重塔、醍醐寺の七重塔も同時に焼けたようである。
天女のような端麗な容姿
私自身が、“倒れない五重塔”を目のあたりにしたのは、室生寺五重塔が1998年9月22日、台風7号のために大きな被害を受けたときである。先に述べたように、室生寺五重塔は私が大好きな五重塔の一つである。
室生寺は奈良県の室生山の斜面にある寺で、森に包まれるように五重塔や金堂などの伽藍が配置されている。五重塔の高さは約16メートルで、屋外に建っている五重塔としては日本で一番小さい。
室生寺は「女人高野」とよばれているが、この五重塔はまさに天女のような端麗な容姿である。階段の下から仰ぎ見る五重塔は、周囲の杉木立に溶け込んでいるかのごとく美しい。
台風直撃でも倒れなかった
この美しい五重塔が痛々しい姿になった。
太さ1.5メートル、高さ45メートルの杉の大木が西からの強風で根のところからなぎ倒され、五重塔の西北の庇(ひさし)を上から下まで見るも無惨な姿に破壊したのである。不幸中の幸いだったのは、この大木が「心柱」を外して倒れたことだった。
この台風の直後、私は現場に駆けつけ、倒れた杉の大木と“半身創痍”の痛々しい五重塔を自分の目で見たのであるが、あらためて“倒れない五重塔”に心を動かされた。台風による強風に杉の大木は倒されたが、可憐な室生寺の五重塔はもちこたえたのである。
さすがの強風も五重塔を倒すことはできなかった。
室生寺の五重塔は2年後の2000年10月、松田敏行棟梁らによって見事に修復された(松田敏行著『室生寺五重塔千二百年の生命』、祥伝社、2001)。
五重塔の「構造」を見る
以下、高層建造物でありながら、地震や大風で倒されることがない日本の木塔の構造を検討していくにあたり、五重塔を木造多重塔の代表として話を進めることにする。
日本の五重塔は、中国の空筒構造の楼閣式仏塔とは異なり、上層に登るような構造にはなっていない(1959年に再建された現代の四天王寺五重塔は例外)。日本の五重塔で人間が入れる(入る)構造になっているのは、初重のみである。初重には通常、本尊や四仏像などが安置されている。
たとえば、青森・青龍寺五重塔の初重には、大日如来とみなされる八角形の心柱の周囲四方に普賢菩薩(東南)、文殊菩薩(南西)、観世音菩薩(西北)、そして弥勒菩薩(北東)の姫小松材を使った寄せ木造りの木像が安置されている。
日本の五重塔が、上層に登るような構造にはなっていない、つまり、楼閣や展望台のような実用的目的をもたないのは、これらの仏塔が純粋に仏教上の卒塔婆(そとば)であり、同時に“見られる”ことを目的とする建築物だからである。
上層に登ることを目的とする塔ではないが、初重から四重までの天井にあけられた、小さな上り口から梯子を使って五重まで登ることは可能である。私は、かなり窮屈な思いをして、完成直後の青森・青龍寺五重塔の五重まで登る機会を得た。
五重塔の中は木組みの塊である。
二重あたりは多少、空間的な余裕があって、立つこともできるが、上層へ登るにつれて木組みの密度が高くなり、腰をかがめないと動きが取れなくなってくる。図「青龍寺五重塔の内部(五重)の木組み」は、青龍寺五重塔の内部(五重)の木組みを示すものである。
優美壮麗な外観からは想像できないような、空間をぎっしりと埋めるむき出しの木のかたまりと空間に充満する真新しい青森檜葉の香りに、圧倒される思いであった。
五重塔からの絶景
茶室の躙(にじ)り口よりもずっと小さな、高さ50センチメートルほどの“かしたみ”とよばれる戸口から地上約21メートルの五重の回廊へ這(は)い出ると(図「青龍寺五重塔の五重回廊」)、そこには、うっすらと雪に覆われた青森市郊外のすばらしい眺望が開けていた。
驚異的な耐荷重性
いま、五重塔は木組みの塊であることを述べた。
それでは、その木組みは建築物として、どのような構造になっているのだろうか。高層建造物でありながら、地震や大風に強い日本の木塔を生み出す構造とは、どのようなものなのだろうか。
塔の中心を太い心柱が貫いているが、この心柱の直接的な役割は相輪(塔の先端部)を支えることであり、塔そのものの構造とは無関係である。つまり、最も太い柱であるにもかかわらず、心柱は塔の荷重を支えることにはまったく貢献していない。なにしろ、宙吊りの心柱もあるくらいなのである(宙吊りでは、塔の荷重を支えるのは不可能でる!)。
心柱のほかに、五重塔の構造の大きな特徴として、各重を貫く「通し柱」が一本もないことがある。つまり、五重塔は鉛筆のキャップあるいは帽子が5個積み重なったような「キャップ構造」になっているのだ。
五重塔の全荷重は、たとえば法隆寺の五重塔では4本の四天柱と12本の側柱(かわばしら)、つまり16本の柱で支えることになる。法隆寺五重塔の総重量はおよそ120万キログラム、16本の柱の合計底部面積は6.416平方メートルといわれる(西岡常一・小原二郎著『法隆寺を支えた木』NHKブックス、1978[2019年改版])。これらの値から、柱の底面積1平方センチメートルあたりにかかる荷重を計算すると、約18.7キログラムになる。
標準的な大人の両足の底面積は500平方センチメートル程度である。体重が100キログラムの人ならば、足の底の1平方センチメートルあたりにかかる荷重は0.2キログラムである。極端な例として、体重200キログラムの力士の場合を考えて、仮に両足の底面積が標準的な大人と同じ500平方センチメートルだとしても、1平方センチメートルあたりにかかる荷重は0.4キログラムにすぎない。
法隆寺五重塔の初重の柱には、1平方センチメートルあたり、およそ20キログラムの荷重がかかっている。二足歩行の人間の場合(他の動物の場合でも同様であろう)と比べ、まさに桁違いの大きさの荷重である。しかも、法隆寺五重塔の柱は、そのような巨大な荷重に、1300年以上もの間、耐え続けているのである。驚異的なことだ。
五重塔を、そのような驚異的な荷重ばかりでなく、地震や大風にも耐えさせているのが、きわめて巧妙な木組み構造なのである。
心柱は“大黒柱”
五重塔の中心を貫く“大黒柱”が心柱である。事実、五重塔建造の木材の中で、最も念入りに選ばれ、加工され、そして最も太いのが心柱である。
法隆寺五重塔の心柱に使われたのは、樹齢2000年以上、根元の直径が2.5メートル以上の檜である。この檜の大木を真ん中から縦に四つ割りにし、それを断面が八角形になるように削られたものが使われている。一番太い根元で約80センチメートルある。
法隆寺五重塔の心柱の全長は約32メートルであるが、それは長さ約16メートルの八角形の2本の部材をつないで作られている。
この2本の部材をつないだときに、ずれたり曲がったりしないように、また、つなぎ目が完全に合うように継手仕口(つぎてしぐち)が作られている。さらに、結合をより完全にし、心柱を補強するために、心柱の四方から添え木が当てられている。
直径が1メートルほどの丸木をそのまま心柱に使わず、わざわざ大木を縦に四つ割りにしたうちの1本を使ったのはなぜだろうか?
じつは、丸木のままの大きな柱は存在しない
芯を含んだ柱はのちにひび割れしたり、曲がったりして建物をゆがめることがあり、ひどいときには建物を壊してしまうからである。実際、法隆寺には、心柱に限らず、四つ割りにせずに芯を含んだままの大きな柱は1本も存在しない(前掲の『法隆寺を支えた木』)。
図「青龍寺五重塔の心柱」に、建立直後に撮影した青森・青龍寺五重塔の心柱を示す。この心柱は、樹齢約400年、根元の太さが約130センチメートルの青森檜葉の原木から切り出したもので、根元の太さが約64センチメートルの八角柱となっている。心柱の総高は約36メートルであるが、下から9メートル、12メートル、15メートルの3本の部材がつながれ、総重量は約4.5トンである。
五重塔の心柱は、まさに“大黒柱”とよぶにふさわしいきわめて重要な柱なのであるが、じつは、前述のように、この心柱は相輪を支持しているだけで、五重塔そのものの荷重を支えることにはまったく貢献していない。
宙吊り心柱構造の歴史
現在の法隆寺五重塔の心柱は基壇上の石組みで支えられているが、当初はそこから約2.7メートル下の地中に据(す)えられた心礎(礎石)の上に、掘立柱(ほったてばしら)式に立てられていた。大正15(1926)年、腐朽して空洞化した心柱の土中部分の下の心礎上面の舎利孔(しゃりこう)が発見され、そこに舎利容器一具が安置されていることが判明した。
ともあれ、心柱の下部が空洞化していた、という事実は、心柱が五重塔の荷重を支えていないことの証左である。
法隆寺の心柱は地中の心礎の上に立つ掘立柱であったが、その後に建てられた薬師寺東塔、西塔、醍醐寺や東寺の五重塔の心柱は、いずれも地上の礎石の上に立てられたものである。また、平安期から鎌倉期にかけては、塔の初重の梁(はり)の上に立てられる構法の木塔が多くなる。平安時代に建てられた京都・一乗寺、浄瑠璃寺の三重塔、鎌倉時代初期の京都・海住山寺の五重塔などに、この構法の例が見られる。
江戸時代後期になると、なんと心柱を上層の肘木(ひじき)や土居桁(どいげた/梁)から吊り下げる、いわゆる“宙吊り心柱”の構法が出現する。上野・寛永寺、日光東照宮、香川・善通寺、山形・善寳寺(ぜんぽうじ)の五重塔などが、この“宙吊り心柱”の構法を採用している。私は2016年に善通寺五重塔にも登らせていただき、その宙吊り心柱を実際に見た。***
想像を絶する驚き
図「青龍寺五重塔の心柱」の青森・青龍寺の五重塔の心柱が、この“宙吊り心柱”なのである。
幸い、青龍寺の織田隆玄住職とその五重塔を建てた大室勝四郎棟梁の協力を得て、その“宙吊り心柱”をつぶさに観察・調査することができた。木塔建築技術に関して門外漢の私にとって、総重量4.5トンもの巨大な心柱が、あの五重塔の中で宙吊りにされているのは想像を絶する驚きであった。
青龍寺五重塔の宙吊り心柱の各部の写真を図「青龍寺五重塔の宙吊り心柱」に示す。
心柱各部の詳細を見てみる
心柱は、五重の土居桁から柱の周囲4点で吊るされている(図「青龍寺五重塔の宙吊り心柱」のaとb)。心柱を吊っているのは、タンバックルで連結された2本の亜鉛メッキSS400鋼棒(直径25ミリメートル)である。宙吊り心柱の底部は同図cに示されるように“礎石”から30センチメートルほど浮いている。
また、図「青龍寺五重塔の心柱」の上の写真(初重天井裏に敷かれ心柱を囲むように見えるのはビニールシートのようなもの)や図「青龍寺五重塔の宙吊り心柱」のcからわかるように、心柱は五重塔の構造物にまったく触れていない。実際、私は初重で心柱を押してみたが、簡単に揺らすことができた。
つまり、私が宙吊りの心柱を揺らしたときは、天高くそびえる相輪も揺れていたことになる。
ところで、日光東照宮の五重塔の初重が、東京スカイツリーの開業に合わせて、初めて公開された(2012年5月22日~2013年3月31日)。
私も早速、その“宙吊り心柱”を見に行った。中心を貫く直径60センチメートルの心柱が四重から鎖で吊り下げられており、その最下部は礎石の上で浮いている。創建当時はどのくらいの隙間だったのかわからないが、いまは10センチメートルほどになっている。
もちろん、許されることではないが、初重で見られる心柱を何かで押せば、それが相輪ともども揺れるのは間違いない。
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続いては、五重塔の耐風構造を見てみます。こちらも、実に巧妙な技術が生かされていました。
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