進化は予測可能なのものなのか?生物のデザインと進化の関係。生命の40億年をやり直したとき、ふたたび人類は誕生する?

生命科学
進化は予測可能なのものなのか?生物のデザインと進化の関係。生命の40億年をやり直したとき、ふたたび人類は誕生する?(更科 功)
もしも小惑星が白亜紀末に地球に衝突しなかったら、恐竜が生き残り、哺乳類の繁栄はなかったかもしれない。つまり、私たち人類は今ここに存在していなかった可能性もあるのだ! 進化の偶然性がもたらす運命を、再び生命の歴史をリプレイしてみると、驚愕の未来が待ち受けているかもしれない。

進化は予測可能なのものなのか?生物のデザインと進化の関係。生命の40億年をやり直したとき、ふたたび人類は誕生する?

もしも白亜紀末に小惑星が地球に衝突しなかったら?

アメリカの有名な古生物学者、スティーヴン・ジェイ・グールド(1941‐2002)は、大学の講義を教室の一番前で聴くような、熱心な学生だった。その後、大学の教員になると、大げさな手振りを交えて熱弁を振るう、熱い先生になった。

学生時代にグールドの講義を聴講した生物学者、ジョナサン・B・ロソスは、内容も魅力的で素晴らしかったと言っている。

ただし、かつてグールドの講義助手を務めた古生物学者、ニール・シュービンによれば、(当然のことだが)その情熱をすべての学生が受け止めたわけではないらしい。教室の前のほうで熱心に聴く学生もいたけれど、後ろのほうで眠りこける学生もいたようだ。

もっとも、グールドの講義は人気があって、学生が600人ぐらいいたらしいので、それも仕方がないだろう。大教室で講義をすれば、かならず何人かの学生は眠るものである。

さて、グールドはある講義で、「もしも白亜紀末に小惑星が地球に衝突しなかったら?」という質問を学生たちに投げかけた。小惑星が地球に衝突しなかったら、多くの恐竜が絶滅することなく生き残り、哺乳類が繁栄することはなかったかもしれない。

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ということは、現在、私たちヒトは存在していなかったかもしれない。グールドは、そんな可能性を指摘したのだ。

『ワンダフル・ライフ』と「ピカイア」

また、グールドは、著書『ワンダフル・ライフ』の中で、カンブリア紀(約5億3900万年前‐約4億8500万年前)に生きていたピカイアという脊索(せきさく)動物について述べている。

グールドが『ワンダフル・ライフ』を書いたころは、ピカイアが私たちの遠い祖先だったかもしれないと考えられていたからだ(その後、ピカイアよりも古い脊椎動物の化石が発見されたことにより、ピカイアが私たちの祖先である可能性は、ほぼなくなった。しかし、それは、本稿で述べるグールドの議論の本筋に影響することはない。ちなみに、脊椎動物は脊索動物のなかの一グループである)。

ピカイアは長さが5センチメートルほどの小さな動物だ。カンブリア紀の動物の中ではとくに目立った存在ではないし、化石もそれほど見つからないので、個体数もあまり多くはなかったと考えられる。もしも、このピカイアが私たちの祖先なら、どういうことが言えるだろうか。

バージェス頁岩のピカイア・グラシレンスの化石(Chip Clark/スミソニアン国立自然史博物館)

カンブリア紀にはさまざまな形をしたユニークな動物がたくさんいた。しかし、そのほとんどは子孫を残すことなく絶滅してしまった。ピカイアだって絶滅しておかしくなかった。だが、ピカイアは生き残った。その結果として、現在の地球に私たちが存在しているのである。

しかし、ピカイアが生き残ったのは、たんなる偶然かもしれない。もう一回、生命の歴史というテープをリプレイしたら、ピカイアは子孫を残すことなく、絶滅したかもしれない。その場合、現在の地球には、私たちヒトは存在しないことになる。グールドはそう述べたのである。

このようにグールドは、生命の進化における偶然性を強調した。たまたま起きた出来事によって、進化の道筋は大きく変わってしまうと考えたわけだ。進化は予測不可能で、生命の歴史のテープを何回かリプレイすれば、そのたびに異なる世界に辿り着くだろうというのである。

進化における収斂とはなにか?

もちろん、グールドに反対する人もいる。その代表がイギリスの古生物学者、サイモン・コンウェイ=モリス(1951‐)だ。

イルカは哺乳類である。サメは魚類である。中生代(約2億5200万年前‐約6600万年前)に生きていた魚竜は爬虫類である。

これらの動物は、系統的にはまったく異なるにもかかわらず、別々に同じような紡錘形の体に進化した。このような現象を収斂(しゅうれん)という。

イルカやサメや魚竜が紡錘形の体を進化させたのは偶然ではない。体の大きい動物が水中を素早く泳ぐためには、紡錘形の体が適しているのだろう。このような物理法則に生物が従わなければならないなら、どのような形に進化するかは決まってくるはずだ。

収斂は珍しいものではない。それどころか、じつはありふれた現象である。

コウモリは自ら超音波を出して、完全な暗黒下でも蛾などを捕まえることができる。この素晴らしい能力は反響定位と呼ばれるが、イルカでもこの能力が独立に進化している。

また、モルミルス科の魚は、電気を使って周囲を見たり仲間とコミュニケーションを取ったりする。この素晴らしい能力も、ギュムノートゥス科の魚で独立に進化している。

モルミルス科のエレファントノーズフィッシュ(学名Gnathonemus petersii)

このような超音波や電気を使う複雑な能力でも、収斂が起きているのだから、もっとシンプルな特徴なら、収斂が起きて当然である。事実、生物の特徴のなかで、他の生物とまったく収斂していないものなど、ほとんどないだろう。どんなにユニークに思える特徴であっても、たいてい他の生物でも進化しているものだ。

収斂は自然が行った進化実験

ところで、この収斂という現象は、自然が行った進化の実験といえる。違う場所で別々に進化することは、生命の歴史をリプレイすることと、本質的には同じだからだ。つまり、「収斂がしょっちゅう起きている」という事実は、「生命の歴史をリプレイしても同じような結果になる」ということを、示していると考えられる。

おそらく、生物が取り得るデザインには限りがある。だから、生命の歴史のテープを何回リプレイしても、辿り着く世界はいつも似たようなものになる。そういう意味では、進化は予測可能である。それが、コンウェイ=モリスの考えだ。

さきほど述べた生物学者、ジョナサン・B・ロソスは、ジャマイカ島でアノールというトカゲを研究した。ジャマイカには数種のアノールが生息しているが、棲んでいる場所によって特徴が異なる。

たとえば、地上によくいる種は、指先のパッドの接着力が弱いが、肢が長くて走るのが速い。一方、樹上によくいる種は、肢は短いが、指先のパッドの接着力が強く、木から滅多に落ちない。同じような特徴は、プエルトリコやキューバ、そしてドミニカ共和国のあるイスパニョーラ島に生息するアノールでも確認された。それぞれの島には、よく似た種が同じような組み合わせで生息していたのである。

ガーマン・アノール(Anolis garmani)(Quelle:Wilfried Berns/www.Tiermotive.de)

DNAの解析などから、これらの4つのそれぞれの島内に棲むアノール同士は、他の島に棲むアノール同士より近縁であると推測された。そこで、以下のようなシナリオを描くことができる。

かつてアノールは、それぞれの島へ別々に流れついた。その子孫たちは、それぞれの新天地に適応しながら、進化していった。その結果、ほとんど同じ姿をしたアノールたちを生み出した、つまり同じような世界に辿り着いたのである。

さらにいえば、これらの島々の環境は、ある程度は似ているかもしれないが、まったく同じというわけではない。多少は異なる環境でも、同じ世界に辿り着くのであれば、多少は偶然の出来事が起きても、やはり同じ世界に辿り着く可能性が高いのではないだろうか。ところがロソスは、かならずしもそうは考えていないようだ。ロソスの意見は両者の中間か、あるいはややグールドよりである印象を受ける。

ショウジョウバエの実験、そしてヒトで考えると

じつは、進化の実験のなかには、アノールの場合とは異なる結果になったものもある。

たとえば、ショウジョウバエの実験のなかには、まったく同じ環境であっても、それぞれの集団が別々の方向に進化していくことを示したものもある。これは、自然淘汰とは別の進化のメカニズムである遺伝的浮動が働いた結果と解釈されている。

私たちヒトの場合で考えると、父親も母親も、自分が持っている遺伝子の半分を子に伝える。たとえば、父親が一組の対立遺伝子を持っている場合、その片方だけが子に伝わる。そのとき、どちらの対立遺伝子が子に伝わるかは偶然による。これは母親の場合も同じである。

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この、どちらの対立遺伝子が子に伝わるかという偶然の効果によって、遺伝子頻度が変化することを、遺伝的浮動という。このメカニズムが働けば、進化の行き着く先は、自然淘汰によるものとは異なることもあるわけだ。

それに加えて、よく考えてみると、収斂がしょっちゅうあるからといって、進化が同じ世界に辿り着くとはかぎらないのではないだろうか。

生命40億年をやり直してみたら

たしかに大きなスケールで考えれば、いつかどこかで収斂が起きるかもしれない。しかし、いつ、どこで、収斂が起きるかも大切なはずだ。

たとえば、もしかしたら私たちの背中に昆虫のような翅が生えて、皮膚には植物のような葉緑体があって光合成ができるようになる進化の道筋もあったのかもしれない。その場合、私たちは日光を浴びるだけでお腹がいっぱいになるので、べつに働く必要はない。晴れた日に野原を自由に飛び回りながら、楽しく遊んでいるだけでいいのである。

虫や植物への収斂によってこういう人間が進化した場合でも、進化はいつも同じ世界に辿り着くといえるのだろうか。こういう世界は今の世界とはまったく異なる世界である、と言ったほうが適切ではないのだろうか。

地球に生物が棲めるのは、おそらくあと10億年ほどである。そのころには、今より太陽が明るくなり、放出するエネルギーも増えて、地球は干からびた灼熱の惑星になっている可能性があるからだ。ということは、生命が誕生したのは約40億年前だから、地球に生物が棲めるのは全部で50億年ぐらいということになる。

私たちヒトは、地球に生物が棲める約50億年間のおよそ8割が経過した時点で、やっと進化した。私たちのような知的生命体が進化するのに、40億年もかかったのだ。万が一、私たちが戦争か何かで絶滅したら、残りの10億年でもう一回進化するのは難しいかもしれない。

さらにいえば、もしも私たちが絶滅したあとで、別の知的生命体が進化したとしても、それは私たちとはまったく異なるものになるのではないだろうか。イルカから進化するか、カラスから進化するか、タコやイカから進化するかわからないけれど、それらが作った文明は、もはや完全な別世界だろう。

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生命の歴史のテープをリプレイしたらどうなるか。その場合の進化が行き着く世界には、グールドの言うことが当たっているところも、コンウェイ=モリスの言うことが当たっているところもある、そんな世界ではないだろうか。昨今はずいぶんグールドの旗色が悪いけれども、かつてグールドが言ったように、進化には予測できない面が存在することは確かだと考えられる。

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