「ヒトも、イルカも、チンパンジーも大差ない」…進化学者が「人類は、この地球上でそれほど特別な存在ではない」と考える理由

人類史

「人類は、この地球上でそれほど特別な存在ではない」という認識=【世界観】は重要な気がします。
「ヒトは全生物の頂点に立つ存在である」「我々は選ばれた存在である(=選民思想)」という意識が環境破壊の根源であり、紛争、戦争の原因で有ることに疑いの余地はありません。

「八百万の神」「ヒトは自然(=自分以外の存在全て)に生かされている」と言う縄文時代から現代の日本にも脈々と流れている【世界観】がこれからの認識の基盤になると思います。

「ヒトも、イルカも、チンパンジーも大差ない」…進化学者が「人類は、この地球上でそれほど特別な存在ではない」と考える理由(更科 功)
数万年前、数十年前のヒトは、おそらくイルカやチンパンジーの生活と、それほどの違いはなかったのではないか、と想像されます。今日のヒトは、高度な文明を築き上げましたが、一般的には、それは「ヒトが高度な知能を有するため」と考えられています。しかし、生物全体として見た時に、ヒトは他の生物とは違う「特別な存在」なのでしょうか。生物進化の膨大な遺産の蓄積の果てに生じた存在に目を向けてみます。

「ヒトも、イルカも、チンパンジーも大差ない」…進化学者が「人類は、この地球上でそれほど特別な存在ではない」と考える理由

木登りとジェット機の間にある壁

私たち人類は、この地球上で、あきらかに特別な存在である。高層ビルの建ち並ぶ都市を作り、飛行機で空中を高速で移動し、デジタル情報のネットワークを世界中に張り巡らしている。そんな生物は、私たちの他にはいない。

私たちにもっとも近縁と考えられているチンパンジーの生活と比べても、そこには雲泥の差がある。

熱帯雨林の木に登ることと、ジェット機に搭乗することのあいだには、かんたんには越えられない大きな壁があるような気がする。いや、しかし、本当にそうだろうか。私たちは、そんなに特別な存在なのだろうか。

高層ビルの建ち並ぶ都市に住むヒトと、熱帯雨林に住むチンパンジーに大きな差があるのだろうか photos by gettyimages

脳の相対的な大きさを比べる「脳化指数」なら、賢さの指標になるか

チンパンジーと並んで、いやもしかしたらチンパンジー以上に賢いと考えられている動物にイルカがいる。

イルカの脳の大きさ(約1200グラム)は私たちヒトの脳(約1300グラム)とほぼ同じで、チンパンジーの脳(約400グラム)よりかなり大きい。もっとも、脳の大きさは体の大きさに影響されるので、チンパンジーより体の大きいイルカが、チンパンジーより大きな脳を持っているからといって、チンパンジーより賢いとはかぎらない。

そこで、体重の異なる生物同士で脳の相対的な大きさを比べるために考え出された方法が「脳化指数」である。

脳の重さを体重で割れば、賢さの指標になりそうな気がするが、じつは、そうすると、小さな動物ほど相対的に脳が大きくなってしまう。たとえば、ヒトよりトガリネズミの方が、脳化指数が大きくなってしまうのだ。だからといって、トガリネズミの方がヒトより頭がいいと考える人はほとんどいないだろう。

そこで、体の大きさによる偏りを補正するために、脳の重さを体重の4分の3乗で割って、適当な定数を掛けたものが脳化指数である(対象とする動物群によって、4分の3乗を少し変えることも多い)。この方法で計算すると、イルカの方がチンパンジーより大きな値になるのである(たとえば、チンパンジーが約2.1で、イルカが約2.8など)。

脳化指数

ただし、イルカとチンパンジーの脳化指数を比べることに疑問を呈する人もいる。たとえば、イルカのように海中に棲んでいる動物では、急速に体温が失われる。そのため、体のかなりの部分を保温性の高い脂肪が占めている。しかし、脂肪に対しては神経によるコントロールが不用なので、脳化指数の算出に当たっては、体重を過大に評価している可能性がある。

また、やはり海中では体温が急速に失われるため、イルカの脳には熱を発生するための特殊なグリア細胞などが多いという見解もある。そのため、脳の重さを過大に評価している可能性もあるという。

このように、脳化指数はかなり大ざっぱで、賢さの指標としてはかなり問題がある。信じすぎるのは問題だけれど、イルカが非常に賢い動物であることぐらいは判断できるだろう。

イルカの知性は「脳の大きさ」によるのか

イルカの脳が大きくなった理由は、よくわかっていない。一つの仮説としては、漸新世(約3400万~2300万年前)に起きた南太平洋の寒冷化が引き金になった、というものがある。環境が特別な試練を与えたときには、大きな脳が有利になるのかもしれない。このころにエコロケーションの能力が広まった可能性もある。イルカは短い音を連続して発し、その反響によって周囲の状況を知ることができるのだ。

しかし、この仮説が正しかったとしても、その後数千万年にわたって大きな脳が維持され続けたことについては、別の説明が必要だろう。それについては、道具的知能と社会的知能の相互作用によって、大きな脳が維持されているという仮説がある。

イルカは、何種類もの方法で道具を使う。たとえば、シェリングと呼ばれる方法では、まず、海底に落ちている巻貝の貝殻に魚を追い込む。次に、この貝殻を海面まで持ち上げ、口で揺らして落ちてくる魚を捕まえるのである。

また、スポンジングという方法では、口の先に海面を付けて、岩場で餌を探し回る。これは口の先を保護するためだと考えられている。

これは道具ではないが、バブルリングを作ることも知られている。水中で空気の輪を作り、それを追いかけたりして遊ぶのである。

イルカは、バブルリングで遊ぶ photo by gettyimages

このように、イルカには高度な道具的知能が備わっているが、それと同時に、高度な社会的知能も備わっている。

イルカは高度な社会を作ることが知られており、個体同士の協力関係も非常に複雑である。100個体ぐらいの大きな社会を組織できることも知られている。そのため、イルカは個体同士でコミュニケーションを取るが、それが進化した背景にはエコロケーション(反響定位)の能力が関係しているかもしれない。

このように高度な社会的知能が、やはり高度な道具的知能と相互作用をすることによって、イルカは例外的に大きな脳を維持している可能性が高いのである。

イルカの限界

それにもかかわらず、私たちはイルカの能力について、たかをくくっているように思える。どんなにイルカが賢くても、しょせん私たちヒトのようにはなれないと考えている人が大部分だろう。おそらく、そのおもな理由は、イルカが水中に棲んでいるからだ。

イルカは水中をすばやく泳ぐために、体の操作性のほとんどを捧げている。そのため、前肢は鰭になっており、ものを掴める手はない。しかも、水中では火を使うこともできない。したがって、イルカは私たちのような文明を築くことは、この先もないだろう。

それはそうかもしれないが、視点を変えることによって、イルカと私たちヒトが似たようなものに見えてくる可能性はないだろうか。

ヒトの限界

考えてみれば、私たちヒトも、たいしてイルカと違わないかもしれない。なぜなら、私たちの周囲を眺めたときに、自分だけで一から作れるものなど何一つないからだ。

今、私の周りにはパソコン、机、椅子、コーヒーの入ったグラスなどがある。でも、私は、それらを使うことはできても、それらを一から作ることはできない。情けないことに、何ひとつ自分では作れないものの中で、私は生活しているのである。

こういう生活ができるのは、文字などによって情報を蓄積することができるようになったからだろう。多くの先人たちが少しずつ工夫を積み重ねていって、さまざまな技術などを発展させ、その実績の最先端に私たちは暮らしている。だから、飛行機が飛ぶ仕組みを知らなくても飛行機に乗ることができるし、パソコンが動く仕組みを知らなくてもインターネットを使うことができるのだ。

最先端の暮らしは、文字などによる情報の蓄積ができるようになったため photo by gettyimages

しかし、情報の蓄積ができるようになったのは、せいぜい1万年前以降のことだろう。私たちヒト(学名はホモ・サピエンス)が出現したのは約30万年前のことなので、そのほとんどの期間は、自分で作れるものだけを使って生活していたのである。

そのときの生活は、イルカやチンパンジーの生活と(同じではないにしても)それほどの違いはなかったのではないだろうか。私たちもイルカもチンパンジーも、自分で作れる範囲での道具は使ったし、個体同士でコミュニケーションも取っていた。

私たちの生活が、イルカやチンパンジーと大きく乖離(かいり)するようになったのは、情報を蓄積して、自分では作れない道具を使い始めるようになった、ごく最近のことなのである。

人間も「ただの動物」に他ならない

もしも私たちが、脳だけはそのままで、体はイルカになったとしよう。そのとき、私たちは、何かイルカと違うことができるだろうか。いや、ほとんどできないのではないだろうか。道具を使うといっても、手がないのだから、せいぜいシェリングやスポンジングぐらいしかできないだろう。

逆に、もしもイルカが文字を使うようになったら、数千年ぐらいで高度な海中文明を築き上げるかもしれない。それは、決してあり得ない話ではない。文字などを使って情報を蓄積していく能力が、それほど特別なものとはかぎらないからだ(ただし、イルカには手がないので、そこは問題になるかもしれないけれど)。

人間とは何か。それは、私たちが存続し続けるかぎり、永遠の問いかもしれない。しかし、情報を蓄積するようになる前と後では、その問いの意味は大きく変わってきたはずだ。

現代社会の中でヒトを捉えれば、たしかに、私たち人類は、この地球上で特別な存在だ。熱帯雨林の木に登ることと、ジェット機に搭乗することのあいだには、かんたんには越えられない大きな壁があるだろう。

しかし、ただの生物としてヒトを捉えれば、私たち人類は、この地球上でそれほど特別な存在ではない。熱帯雨林の木に登ることと、ジェット機に搭乗することのあいだには、じつはたいした違いはないかもしれない。訓練すればチンパンジーだって、ジェット機に搭乗することはできるだろう。たしかに、チンパンジーにはジェット機は作れないかもしれない。でも、ヒトである私にも、ジェット機は作れないのだ。

「人間とは何か」という問いを発するときには、人間とその他の動物の違いを強調することが多いように思える。しかし、人間とその他の動物の連続性は明らかであり、そちらに目を向けることも重要だろう。

人間も一人ではたいしたことはできない。この数千年のあいだに蓄積された莫大な遺産を先人から受け継いだために、他の動物とはかけ離れた文明などを享受しているだけなのだ。いわば、人間は、親から莫大な遺産を受け継いだために、えばっている子のようなものだろう。本人には、それほどの力はないのだ。

そう考えると、人間だからといって、あまりうぬぼれない方がよさそうだ。人間とは何か。それは、ただの動物なのだから。

スポンサーリンク
他の動物とはかけ離れた文明は、数千年のあいだに蓄積された莫大な遺産による
数千年のあいだに蓄積された莫大な遺産によって、他の動物とはかけ離れた文明などを享受しているだけなのだ photo by gettyimages

コメント

タイトルとURLをコピーしました