貝原益軒の『養生訓』は健康論を超えて、哲学だと思います・・・
「人の身は父母を本(もと)とし、天地を初(はじ)めとす」
「諸々(もろもろ)の食物、皆あたらしき生気ある物をくらふべし」
「養生の術は先(まず)心気を養ふべし」
「心を和(やわらか)にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず。是(これ)心気を養ふ要道なり」
83歳の貝原益軒は、自身の体験から編み出した、心身ともに健康で充実した幸福な日々を送る術を書き残した。
養生訓 ~ 人々がみな幸せに仲良く暮らせる国を創る道
■1.「整形手術をした女性がほとんどいない国」
韓国で飲食店を経営している夫婦が、神戸に留学している娘に会いに日本にやってきた。訪日は今回が初めてという母親が、日本での「発見」を知人の日本人に語った。それは「整形手術をした女性がほとんどいない国」ということだった。
「そんなこと当たり前じゃないの?」と日本人が聞くと「韓国では当たり前じゃないよ」。その母親によれば「年をとるほど、過去に整形したかどうかが分かってくる。顔に出てくるのよ」という。留学中の娘も母親の発見に全く同感していたそうな。[1]
ある韓国の市場調査会社の調べでは、女性の19.7%、男性の5.3%が「整形手術をしたことがある」と答えている。また、別の調査によれば、18歳以上の女性の10人中8人は美しくなるために整形美容の手術が必要だと感じているという。
日本人には整形までして見せかけの美人・美男子になる事に対する抵抗感がある。それよりも、顔の造作に難はあっても、若い女性の愛嬌のある笑顔だとか、中年男性の豊かな人柄の滲み出た和やかな表情など、内面的な美が表情に表れた様を魅力と感ずる。
この感じ方の違いは、日韓文化の大きな差異である。この違いはどこから来たのか。
■2.自分の身体は自分だけのものではない
この日本人の感じ方を表現した一書に、江戸時代に書かれた貝原益軒の『養生訓』がある。その冒頭は「人の身は父母を本(もと)とし、天地を初(はじ)めとす」という一文から始まっている。
自分の身体は父母からいただいたものであり、父母の身体は祖父母から、と遡(さかのぼ)っていくと、原初には天地を初めとしている、ということになる。
これは天照大神を我々の先祖と考える神道的人間観そのものであり、かつ原初の生命が様々な進化を経て人類になったという現代進化論の見方とも合致している。
自分の身体をこのように親を通じて天地から与えられたものと考えれば、それは自分だけのものではない。欲望に任せて暴飲暴食をして病気にでもなったら、親からいただいた身体を自分の欲望で傷つけた「親不孝」であり、天が我々一人ひとりに与えた天命をないがしろにする「不忠」でもある。
こういう身体観から考えれば、手っ取り早く異性にもてたいと整形手術を行うことは、天地と親からいただいた身体を、自分個人の勝手な欲望から毀損する罪である。
我が国が「整形手術をした女性がほとんどいない国」であるのも、こういう伝統的な人間観が国民の深層意識に残っていて、親と天地からいただいた身体を勝手に傷つけることに対する抵抗感を抱いているからではないか。
同様に、身体に入れ墨をするとか、身体に穴を開けてリングを通すピアスも、日本人の人間観からは忌避されるのである。
■3.一本の木を育てるように、自分の身体の世話をする
福岡藩の儒学者・貝原益軒が『養生訓』を著したのは、正徳2(1712)年、83歳の時であった。人生50年と言われた当時に、「いま83歳にいたりて、なほ夜細字をかきよみ、牙歯(は)固くして一もおちず」と心身壮健を誇り、世のため人のための著述に励んだ。[2,p26]
そして自らの生活の中で実践して掴んだ、長命健康を実現して、充実した人生を楽しむための方法論を体系的に説いて、人々の参考に供しようとしたのが、この書物であった。
『養生訓』というと、なにやら老人のための健康法を説いた本のように思われるが、益軒は「わかき時より、はやく此(この)術をまなぶべし」と説いている。自分の身体を一本の木のように捉えれば、枯れかかってから世話を始めるのではなく、若木の頃から適度の水や肥料をやり、虫をとって、丈夫に育ててこそ、健康で長命な成木になる。
そして、その木が豊かな果実を実らせて、世のため人のために役立つことで、充実した幸福な生となる。そのために自分の身体という「木」の世話をする「術」を具体的に説いたのが『養生訓』であった。
■4.人間は植物や魚や動物の命をいただきながら生きている
人間を親から子へと時間軸上の循環系として捉える人間観が現代の進化論にマッチしているとすれば、人間を自然の中の木のように捉える人間観は、現代の生態学、エコロジーの発想と同じである。
木が自然の中で、水と二酸化炭素と太陽光のエネルギーを得て、枝葉を作り、酸素を放出する。木は単独で生きているのではなく、自然界と物質やエネルギーをやりとりしながら、その循環系の中で生かされている。
人間も同様である。呼吸し、水を飲み、食物をとる。それで身体を維持成長させ、それを動かすエネルギーを得る。その残りは屎尿として排泄される。健康で長命な身体を作ろうとすれば、それらの良き循環を心がけなければならない。
益軒は食べ物に関して、多くの具体的なノウハウを残しているが、その一つに、こんな言葉がある。
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諸々(もろもろ)の食物、皆あたらしき生気ある物をくらふべし。(巻第3の31)
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この言葉を、斎藤孝氏はこう解説している。
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人間は、植物の命や魚の命や動物の命をいただきながら生きています。それらの命を新鮮なうちにいただくと、自分の命も元気でいられます。反対に古くなった食べものは、身体の循環を滞らせ、気をふさいでしまうのです。・・・
朝摘み野菜やフルーツ、水揚げされたばかりの魚など、スーパーには収穫したてを謳うピチピチの生鮮食品が並んでいます。新しい食品は、やはり生気が満ちているので人気があります。それらを食べると、身体も新鮮な循環で回っていくように感じます。
それに比べ、スナック菓子には生気がありません。ポテトチップスや袋入りの菓子パンは、たまに食べるのならよいのですが、こればかり食べていると健康な身体を保てません。[3,p69]
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■5.心身をを動かすエネルギー
益軒が言及した「生気」は伝統的な身体観の中心をなす概念である。現代日本語でも「元気を出す」「気をつける」「気合いを入れる」「気を配る」「気持ちよい」「気落ちする」「気に入る」「気が合う」「気を引く」など、「気」の使われる言葉は多い。気とは心と身体を動かす生命エネルギーと考えられる。
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江戸時代の人たちは、心の健康と身体の健康を分けていませんでした。心と身体をつなぐのが「気」で、気を中心に心と身体がひとつのものとして存在していたのです。
心身二元論のように、心と身体を分ける考えは西洋の哲学で、『養生訓』の中にはまったく出てきません。天地に気が存在し、すべてのものと共に自分もめぐっている。めぐっているので心と身体を切り離すことはできないし、自己と他者、自己と環境を切り離すこともできません。関わりながら、一緒にめぐる存在です。[3,p24]
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精神的なストレスから身体の不調を訴えたり、身体を病む人が心も弱くなったりすることを考えれば、心と身体を分ける西洋の哲学よりも、心身を一体のものと捉える日本的な身体観の方が合理的だろう。現代医学もこの方向に研究を進めているようだ。
益軒は心身一元論の身体観から、心と身体の両方を壮健にして、充実した人生を歩むための方法を説いている。その中心が、心身を両輪として動かしているエネルギーとしての「気」である。
■6.「心を和(やわらか)にし、気を平らかにし」
この気をいかに養うかが、益軒の養生の術の第一歩である。
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養生の術は先(まず)心気を養ふべし。
心を和(やわらか)にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず。是(これ)心気を養ふ要道なり。(巻第一の9)
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「憂いを少なくする」ということに関して、齋藤氏は次のような体験を述べている。
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私も以前、頭の中が心配事でいっぱいになり「どうしよう、どうしよう」と思い悩んだ時期がありました。マッサージに行くと、担当してくれた人が「眉のあたりから上が真っ青なのですが、何かありましたか、いつもと顔色が全然違いますよ」と言うのです。・・・
人によって身体への表れ方は違うかもしれませんが、大きな心配事は血の流れを悪くします。そんなときは、誰かにマッサージをしてもらったり、自分でストレッチをしたり、お風呂に入ったりして、とにかく身体のほうから循環をよくするよう働きかけましょう。体内の血がめぐり始めると、今度は心が持ち直すのです。[3,p25]
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心身は一体のものだから、心配事が身体の不調としてあらわれるが、逆に身体の血液循環をよくすることで、心の凝りも軽くなる。このように心身の両面から壮健を目指すのが養生の道である。
■7.「怒りをおさえる」ための緩やかな呼吸
「怒りをおさえる」事も、気を養う大切な道である。怒りに任せて怒鳴ったりすると、その怒気が血管の内側を傷つけ、血管が詰まりやすくなるという事は、科学的にも証明されている。[3,p132]
怒りが怒声となると、自分だけでなく、相手の気も傷つける。
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年齢をある程度重ねると、怒っても怒らなくても大きな差がないことに、気づきます。しかも、怒ったことで相手が良くなるかどうかを考えると、相手の気持ちが離れていくことの方が多いのです。[3,p125]
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そう分かっていても、なお怒りがこみ上げてきたらどうするか。
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そのときは、軽く息を吸い、口からふーーっとゆっくり吐き出しましょう。これを、2、3回繰り返すと、怒りのテンションが下がります。カッとしたとき、「これはないだろっ!」と声を荒げるのと、「よくないね」と穏やかに言うのとではまったく違います。
怒鳴ってしまうと空気全体が緊張し、それがお互いの心に残ってしまいます。語調というのは非常に大切です。ですから、呼吸をゆったりとさせるのです。[3,p126]
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ゆったりと呼吸することによって、血のめぐりを緩やかにし、それによって怒りのテンションを静める。心を直接コントロールすることは難しいので、身体の気をゆったりと巡らすことで、心気も和やかにするのである。
■8.「人々がみな幸せに仲良くくらせる」国
気は自然界のみならず、人間界、すなわち世間をも循環している。和気あいあいとした仲間に入れば、自分もその「和気」を貰って和やかな気分になる。したがって自然界とも人間界とも「和気」を巡らすことで、我々は健康で豊かな、充実した生活を送れる。
そもそも我が国は「大和」すなわち、「大いなる和の国」である事を目指して建国された。初代・神武天皇は、橿原の地に都を作る際に、次のようなみことのりを出している。
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このうえは、天照大神のお心にそうように、大和の国のいしずえをしっかりしたものにするように、おたがいにゆたかな心をやしないましょう。人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。[a]
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この理想が現代も相当程度、実現されているからこそ、我が国は20年以上も前から長寿世界一の座を守り続けているのである。[4] これを少子高齢化だとか、年金破綻などと恐れるのは心配事をいたずらに増やす、養生とは反対の道である。
国民一人ひとりが養生の道を実践して、心身ともに健康な生活を送れるようにすれば、定年を10年伸ばして、75歳くらいまで働き続けることもできるだろう。そのための医療技術なども開発されつつある[b]
そうなれば、年金問題も大きく軽減されるし、高齢者の医療費も減る。労働者不足も解消して外国人労働力移入など考える必要もなくなるかもしれない。そして、なによりも「人々がみな幸せに仲良くくらせる」「大いなる和の国」を創りだすことができる。それが我が国の伝統的な理想に沿う道である。
まずは我々国民一人ひとりが自分の「身は父母を本(もと)とし、天地を初(はじ)めとす」る事を自覚して、養生の道を歩むべきだろう。
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