ガザに続くレバノンでの住民虐殺の背景にブリティッシュ・イスラエル主義
イスラエル軍は9月27日から南レバノンを空爆、ヒズボラの指導者、ハッサン・ナスララも死亡したという。イスラエルでの報道によると、27日の攻撃では「バンカー・バスター爆弾(地中貫通爆弾)」約85発が使用され、人口密集地で使われたため、少なからぬ市民が犠牲になっている。ウクライナでもアメリカはネオ・ナチを使って東部や南部の住民を虐殺したが、ロシア軍の反撃で目的を達成できなかった。反撃力の足りないレバノンやパレスチナでは虐殺を続けている。
この攻撃についてハーバード大学のスティーブン・ウォルト教授は次のように書いている:「これは非常に単純なことです。誰かに何かをしてほしくないなら、それを実行する手段を与えなければいいのです。」
そうした手段を与えたのはアメリカ政府。昨年12月、ウォール・ストリート・ジャーナル紙はアメリカ政府は100発のバンカー・バスター爆弾BLU-109をイスラエルに供与したと伝えている。つまり、アメリカ政府はイスラエルがそうした手段を使うことを認めているということになる。SIPRI(ストックホルム国際平和研究所)によると、イスラエルの武器輸入の69%はアメリカが占め、その次がドイツで30%だ。
イスラエルは2006年にもレバノン南部を攻撃しているが、その時にもアメリカが供給したバンカー・バスター爆弾を使用した。同時にクラスター爆弾や白リン弾も使っている。
しかし、それ以外の兵器も使われた疑いもある。ヒズボラとイスラエル軍が激しい戦闘を繰り広げたキアムとアトティリで着弾地点で濃縮ウランをクリス・バスビー博士が発見したのだ。新タイプの核分裂装置/兵器、あるいは濃縮ウランを使用したバンカー・バスター爆弾をイスラエルは使ったのではないかと言われたのだ。通常、バンカー・バスター爆弾は劣化ウランが使われる。
イスラエル軍がレバノンでウラン兵器を使用していたかどうかというイギリスのインディペンデント紙の質問に対し、イスラエル外務省の報道官だったマーク・レゲブは「イスラエルは国際法や国際条約で認められていない兵器は使用していない」と答えたのだが、ジュネーブ条約などのルールが策定された当時、現在のウラン兵器は発明されていないため、答えを回避したと考える人もいた。レバノンをアメリカは新型兵器の実験場として使っているとも言われている。
レバノンで謎の兵器が使われた可能性があるのだが、それをアメリカが1962年に北太平洋のジョンストン島でドミニク作戦の一環として実施した大気圏内核実験、フーサトニックと結びつける人もいる。
フーサトニックでLRL(ローレンス放射線研究所)はリップル・コンセプトと呼ばれる新しい設計をテスト、その実験は99.9%クリーンだったとされている。それ以前およびそれ以降に設計されたすべての核兵器を凌駕する性能特性が実証されたという。
アメリカのジョー・バイデン大統領は9月28日午後に声明を発表、ナスララ「と彼が率いるテロ組織ヒズボラは40年間の恐怖政治で数百人の米国人を殺害した責任がある」と主張、イスラエルの空爆による彼の死は数千人のアメリカ人、イスラエル人、レバノンの民間人を含む多くの犠牲者に対する正義だ」と述べている。アメリカ軍はビズボラやその同盟者による報復に対する準備を開始、イスラエルによる大量虐殺を後押しする姿勢を見せている。
本ブログでも繰り返し書いてきたように、パレスチナで大量殺戮を持ち込んだのはイギリスにほかならない。アメリカやイギリスはパレスチナやウクライナを戦乱で破壊しようとしている。
イギリス政府は1838年、エルサレムに領事館を建設。その翌年にはスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査し、イギリスの首相を務めていたベンジャミン・ディズレーリは1875年にスエズ運河運河を買収した。その際に資金を提供したのは友人のライオネル・ド・ロスチャイルドだ。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設する第一歩と言われる書簡をアーサー・バルフォアがウォルター・ロスチャイルドへ出したのは1917年11月のこと。これがいわゆる「バルフォア宣言」だ。
イギリスは1920年から48年の間パレスチナを委任統治、ユダヤ人の入植を進めたが、1920年代に入るとパレスチナのアラブ系住民は入植の動きに対する反発を強める。
そうした動きを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用した。
この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立されたのだが、殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。そして1936年から39年にかけてパレスチナ人は蜂起。アラブ大反乱だ。
1938年以降、イギリス政府は10万人以上の軍隊をパレスチナに派遣する一方、植民地のインドで警察組織を率いていたチャールズ・テガートをパレスチナへ派遣、収容所を建設する一方、残忍な取り調べ方法を訓練した。イギリス軍はパトロールの際、民間のパレスチナ人を強制的に同行させていたともいう。
反乱が終わるまでにアラブ系住民のうち成人男性の10パーセントがイギリス軍によって殺害、負傷、投獄、または追放された。植民地長官だったマルコム・マクドナルドは1939年5月、パレスチナには13の収容所があり、4816人が収容されていると議会で語っている。その結果、パレスチナ社会は荒廃した。
パレスチナに地獄を出現させたのはシオニズムだと言えるだろう。パレスチナに「ユダヤ人の国」を作ろうというのだが、当然、先住民を追い出すか皆殺しにすることになる。そのシオニズムがイギリスに出現したのはエリザベス1世が統治していた16世紀後半のことだという。この時期にイギリスではアングロ-サクソン-ケルトが「イスラエルの失われた十支族」であり、自分たちこそがダビデ王の末裔だとする信仰が出現した。ブリティッシュ・イスラエル主義とも呼ばれている。
ちなみに、旧約聖書の記述によると、イスラエル民族の始祖はヤコブだとされている。彼には12人の息子があり、それぞれ支族を形成、そのうちユダ族とベニヤミン族の後裔とされる人びとが「ユダヤ人」と呼ばれているのだ。残りは行方不明で、旧約聖書を信じる人びとから「失われた十支族」と呼ばれている。「ユダヤ人」でないので旧約聖書から忘れられたのだが、それを引っ張り出して妄想を膨らませたと言えるだろう。
スチュワート朝のスコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)も自分を「イスラエルの王」だと信じていたが、その息子であるチャールズ1世はピューリタン革命で処刑された。
その革命で中心的な役割を果たしたオリヴァー・クロムウェルもカルバン派に属すピューリタン。彼の私設秘書だったジョン・サドラーもブリティッシュ・イスラエル主義を信じていたという。アメリカへ渡ったピューリタンは当初、アメリカの先住民(アメリカ・インディアン)を「失われた十支族」のひとつだと考えたようだ。
実権を握ったクロムウェルは革命で仲間だったはずの水平派を弾圧、さらにアイルランドへ軍事侵攻して住民を虐殺。侵攻前の1641年には147万人だった人口は侵攻後の52年に62万人へ減少した。50万人以上が殺され、残りは「年季奉公」や「召使い」、事実上の奴隷としてアメリカなどに売られたと言われている。
シオニズムの背後にはブリティッシュ・イスラエル主義があり、その信仰は帝国主義と結びついて侵略、殺戮、略奪につながった。パレスチナだけでなく南北アメリカ大陸、東アジア、アフリカ、つまり全世界が侵略の対象になった。
帝国主義が出現するのは19世紀のイギリスだが、その当時、イギリスを動かしていたのは金融の世界に君臨していたナサニエル・ロスチャイルド、その資金を使って南部アフリカを侵略し、ダイヤモンドや金を手にしたセシル・ローズ、そのほかウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、アルフレッド・ミルナーたちだ。
世界支配の戦略を立てたのはローズだと言われているが、この人物は1877年にオックスフォード大学を拠点とする秘密結社「アポロ・ユニバーシティ・ロッジNo.357」へ入会、その直後に「信仰告白」を書いている。
それによると、ローズはアングロ・サクソンが「世界で最も優れた種族」だと主張、そのアングロ・サクソンが住む地域が広ければ広いほど人類にとって良いことだとし、そうした戦略を実現するために秘密結社は必要だとしている。その根底にはブリティッシュ・イスラエル主義があり、彼らは手先としてイスラエルを「建国」させた。ガザやレバノンでの大量虐殺もその延長線上にある。
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