「心身一如」・・・「頭」⇔「心」⇔「気」⇔「身体」≠「物」
心身一如(しんしんいちにょ)とは、「東洋医学」の基本的理念と言われている概念です。
東洋医学では、ココロとからだを分けないで、一つのものとして認識しています。
「一如」は真理はただ一つである意。
「一」 は不二、「如」は不異の意。
西洋医学は、東洋医学とは対照的に、心と体は別のモノであるという要素還元論、機械論的考え方(思想)です。
さらに、思考も心、身体と一体であるという考え方もできます。
「思考」とは「頭」で考えること具体的には言葉を使う、「心」は言葉にならない思いや感情、実感、感覚、「身体」は肉体であり、本能であると思います。
これらはまさに、「心身一如」「不可分」なものですね。
以下に、思考(=頭)と身体の関係と東洋の心身観についての記事を紹介します。
第29話:身体知(身体で覚える)
東洋の伝統的な「身体論」についての本を読んでいくなかで、ふと目を見張る文章に遭遇します。例えば「身体より脳の方が攻撃的」というフレーズがそのひとつ。言い換えると「脳の暴走を止めるのは唯一身体である」ともいえます。そのこころは、実は「身体」の方が「脳」より頼りがいがあって大事だよということです。
現代はとかく脳万能主義が横行しがち。すべてのことが脳から上意下達できると勘違いしてしまいます。これは危険な兆候です。なぜなら知識の詰め込みは、かえって身体からリアリティーをなくすことになってしまいます。少年犯罪においても、簡単に人を殺したり、人をいじめたりするのは、きっとその少年の身体に「傷つけられると痛い」というリアリティーが欠落しているからでしょう。となると、脳が下す「人を殺したい(いじめたい)」という感情の暴走を止められない「身体」になりやすくなっていることが、実は教育や家庭に対して問われている、真の課題ではないかと思っています。
東洋の伝統的な「身体論」には「身体知」という言葉があります。身体は知性的で、知性は身体的です。「身体」の方が「脳」より頼りがいがあって大事とは、「身体知」が成り立つ状態です。そのキーワードは「身体で覚える」にあるとみています。
例えば、芸道や武道あるいはスポーツでも同じことですが、初歩の状態では、いわば、まず頭で考えてから身体を動かそうとします。指導者がこういうようにすればよいと教えてくれるのを、知的に理解し、計算してから身体をそれに従わせようとします。しかし、身体を心で思うようには動きません。この場合には、心と身体は二元的にとらえられています。考える意識としての心と、意識の命令に従って動かされる身体とが、分けてとらえられています。しかし、訓練をくり返し続けていれば、しだいに、心で思う通りに身体が動くようになります。そのときはじめて、指導者のいっていることの意味がわかってきます。身体で覚えたからです。こうした理想的状態を「心身一如(しんしんいちにょ)」と呼びます。名人の演技では、心の動きと身体の動きに少しもズレがなく、心と身体は一つになっています。さらに、普段の姿勢や佇まいに精神性が感じられるといいます。
身体で覚えるというのは、なにも芸道や武道あるいはスポーツだけのことではなくて、一般的な学習において、声を出して読むとか、何度も紙に書いて覚えるということも該当します。これは江戸時代の「寺子屋」にみる学習法であり、現代の教育に大いに参考にすべきことかもしれません。身体で覚えたことは忘れないというのは、「心身一如」の状態をキープした「身体知」が働いていることです。
それと身体性の希薄さとして最近気になっていることが、人と人の距離感いわゆる「間合い」を取れない人をみかけることです。混んでもいないエレベーターの中や、レジの前で列についているときに、私の後ろにぴたっとくっついてでもいるかのような距離感で立つ若者がいます。またTVドラマ「南極大陸」をたまたま観たときも、堺雅人が年上役の柴田恭平に向かって、顔と顔の距離が10センチぐらいの位置で口角泡を飛ばすぐらいの勢いで説得するシーンがありましたが、とても違和感を覚えます。もしも武士の世なら、その間合いは失礼千万の危険すぎる間合いであって、ばっさり斬られてもおかしくないでしょう。間合いがうまくとれない人が増える社会って、結構危険なことなのです。
現代社会において、これほどデジタルが氾濫していくと「脳」ばかりが優先され、かえって身体性が希薄になってしまい、社会の健全性を失うことにつながります。東洋の伝統的な「身体論」における「身体知」には大いに参考にすべきことがありそうで
第30話:心身一如(東洋の心身観)
英語の“body”には、「肉体」とか「身体」という意味がありますが、これはあくまでも、mind(心), soul(魂), spirit(霊)の反意語として使われています。さらに“body”には「物体(ボディ)」という意味もあります。従って西洋における「身体」は最も「心」に遠い存在であり、むしろ「物」に近い存在であることが分かります。
「心」≠「身体」≒「物」
これはデカルト以来の『心身二元論(物心二分法)』を根底にしています。西洋の近代化は「心」と「身体(物)」を分けて、それぞれが発展してきました。西洋哲学やキリスト教では「心(精神)」の価値を重視し、「身体」の価値を軽蔑した傾向にあります。近代科学では「心」の要素を無視して、「物や身体」は還元主義をもって追究されてきました。西洋医学では、「身体」は解剖学的に全体を部分に分類し、さまざまな器官やその機能について生理学的に研究します。臨床医学が内科・外科・耳鼻科・・などといった多くの専門に分化しているのはそのためです。従って病気の心身相関を認める立場にたっても、部分の集合体として全体を捉えなおす還元主義の見方では不十分になります。
一方、東洋では、「心」と「身体」は元々一体不可分の関係にあるものとして捉えられています。さらに、「物」を身体の外の世界と捉えると、「身体」は丁度、「心」と「物」の中間に位置しています。
「心」=「身体」≠「物(外部)」
先の“body”と比較してみると、「身体」という言葉には「身体に効く」「身体に尋ねる」「身体に障る」「身体で覚える」「身体を惜しむ」などの慣用句があるように、明らかに「身体」を「意思」なり「心」を持ったものとしてみていることが分ります。東洋医学では「心(精神)」と身体症状は密接に関係することをいち早く気づいていました。また診察からしても部分から全体を伺う診断技術(脈診や望診など)も先人の経験の中から生まれ、心身の全体的なはたらき方に注目するホリスティック(全体的包括的)な見方が唱えられています。この東洋の「心身観」を一言で表すと「心身一如(しんしんいちにょ)」といいます。さらにこの場合、「身体」と「心」をつなぐものが「気」となります。
「心」⇔「気」⇔「身体」≠「物(外部)」
「心」と「身体」が一体になる「心身一如」の状態は、無条件で保障されるものではなく、むしろ本来は伝統的宗教での修業法として実証的に担保されるものです。中国では仏教・儒教・道教の三教が微妙な対立と交流を重ねてきましたが、その根底には一つの共通した基礎体験があり、それが修業法。仏教者は「坐禅」とよび、儒者は「静坐」とよび、道士は「錬丹」「導引」などとよぶ心身の鍛練法です。これらを一括して「瞑想法」とよべる内容のものです。それと、これらは身体の訓練を通じて精神の訓練と人格の向上を目指す実践的な企て、という意味をおびています。
「瞑想法」の訓練はまず呼吸法から始めます。呼吸と「気」は昔から関係が深いものと考えられてきたからです。「心」と「身体」を一体にするために「気」をめぐらせます。「気」をめぐらせるといっても、実際は「心」で「気をめぐらせる」と思うわけで、「心(意識)」が気の流れを感得したことを「心気が一致する」といい、「心」と「身体」がそこで一体となって「心身一如」となるといいます。
ストレスフルな環境下で「心ここにあらず」といった状態は、きっと「心」が「身体」から離れた状態のこと。「心身一如」を取り戻すためには、「身体」からアプローチして呼吸法と「気をめぐらせる」ことが大切になります。そうした背景に、伝統的な瞑想法や鍼灸治療の役割があると思っています。
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