No.1383 外来文明も理解する伝統保守が国柄を深めてきた ~ 宮崎正弘『禁断の国史』から
国史を見れば、他国の文化文明も深く理解して、自国の歴史伝統を深めてきたのが、真の伝統保守であることが分かる。
■1.「歴史とは物語である。英雄の活躍が基軸なのである」
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日本史を「縄文から弥生」「古墳時代」「奈良・平安」「鎌倉・室町」「戦国から近世」「江戸時代」「明治近代化以後」という時代区分にさらりと割り振って歴史教科書は綴られている。なんとも感動が薄い。年表暗記だけ、無味乾燥の叙述には浪漫の薫りも民族の夢もない。日本の音色は何かで断弦された。
歴史とは物語である。英雄の活躍が基軸なのである。[宮崎、p1]
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こう始まるのが、宮崎正弘氏の最新刊『禁断の国史』[宮崎]です。この一節は、まさしく筆者が「NPO法人 歴史人物学習館」を始めた動機であり、心からの共感を禁じ得ません。氏は「英雄の活躍」を基軸に、この本を次のように構成されています。
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この小冊が試みるのは、「歴史をホントに動かした」英傑たち、「旧制度を変革し、国益を重んじた」愛国的な政治家、「日本史に大きな影響力をもった」人たちと「独自の日本文化を高めた」アーティストらの再評価である。時系列に歴史的事件を基軸にするのではなく、何を考えて何を為したかを人物を中軸に通史を眺め直した。[宮崎、p3]
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その結果が、108項、登場人物114人という、実に広範ながら簡潔な歴史人物評伝となりました。その中で、本稿では「中国文明というグローバリズム」に「伝統保守」の英傑たちがいかに応じたのか、という視点から、我が国古代の一大ドラマを見てみたいと思います。そこから我々も現代のグローバリズム、すなわち西洋文明、共産主義、グローバル資本主義などへの対処の仕方を学べるでしょう。
禁断の国史 英雄100人で綴る教科書が隠した日本通史 – 宮崎 正弘
■2.蘇我馬子の「途方もない野心」を実現するための「政治道具として仏教」
仏教を武器として、政治権力を握った最初のグローバリストが蘇我馬子(そがのうまこ)です。宮崎氏は馬子をこう描きます。
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蘇我馬子は政治的に実権を掌握していた。だが天皇の持つ祭祀王としての宗教的権威を伴う立場ではない。血脈による外戚関係の確立は進行していたが、国家を主導するカリスマ的権威が必要であり、その文脈から蘇我馬子は政治道具として仏教の活用法を見出すのだ。
つまり国家体制を中国や朝鮮のように宗教的秩序で社会を構築できるという構想力、その途方もない野心を抱いたがゆえに、あれほど強烈だった群臣の反対に対して、執拗に粘り強く崇仏を説いたのである。[宮崎、p55]
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馬子の「途方もない野心」と、それを実現するための「政治道具として仏教」のつながりが鮮やかに描かれています。
ちなみに、中学歴史教科書での馬子の記述は、トップシェアの東京書籍版では次のようなものです。
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このころ大和政権の中では,有力豪族たちが次の大王をだれにするかをしばしば争っていました。その中で渡来人と結び付き,新しい知識と技術を活用した蘇我氏が,物部氏をほろばして勢力を強め, 6世紀末に女性の推古天皇を即位させました。[東書、p36]
[飛鳥文化]6世紀の半ばに朝鮮半島から伝わった仏教は,初めは渡来人や蘇我氏を中心に信仰されていましたが, 7世紀に入ると,中国や朝鮮の影響を受けた聖徳太子と蘇我氏が仏教を重んじるようになったため,飛鳥地方とその周辺に寺がいくつも造られるようになりました。[東書、p37]
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この記述では、馬子の政治的野心と仏教信仰は何の関連もないように描かれています。しかし、真に仏教の慈悲心を学んでいる人間なら、物部氏を滅ぼすような行いはできないでしょう。この矛盾を東書は何も説明できていません。
馬子が「途方もない野心」から「政治道具として仏教」を使ったという宮崎氏の記述にして、初めて両者の関係が浮かび上がってきます。そして自らの野心のために仏教というグローバル宗教を「政治道具」として使う、という姿勢は、その後のグローバリズムの輸入者たちに共通して見られるものです。
■3.聖徳太子の正統的「伝統保守」
東書の記述では聖徳太子は馬子の単なる伴走者のような書き方をしていますが、宮崎氏の記述では太子の思いに踏み込んだ記述がなされています。
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聖徳太子は飛鳥を離れ斑鳩に法隆寺を建立する。これは何を意味するか? 聖徳太子は保護を受けた蘇我氏から離れようとしていたのではないのか。聖徳太子は「和の精神」を説いた。仏教を崇拝するが、古来から日本の神道を敬えとしており、神仏混合の基礎を培った。[宮崎、p62]
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その具体的な証拠として、次のような史実も述べられています。
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太子の建てた(とされる)四天王寺とは祈る場所、薬の施薬院、治療院、そして入院施設の四つ。ところが、この寺を守る外側に神社群が造営され、大江神社、上之宮神社、小儀神社、久保神社、土塔神社、河堀稲生神社、堀越神社が建立とあいなった。当時の日本人が必ずしも仏教を全面的に依拠していたのではなかった証左である。
つまり聖徳太子は仏教一辺倒ではなく、古来からの神道を同時に尊重し、法隆寺のまわりには神社を四方に建立して日本の神々が寺院を護るというかたちを編み出したのである。[宮崎、p59]
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後に日本仏教は「山川草木悉皆成仏(山も川も草木もすべて成仏する)」などと唱えるように、「すべての生きとし生けるものが神の分け命」という神道的生命観によって変容し、神道と平和的に融合していくようになります。太子は仏教というグローバリズムを日本の文化伝統に消化吸収する道を指し示したのでした。
本来の伝統保守とは、外来文明を排斥してひたすら自国の伝統を墨守する、という姿勢ではありません。自国の歴史伝統に根ざしつつ、外来文明でも良い要素は慎重に取り入れて、自らの文化伝統をより豊かにより深くしていく、というものです。
■4.中臣鎌足の「神祇として伝統保守という歴史的な使命」
馬子の子、蝦夷(えみし)とその子・入鹿は聖徳太子の皇子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族を滅ぼし、天皇の統治を簒奪するかのような傲岸不遜な振る舞いを見せました。ここでも蘇我氏の仏教信仰は「政治道具」であったことが見てとれます。この二人を滅ぼしたのが、中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳(いっし)の変です。
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乙巳の変の首謀者は中大兄皇子というより神祇界を代表した中臣鎌足である。・・・中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足は、それぞれ動機が異なつた。
蘇我蝦夷・入鹿から次の暗殺目標とされていた中大兄皇子の場合、「やられる前にやれ」という切羽詰まった強い動機があった。鎌足の場合は神祇として伝統保守という歴史的な使命が動機である。[宮崎、p64]
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藤原氏の祖神は、天照大神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上に降臨した際に随伴した天児屋命(あめのこやねのみこと)であり、中臣鎌足はその22代目の子孫でした。「我が一族は神話時代からの皇室の藩屏(はんぺい、守り)」との誇りと使命感を持っていたことでしょう。「神祇として伝統保守という歴史的な使命」はここからでたものでしょう。
蘇我氏が皇室を滅ぼして、新しい王朝を始めていたら、その後は中国のように、力あるものが旧王朝を滅ぼして新王朝を建てるという全国的戦乱が数百年毎に繰り返されたでしょう。そういう事態を未然に防いだのが中臣鎌足でした。
■5.天武天皇の日本文化確立
天智天皇が崩御されてから、その同母弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)と皇子・大友皇子との間で壬申(じんしん)の乱が起きます。東書はこう記述しています。
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天智天皇の死後,あとつぎをめぐる戦い(壬申の乱)に勝って即位した天武天皇は,大きな権力をにぎりました。天武天皇は,唐や新羅に負けないための国づくりを目指し,中国にならった律令や都,さらには歴史書を作るように命じました。[東書、p39]
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壬申の乱を「あとつぎをめぐる戦い」「大きな権力をにぎりました」と権力闘争と捉え、しかも「唐や新羅に負けないための国づくり」と、「中国にならった律令や都,さらには歴史書」がどう繋がっているのか、さっぱり天武天皇の想いが読めません。この点を、宮崎氏は次のように明快に説きます。
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翌年起こった壬申の乱という古代史最大の内乱は親中路線を驀進し新羅出兵を考えていた大友皇子を、国の基本を誤る危険とみて立ち上がった闘いだった。
天智亡き後の近江朝が百済の亡命貴族等に占拠され、新羅との戦争を準備したことへの反対行動、文化防衛の闘いであった。[宮崎、p67]
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近江朝を倒して即位した第四十代天武天皇は、飛鳥浄原宮に皇居を戻し、多くの制度改革に着手した。また通貨「和同開珎」を発企した。唐との交流を中断させた。邪教と疫病の流入を防ぐためである。中でも最大の文化史的業績は『古事記』と『日本書紀』編纂を発企し、『万葉集』の編纂にも熱意を示したことである。
天武天皇が日本文学の礎を築いた。この偉業を正面に捉えるべきであろう。天武天皇が国風を興隆させ、唐風を排除しようとした日本文化確立運動の推進者だった。それが壬申の乱の本質である。[宮崎、p71
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『古事記』『日本書紀』『万葉集』、さらには国号「日本」も天武天皇の時代とされています。日本国の文化伝統の骨格を築いたのが天武天皇であり、そのための百済の亡命貴族らグローバリストとの戦いが壬申の乱でした。
■6.菅原道真「保守回帰」を成し遂げた偉大な思想家」
平安時代にも伝統保守の英傑は何人も登場しますが、その中で宮崎氏が高い評価をしているのが菅原道真です。
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菅原道真はなぜ神となったのか。日本全土にある天神、北野神社の主神、菅原道真の最大の功績は、遣唐使の廃止を建言したことである。しかも遣唐使大使に任命されていたうえでの建言である。このことから、菅原道真は単なる学者政治家ではなく、「保守回帰」を成し遂げた偉大な思想家として再評価すべきである。
唐風に染まった日本文化を国風に戻し、保守回帰に国の方向を転換させたのだ。[宮崎、p106]
遣唐使の廃止は事実上の「鎖国」である。それまで「漢詩が教養人のステイタス」という風潮が官廷にあって、儒教と仏教の流入、律令制度の真似という唐風が三百年にわたって日本を支配していた。それが日本から消えた。日本文化、伝統が尊重されるようになり、唐風を排撃したのだ。[宮崎、p107]
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この宮崎氏の記述を、東書と比較してみましょう。
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894年に遣唐使になった菅原道真は,唐のおとろえと往復の危険とを理由に派遣の延期を訴えて認められ,これ以降,遣唐使の派遣は計画されなくなりました。[東書、p47]
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この本文の横にある「菅原道真 藤原氏に追放された学者貴族」と題したコラムでは、太宰府に流されたことと、死後、たたりを恐れて北野天満宮に祀られたことを説明しているだけです。まさに「無味乾燥」な、経歴書的記述です。「日本文化を国風に戻し、保守回帰に国の方向を転換させた」というような、道真の功績の本質を一言で指し示す鮮やかさはありません。
■7.外来の文化文明を学びつつ国柄を深める「国際派日本人」
菅原道真の項で、宮崎氏は興味深い指摘をされています。
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菅原道真は文章の達人でもあった。漢詩をこよなく愛し、作詩する一方で、和歌の天才歌人として現代に伝えられている。漢詩と和歌両方の天才ということは、当時流行の唐風にあきたらず和風にも力点を置けるというバランス感覚を持っていたといえる。・・・
道真は唐語と日本語の達人「バイリンガル」であった。福沢諭吉や夏目漱石は英語の、森鴎外はドイツ語の達人だったが、日本語で深みのある文章を綴った。[宮崎、p108]
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聖徳太子も漢文で仏教の解説書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を書くほどの「バイリンガル」でした。伝統保守の思想家たちが日本語のみならず外国語にも通暁していた、という点は重要です。
それは外国語を通じて外来文明の本質を透視し、その中から我が国の伝統をより豊かにしうる要素を見いだすことができるからです。同時に他国の文化文明を知ることで、我が国の歴史伝統の本質も掴むことができるのです。
それに比べれば、「政治道具としての仏教」を使った蘇我氏や「漢詩が教養人のステイタス」と信ずる平安貴族たちは、仏教や漢詩というグローバリズムを輸入して自らの権勢を広めたり、立身出世の道具として使っているだけで、それでは他国の歴史伝統の核心を理解することも、それによって自国の歴史伝統をより深くすることもできません。
弊誌のタイトルに含まれている「国際派日本人」という表現は、自国の歴史伝統に根ざしながら、他国の歴史伝統も理解し尊重する人間を意味しています。聖徳太子や菅原道真のような生き方こそ「国際派日本人」の元祖なのです。
そして、そういう「国際派日本人」たちが、政治闘争や立身出世の道具としてのグローバリズムを排し、外来文明の良い点を消化吸収して、日本の歴史伝統を深めてきたのです。この点こそグローバリズムを無批判に取り入れがちな現代日本人の学ぶべき点です。
(文責 伊勢雅臣)
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