江戸時代に観る本物の医師の姿と西洋人も恐れた武士道の真髄とは?

日本の文化

江戸時代の日本は、社会システムを始めその芸術・文化も世界最先端であり最高のモノでした。

又、「医は仁術」医は仁術なり」という「医は、人命を救う博愛の道である」ことを意味する格言があります。これは、特に江戸時代に盛んに用いられましたが、その思想的基盤は平安時代まで遡ることができ、また西洋近代医学を取り入れた後も、長く日本の医療倫理の中心的標語として用いられてきました。(wikipediaより)

さらに、「武士道」という日本固有の規範があります。
武士道に通ずる考えは、武力を持つ者は鍛錬・行使・身の処し方などを徹底すべきであり、独りよがりや私事へ存念するような見苦しいものではあってはならないとする日本独自の規範意識が根本にあります。
「独りよがりであってはならない」との考えの対象は、次第に、より普遍的な対象・・・民衆・生き物・学問・芸術・世の中の伝統などへ向かいました。一方、武士は命をかけて組織へ殉ずることが近世には美化されていきました。
江戸時代には、支配階級である武士には文武両道の鍛錬と自分の命を以って徹底責任を取るべきことが求められるに至っています。武士が私事で刀を抜くことは重大な責任を問われ、生涯、刀を抜かない武士も少なくなかったし、民衆騒動が起きた領地の藩主へ幕府より切腹が申しつけられることもありました。(wikipediaより)

このような江戸時代の状況と医療、武士や武道の本質を紹介する記事です。

江戸が人類史上、最初で最後の大自然都市なら、その都市で育まれた芸術・文化は、まさに人類史上最高の芸術の宝庫だった。
 歌舞伎、能、文楽、人形浄瑠璃、陶磁器、和歌、俳諧、川柳、浮世絵、狩野派等の絵画、彫刻、伝統的木造建築物、武道、華道、香道、茶道、囲碁、将棋・・・枚挙に暇がない。これらのジャンルで、明治維新以降、新たに排出したものがあるだろうか?
これらに匹敵する芸術性の高いものがこれだけ集中した都市が、世界にあっただろうか?

医療も未病が基本だった。
 医師は自分の担当する住民の健康に留意し、とにかく「発病させないこと」が彼らの仕事とわきまえていた。だから病人が出ると、自分の至らなさを恥じ、夜明け前に診療所を去る医師も少なくなかったそうだ。医療行為で財を成すなど論外だったのだ。~

組織はトップで決まる。江戸文明は、士農工商の身分制度で明確なように、トップの武士階級によって支えられた。
 では武士とは何か?「いざ」という時は、藩(国)のため、藩主のために、武器を持って死を賭して敵と戦う職業である。
そのために、生まれたときから一切り包丁、すなわち研ぎ澄まされた真剣による剣道を中心とする様々な厳しい武道と人間性向上のための学問が、日々の日課だった。上級武士になるほど、剣道の「免許皆伝」、茶道の心得、『孫子』『四書五経』等の習得、習字、馬術、兵法等、より高度な修得が求められた。
 特に剣道・槍等、武術の稽古は、常に死と対面し、その克服のためには心の修行が不可欠であり、究極の無刀取りの極意、つまり~(たたかい)を「止」める「道」の完成が求められる。

江戸時代に観る本物の医師の姿と西洋人も恐れた武士道の真髄とは?
今回も江戸時代の素晴らしさを 紹介していきながら、また江戸時代 から学べる事なども、書いていきます。 それと最…

江戸時代に観る本物の医師の姿と西洋人も恐れた武士道の真髄とは?

今回も江戸時代の素晴らしさを紹介していきながら、また江戸時代から学べる事なども、書いていきます。

それと最後にたまたまyoutubeで見つけた、江戸時代の動画を貼り付けておきましたので、それについても少し書いておこうと思います。

ではまた池田整治氏の著書から引用させていただきます。

『』内が引用で、~が中略です。

『さらに江戸に物乞いがいないことも異邦人を驚かせた。
例えば通常、盲人たちへの福祉と言うと金銭面での支援や目に見える支援が考えられると思う。ところが江戸では、琵琶法師と按摩という職業は、盲人たちの専門職として特権を与えた。つまりハンディキャップのある人たちに、お金ではなく「職業」という生きる糧を与えたのだ。これこそ、究極の福祉政策だろう。
医療も未病が基本だった。
 医師は自分の担当する住民の健康に留意し、とにかく「発病させないこと」が彼らの仕事とわきまえていた。だから病人が出ると、自分の至らなさを恥じ、夜明け前に診療所を去る医師も少なくなかったそうだ。医療行為で財を成すなど論外だったのだ。~

(引用注:まさにこれこそ医療の真髄ですね。私も身内や自分自身にはそのコンセプトで生活しておりますし、全く病院の薬を飲む事もなく、体調不良も全て自然治療で回復させる事をここ10年以上も続けております。
江戸時代の医師にくらべて、なんと現在の医療業界は金権まみれなのだろう。アフガンで不幸にも凶弾に倒れた中村医師などは、例外中の例外だという事です。)

江戸が人類史上、最初で最後の大自然都市なら、その都市で育まれた芸術・文化は、まさに人類史上最高の芸術の宝庫だった。
 歌舞伎、能、文楽、人形浄瑠璃、陶磁器、和歌、俳諧、川柳、浮世絵、狩野派等の絵画、彫刻、伝統的木造建築物、武道、華道、香道、茶道、囲碁、将棋・・・枚挙に暇がない。これらのジャンルで、明治維新以降、新たに排出したものがあるだろうか?
これらに匹敵する芸術性の高いものがこれだけ集中した都市が、世界にあっただろうか?

(引用注:非常にバリエーション豊かですが、バロック音楽や絵画など西洋にも質が高い芸術はあったので、そのあたりは、まあ種類は少なくても、西洋にも一定の評価をしたいと思いますが、おそらくそれが一般庶民にひろがっていた民主性が、欧州とは比べ物にならなかったのだと思います。宗教画も
音楽も確かに特権階級のものでしたからね。
また現代日本では、やはり楽しむ事にかけては、昔から一流だったので、アニメや漫画、ゲームに変わったという事で、やはり多彩な展開もしているとは思います。ただゲームが体と脳に被害を及ぼし、漫画も思考力という点で成長しにくくなる部分があるのは、確かですが、まあ日本人が多彩で多感という
のは、まだなんとか受け継がれているとは思います。)

文学を見ても、世界最古の私小説『源氏物語』が誕生したのが、一〇〇八年。今から一〇〇〇年も昔
である。一三〇人近くの登場人物が織りなす世界最古の恋愛小説だが、この名著は読後、人生のわび・さびを感じさせてくれる。
 それから七、八〇〇年もの年月を積み重ねて書かれた『浮世草子』や『奥の細道』『東海道中膝栗毛』『南総里見八犬伝』等の書物や文学は、様々なジャンルで華開いた。
欧米の文学は、せいぜい一〇〇年から二〇〇年の歴史に過ぎない。~

(これも驚いた、もう少しは欧州の文学も歴史はあるとは思いますが、しかし、それでも圧倒的に日本の文学の発展の方が古いといえそうですね。)

中世の欧州は王侯・貴族の国であり、一般市民は農奴しかいなかった。
キリスト教は、このような専制支配体制を維持強化するためのイデオロギー的要素が、教祖である
キリストの心(教え)に反して、彼の死後に入ってしまったのです。

(引用注:これはローマ帝国の時代に、大きく聖書が改ざんされた事も記事に書かせていただいたと
思いますが、当時からキリスト教は一応キリストの言葉を弟子たちが書いたと言われる新約聖書以外に
旧約聖書もベースにしていて、その内容があまりにも支配者にとって都合が良い思想だと近年知って驚いたのですが、なんとさらに驚く事にこの旧約聖書は、キリスト教だけでなくユダヤ教、イスラム教のベースでもあるという事をほとんどの人が知らないと思います。
その事は、旧約聖書についての記事に書いていこうと思います。)

組織はトップで決まる。江戸文明は、士農工商の身分制度で明確なように、トップの武士階級によって支えられた。
 では武士とは何か?「いざ」という時は、藩(国)のため、藩主のために、武器を持って死を賭して敵と戦う職業である。
そのために、生まれたときから一切り包丁、すなわち研ぎ澄まされた真剣による剣道を中心とする様々な厳しい武道と人間性向上のための学問が、日々の日課だった。上級武士になるほど、剣道の「免許皆伝」、茶道の心得、『孫子』『四書五経』等の習得、習字、馬術、兵法等、より高度な修得が求められた。
 特に剣道・槍等、武術の稽古は、常に死と対面し、その克服のためには心の修行が不可欠であり、究極の無刀取りの極意、つまり~(たたかい)を「止」める「道」の完成が求められる。

(引用注:~の部分は武という漢字の止めるだけを取り除いて、戦うという意味の部分が入るのですが、どこにもそんな部分をフォントで扱ってはいなかったので省略させていただきました。とにかく、白刃取りというのが無刀取りという事なのでしょうが、とても高度な技ですが、やはり研ぎ澄まされた精神と、高い意識レベルがないとそこまでの極意を得る事は難しいという事でしょう。
それにやはり、戦うよりは止めるという武士道の真髄がここにもあるという事だと思います。)

そのための厳しい精神修養を通じ、禅に通じ、わび・さびの感性、無の心境、すなわち「究極の人格の形成」が求められる。だからこそ武道精神に通じるものほど、弱者への愛、公への奉仕、誠な生き方を体現するようになる。
一方、これを支える婦人にも「婦道」と呼べる、武士の妻としての良妻賢母の修行が行われた。

 こういう武力と高い人間性を併せ持った武士が、江戸文明を支える、つまり行政を預かっていたのである。
欧州の貴族達支配者は、自己の領土と名誉のためには大いに戦ったが、一般市民と言える農奴のために仕事に励んだという史実は聞いたことがない。
 ところが江戸時代の武士は、市民のために粉骨砕身働いた。彼らの普段の仕事は、今で言う幕府や市役所の役人である。
彼らは私利に走ることなく誠実に勤務した。幕末には一般市民である商人のほうが経済的には裕福になった。
「武士は食わねど高楊枝」とは、皮肉ではなく、まさに彼らの無私の奉仕、誠実な生き様を表すものである。
 一方、精神的には、彼ら武士は名誉と義を重んじ、そのために殉ずることさえ厭わなかった。いざという時には、金も地位も家族も捨てて、己の信じる義のため、己の名誉のために、獅子奮迅の力を発揮する。~

(引用注:この家族も捨ててというのは、残された家族の事を大事にしないという意味ではありません。藩(国)のために戦って命を落とした場合、藩から家族のために手厚く支援される事が約束されていたのです。しかも自分が命を落としても、また良い夫を見つけるように妻に念を押していた武士も
少なからずいた事でしょう。なんという潔い漢のあり方なんでしょうね。)

しかも彼らには帯刀が許された。つまり常時「武力」を保持していた。その精神力と武力に支えられた武士団が、一〇〇万都市・江戸を支え守っていたのである。それゆえ治安には、警察官である同心がわずか十数人いれば良かった。

~ちなみに、このような武士が守る日本への直接的な武力による植民地化は、軍事上不可能だった。黒船が威嚇射撃だけで上陸しなかったのは、黒船の兵員輸送能力と武士の数を比較すれば、物理上、それしか手がなかったことが理解できる。それゆえ、日本を勢力下に収めるためには、薩長等を使った武士間の内戦という「間接侵略」が採用されることになるのだ。』

“出典:「マインドコントロール」
           池田整治 著
           ビジネス社刊”

最後の見解は貴重です。もちろん明治維新が、欧米の支配層による間接支配により始まったという事を知らなければ、話になりませんが、これを読んでくださっている方なら、よくおわかりの事だと思い
ます。
つまり歴代の総理のほとんどが山口県出身なのは、彼らの支配にいち早く収まり、幸福であった江戸時代を終焉させた長州藩が前身の土地だからです。
しかもその支配が現在まで続いている証拠に山口県岩国市に米軍基地があるのは、日本をいまでも占領しているという事を、大衆には隠しながら、政府中枢には示しているという事なのです。
そして江戸時代の武士団を、彼らがことさら恐れていたというのは、太平洋戦争を回顧した元米軍兵士たちが、日本兵は体は小さくても自分たちより屈強で、同じ武器を持って戦ったらとてもかなわないと口を揃えたというエピソードが存在しているのを見ても分かっていただけると思います。

確かに西洋の兵隊には、武道の極意などは全くわからない世界で、精神修養もまた武道の鍛錬も欠かさなかった武士たちは本当に強かったのだと思います。

それより特筆すべきなのは、彼らが行政も担当していたという事です。四書五経などを修得していたから、教養も高かったという事で、しかも民を思う精神も手伝って、今とは比べ物にならないくらい優れた行政が行われていたのだと思います。

医療、行政、文化、治安などあらゆる分野で江戸時代が完成された社会である事がわかります。

では最後に以下の動画をどうぞ一応その下に簡単なコメントを書いておきました。

【衝撃】外国人が見た150年前の日本が凄すぎる…「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」と感動した
エピソードとは…?!【すごい日本】

海外の反応

まあありがたい事に、日本を限りなく賞賛してくれたわけですが、たぶん間接支配が明治から始まったという真実は、彼らの中でもさらに特権階級しか知らなかったのでしょう。
おお神よとかいってる間に、日本は影で欧米の勢力下に入ってしまったのです。
だから明治以降、全く他国に戦争をしかけるような国民性では全くなかったのにもかかわらず、戦争を彼らの圧力に屈した政府と軍部が決めて他国へ侵攻していったというわけです。

まあ彼らのように海外を悠々と略奪してまわるような階級は、豊かであったでしょう。日本を貧しいというのは、彼らに比べたらという事で、江戸時代は衣食住が満ち足りて、文化も発達していた豊かな時代であったので、満ち足りていたわけです。単に生活が彼らの好むように派手でなかったというだけの事です。

ではまた(^^)/

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