正倉院 ~ 世界最古の国際美術館
「全アジアのもっとも美しい時代の姿が、正倉院に保存されている」。この奇跡はどのように実現されたのか?
■1.テヘランで見つけた正倉院所蔵品とそっくりの水差し
「これを初めて見たときには思わずハッとした」と早稲田大学でシルクロード史を研究されていた長澤和俊・名誉教授は言う。昭和41(1966)年春にテヘラン考古博物館を訪れた時のことである。そこで見つけたガラス製の水さしは、正倉院所蔵のものとそっくりだった。
__________
鳥の嘴(クチバシ)をかたどった口、流れるような曲線を示す胴体や把手(トッテ)、とくに注ぎやすいように親指をかける突起など、驚くほど似ている。[1,p89]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ただし、正倉院のものは大切に保存されてきただけに透明な美しさに溢れているが、こちらの方は出土品のようで、表面が銀化したり、汚れたりしている。
__________
少なくともこれを見た瞬間には、あの正倉院の水さしはおそらくぺルシアからはるばる伝来したものと直感したのである。[1, p90]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■2.「世界最古の国際美術館」
この水差しは、正倉院宝物の二つの特徴をよく表している。
第一は「正倉院はシルクロードの終着点である」と言われる国際性である。宮内庁正倉院事務所長・杉本一樹氏の『正倉院 歴史と宝物』[2]では次のように指摘されている。
__________
デザインや装飾技法、容器のかたちなどについてみれば、宝物には、インド、イランからギリシア、ローマ、エジブトにおよぶ各国の諸要素が包含される。[2,p56]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
第二は保存性である。
__________
一方、永世保存が当初からの目的とされることにも注意したい。同じ目的の、宝物の一括献納の例として、エジプトの諸王朝の宝や、中国では法門寺地宮や遼代の慶陵白塔の事例がある。
しかし、永世保存の手法として選ばれたのは、埋納という形式であり、正倉院の例のように、人の手によって、地上で守られた例を知らない。つまり、永世保存という意思が発信され、それが一度も途切れずに、人から人に引き継がれて継続しているということである。[2, p33]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
正倉院は世界最古の国の世界最古の王朝に護られてきた「世界最古の国際美術館」なのである。なぜ、これが実現されたのか、歴史を辿ってみれば、そこにわが国の国柄が見えてくる。
■3.長安で流行したペルシア風文化
618年に成立した唐はササン朝ペルシア(226~651)年との間で、文化交流が盛んだった。仲介に立ったのが、商才に長けた西トルキスタンのソクド人である。ソグド人はペルシア人と同じイラン系アーリア人で、言語も宗教も近かった。
彼らはペルシアの絨毯、宝石細工、楽器、ガラス、金属器、香料、薬品などをラクダの背に載せ、今日のイランからパミール高原やタクラマカン砂漠を越えて長安まで運んだ。
651年にアラブ軍(イスラム・カリフ国)がササン朝を滅ぼすと、王子たちやその一族郎党が唐に亡命した。彼らに従って、多くの工芸家が長安にやってきた。
玄宗皇帝(唐の第9代皇帝、685~762年)の宮廷内の工房には織物刺繍工、木工、玉工、金工が千人規模でいて、様々な工芸品を作っていた。その中には多くのペルシア人工匠やその弟子となった唐人工もいて、ペルシア風の工芸品も制作していた。それらが国内の貴族の褒賞や周辺国の朝貢への返礼として配られていたのである。
唐の首都長安でもペルシア風の文化が流行した。『旧唐書』は「太常の楽は胡曲を尚び、貴人の御饌(しょくじ)はことごとく胡食で、士女はみな胡服を着ている」と書いている。「胡」とはペルシアやソグドのことである。
玄宗の下で軍人としてのし上がった安禄山は、ソグド人と突厥(トルコ系遊牧民族)の混血で、755年に「安禄山の乱」と呼ばれる叛乱を起こした。この際に、唐のある王族が逃れる際に、持ちきれない財宝を大きな唐壺2つに入れて、長安南郊に埋めた。
その唐壺が見つかり、中から出てきた宝物には、銀薫炉や琉璃(るり)碗など、正倉院の宝物と瓜二つのものが少なくない。またササン朝の銀貨、東ローマの金貨、日本の和銅開宝銀銭も出てきて、当時の国際交流の盛んな様を窺わせる。
■4.遣唐使やその返礼使節による交易
長安の国際性豊かな様は、わが国から赴いた遣唐使の一行も見聞している。7世紀から9世紀にかけて、我が国は17回にわたって遣唐使を派遣した。長澤教授は彼らの長安での滞在についてこう語る。
__________
遺唐使の一行は長安で大食、吐蕃、その他多くの外国人と会い、それぞれのすぐれた文化も肌で感じていたと思われる。中国の西方には西域、吐蕃、吐火羅、大食、波斯、天竺等の国々があり、西方には緑眼朱髯の人が住むというようなことは、大和朝のインテリには実際に彼らと会い、話をかわすことによって、すっかりわかってい
たのである。[1, p211]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
東アジアの遣唐使は、それぞれの国の特産品を唐に献納し、それに数倍する回賜(返礼品)を貰って帰国するのが常であった。いわば当時の国際貿易である。また、日本からの遣唐使は総勢100人から600人程度で、彼らは命がけの渡航であったから、無事、唐に着くと、唐物の購入に精を出した。
それらの中には、ペルシアから唐にもたらされたもの、あるいは唐に亡命したペルシア工人が造った工芸品も含まれていたろう。これらの一部が日本に持ち帰られ、正倉院の宝物とされたようだ。
また日本から遣隋使・遣唐使が派遣されると、その返礼として使節が我が国にやってくるのが通例であった。天智天皇の治世の669年と671年にはそれぞれ2千人規模の夥しい船と唐人が来朝している。その中には夥しい数の商人が含まれていて、莫大な唐物を持ってきたようだ。
分量から見ると、遣唐使が持ち帰った物以上が輸入され、その中には正倉院に献納された多くの工芸品が含まれていたと推測されている。
■5.唐のすぐれた技術の吸収につとめた職人たち
興味深いのは、諸国からの遣唐使の中で、日本人は特に書籍の購入に熱心だったことだ。『旧唐書』の「倭国日本伝」には、「得るところの錫賚(しらい、下されもの)尽(ことごと)く文籍(ぶんせき、書籍)を市(か)い、海に泛(うか)んで還(かえ)る」と、記録されている。
書籍を熱心に求めるのは、昔からの学問や技術を重んじる日本人の習性だろう。さらに遺唐使の一行には、医師、楽師、画師、玉・鍛冶・鋳物などの職人などもいて、唐のすぐれた技術の吸収につとめた。
第17次遺唐使(838~840)とともに入唐した藤原貞敏は、もともと琴の名手であったが、唐の琵琶の名人劉二郎に砂金二百両を贈ってに師事し、わずか数ヶ月でことごとく妙曲を伝授された。劉二郎はその天分に感心し、譜数十巻を与え、その愛娘を貞敏に嫁がせたという。
翌年の帰朝にあたり、劉二郎は紫檀・紫藤琵琶各一面を餞別として貞敏に与えた。「正倉院宝物中の数多い琵琶も、何回かこうした経緯をくり返して輸入されたものかもしれない」と長澤教授は指摘する。
■6.新羅商人の中継貿易
正倉院の宝物の中でも有名な鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)は、六扇にわたって豊満な唐美人が描かれ、一見、唐からの舶来品と考えられたが、この屏風の下貼りの反故(ほご)紙に天平勝宝4年(753)の年記があり、結局、わが国で製作されたことが明らかになった。
この下貼りに使われた文書は、天平勝宝4年に新羅使がやってきた際に、奈良朝の貴族が新羅使から購入予定の物の種類・価格などを報告したものであると見られている。購入品の中でも多いのは香料で、その原産地は中国南部からインド、マレー半島、スマトラに及び、新羅商人の広範囲な活動が窺われる。
しかし、長澤教授は「この国には古い金銀器や金銀平脱(JOG注: 紋様の形に切った金や銀の薄い板を貼り付けた)漆器等が残っておらず、新羅、百済はわが国と唐との中継貿易を試みたとみられる点があり」と言われている。唐からの返礼品や輸入品も、ほとんど日本へ輸出してしまったという事か。
いずれにしろ、その文書が反故として、朝廷で工芸品の制作にあたっていた内匠寮(ないようりょう)に払い下げられ、下貼りとして使われた。作者は唐で技術を学んだ日本人か、あるいはもう一つ可能性があるのが帰化人である。
■7.帰化人たちの貢献
長澤教授によれば、正倉院の御物には日本で制作されたと判明していながら、ペルシア人の工芸家がいたとしか考えられないものがある、という。
それは二つの屏風で、両方とも樹木の下で鹿や猿をなどを配置したペルシャ風の模様が描かれているが、専門家によれば、これは、ゾロアスター教の最高神オフルマズドが悪の神アフレマンを追放する様が描いているという。
様式だけ見れば、ペルシアから中国を経て日本にやってきたもののように見えるが、屏風の下端には、絹布の銘識の一部と思われる墨書きで「天平正宝三年十月」とあり、わが国で造られたものである事が明らかになった。
帰化人が工芸の面でも活躍していたことは記録にも残されている。唐の高僧・鑑真は日本側の招請を受けて、5回の失敗を乗り越えて来朝した。その際に、弟子14人のほか、ペルシア人(または現在のウズベキスタンのブハラ人)らしき安如宝、ベトナム人軍法力など24人が同行したという。
鑑真は後に唐招提寺を建立したが、その金堂、地蔵堂などは安如宝、講堂の丈六弥勒菩薩などは軍法力の作であるという。
その外にも、遣唐使の帰朝にあたり、唐のつけた送使が遭難などで帰れなくなったため、帰化した唐人も多く、彼らはそれぞれ姓を賜り、官位を授けられ、唐文化の普及に貢献した。わが国では技術や学問をもった帰化人も歓迎され、彼らがまた優れた工芸品を後世に残したのである。
■8.「世界最古の国際美術館」
ペルシアや唐で優れた工芸品がたくさん作られ、また貿易などでアジア各地に広まった。しかし、それらの多くは永世保存のため、あるいは戦火や略奪から護るために土中に埋められたりした。さらには新羅のように貿易で多くの工芸品を扱いながら、利のためか、自国ではほとんど残されていない、という国もある。
こういう歴史と比べてみれば、正倉院で海外からの多くの宝物が人の手によって残されてきたことは、世界史的な奇跡であることが理解できよう。
イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーはこう語っている。
__________
七、八世紀のさまざまな遺品を、あれほどまでに数多く、しかも完璧な姿で保存されてきた正倉院の宝物は、まさにかけがえのない「宝石」である。[3, p11]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
また、ヨーロッパの東洋学ではもっとも進んでいるフランスのギメ東洋美術館の館長だったルネ・グルッセも、こう評価している。
__________
全アジアのもっとも美しい時代の姿が、今日、正倉院に保存されており、われわれの眼の前にその姿をほうふつとさせてくれる。あらゆる点において、七、八世紀はアジア大陸のもっとも偉大な時代であったとおもう。そして、その偉大な世紀が、まさにこの正倉院
に保存されているのである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
正倉院がこれらの「宝石」「全アジアのもっとも美しい時代の姿」を1200年以上も保存できたのには、二つの要因がある。
第一は皇室の保護である。正倉院は初期の頃から「勅封」がかけられていた。扉を開けるには勅許(天皇の許可)が必要であり、開閉には天皇の命を受けた使者が立ち会う。中世以降は「勅封」とは「天皇ご自身が書かれた封」と解されるようになり、紙にお名前あるいは花押が書かれる。この伝統が現在まで続いているという。
第二は、1200年以上にわたって9千点もの品を丁寧に記録し、厳重に虫干し・点検し、時には高度な技術によって復元修理してきた無数の人々の精魂込めた作業である。
正倉院とは、「世界最古の国」の皇室と先人たちの努力によって護られてきた「世界最古の国際美術館」である。まさに「和の国」[a]ならではの伝統である。
おりしも御即位記念の第71回正倉院展[4]が11月14日(木)まで奈良国立博物館で開催されており、東京国立博物館では御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」[5]が11月24日(日)まで開催されている。
この世界史の奇跡を我々は国内で見られるというのも、ご先祖様たちのお陰である。
コメント