国際プロパガンダの研究

中国の歴史
JOG(229) 国際プロパガンダの研究|『国際派日本人養成講座』主宰・伊勢雅臣
文書偽造から、外国人記者の活用まで、プロパガンダ先進国・中国に学ぶ先端手法。 H14.02.24_____36,731 Copies_____403,469 Views ■1.エドガー・スノー■  世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ≪田中手記≫  1941(昭和16)年、大東亜戦争開戦の年の春にアメリカのランダム社から出版されたエドガー・スノー(冒頭画像)による「アジアの戦争(The Battle for Asia)」の第一編第一章の冒頭に引用されたセリフだ。「アジアの戦争」とは日本の「世界征服計画」の第一ステップだと言うのである。  エドガー・スノー

JOG(229) 国際プロパガンダの研究

文書偽造から、外国人記者の活用まで、プロパガンダ先進国・中国に学ぶ先端手法。

■1.エドガー・スノー■

 世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ≪田中手記≫

 1941(昭和16)年、大東亜戦争開戦の年の春にアメリカのランダム社から出版されたエドガー・スノー(冒頭画像)による「アジアの戦争(The Battle for Asia)」の第一編第一章の冒頭に引用されたセリフだ。「アジアの戦争」とは日本の「世界征服計画」の第一ステップだと言うのである。

 エドガー・スノーは1936年、中国共産党の支配する大陸奥地に潜入して、毛沢東とのインタビューに成功し、翌年出版した「中国の赤い星」は英米でベストセラーとなった。「私は、着くとすぐに毛(沢東)と会った。その姿はやせたリンカーンのように見えた」という見事な一節で、中国の共産主義者は、ロシアの革命家のような「血に飢えた権力主義者」ではなく、「良心的な民主主義者」であると印象づけた。

 その中国を侵略する日本人を「アジアの戦争」では次のように描写する。

 神道の教えを基にする武士道を信ずるサムライたちは、百年足らず前なら、誰でも衝動的に、不幸な平民の首を斬り、刀の斬れ味を試すことができた。日本の兵士が、今日でも同じように中国で中国人の首を刎ねている理由はここに由来している。1923年(大正12年)の関東大震災の際、軍隊と警察の指導の下に行われた6千人の在日朝鮮人の虐殺は、実に日本人の女や子供の手によって行われたのである。

 スノーは、日中戦争では「やせたリンカーン」が、「女や子供まで虐殺に加担する残虐な日本人」の侵略と戦っている、という鮮烈なイメージを多くのアメリカ人に吹き込んだのである。

■2.歴史を変えた偽造文書■

 スノーが引用した「田中手記」は、「田中メモランダム」「田中メモリアル」「田中上奏文」とも呼ばれ、昭和2(1927)年に首相となった田中義一が天皇に上奏した文章とされている。英米の代表的な百科事典ブリタニカ(1990年版)には次のように記されている。

 彼(田中義一)が、満洲国の指導者張作霖の暗殺に関与した陸軍将校を処罰しようとした時、陸軍は彼を支持することを拒み、彼の内閣は倒れた。その後まもなく、田中は死亡した。天皇に中国での拡張政策を採用するよう助言したとされる文書”田中メモリアル”は、偽造されたもの(forgery)であることが明らかになっている。

 この田中メモリアルは、10種類もの中国語版が出版され、大陸の津々浦々で流布されていた。ロシア語版、英語版、ドイツ語版まで出されて、世界中に「世界征服を目指す日本」というイメージをばらまいた(その「日本語訳」もあるが、日本語で書かれたはずの原文はいまだに姿を見せていない)。

 この田中メモリアルがスノーの「アジアの戦争」の冒頭を飾り、そこから東京裁判での「日本は全世界支配を企んだ」という弾劾につながった。一つの偽造文書が歴史を変えたのである。

 中国で一般に信じられている所では、田中メモリアルは昭和2(1927)年7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていたが、翌3年6月、台湾人で満洲との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国語訳文にし、昭和4年12月に公表したものだとされている。

 台湾人商人が007のように皇居の中にある宮内省に二晩も忍び込んで、中国語文で25ページもの分量の文書を書き写したとか、いまだにその日本語原文が発表されてない、とか、いかにも荒唐無稽な筋書きであるが、それでも世界史を大きく変えてしまう所にプロパガンダの怖さがある。

■3.偽作の証拠■

 歴史家・秦郁彦氏は、田中メモランダムが偽文書である証拠を列挙している。[2]

・ 田中が欧米旅行の帰途に上海で中国人刺客に襲われた。→ 正確には「マニラ旅行の帰途、上海で朝鮮人の刺客に襲われた」。田中本人が上奏した文書で、自分自身が襲われた事件を、このように書き間違えるはずがない。

・ 大正天皇は山県有朋らと9カ国条約の打開策を協議した。→ 山県は9カ国条約調印の前に死去している。

・ 中国政府は吉海鉄道を敷設した。→ 吉海鉄道の開設は昭和4年5月で、上奏したとされる昭和2年の2年後。

・ 本年(昭和2年)国際工業電気大会が東京で開かれる予定→ 昭和2年にこの種の大会はない。昭和4年10月の国際工業動力会議のことか。

 秦氏はこれ以外にも5件の記述の誤りを指摘し、「これだけ材料をそろえば、偽作の証拠としては十分過ぎるだろう」としている。さらに、日本政府が田中メモランダムの存在を知ったのは昭和4年9月であり、上記の最後の2点と合わて、偽作の執筆時期を昭和4年6月から8月に絞りこんでいる。

 この文書が偽造されたルートは諸説あるが、秦氏はこの時期に張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家楨(おうかてい)が「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳させた上で「整合性を持った文章」に直して印刷した、という手記を残している事から、彼が偽造者だろうと推定している。この「機密文書」とは「あまり質のよくない(大陸)浪人の意見書のたぐい」と秦氏は見ている。そしてこの時期の中国では、他にも同様な偽造怪文書がいくつも出回っており、田中メモランダムはその一つがに過ぎない、という。

■4.「世界征服」の「共同謀議」■

 昭和21年5月3日に始まった東京裁判の冒頭陳述において、キーナン検事は日本が「世界征服」を狙ったという起訴理由を持ち出して、日本側を驚かせた。曰く、

 1927年、日本政府は中華民国に対して、積極政策を樹立し、1928年4月、中華民国に軍隊を派遣した。・・・
 起訴状は、被告等が東アジア、太平洋、印度洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的を以て宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したことを明らかにする。

 日本人弁護人の中心となった清瀬一郎は、「アメリカ軍のやる裁判だから、起訴状の中心は、真珠湾攻撃にはじまる、日米開戦の共同謀議と太平洋戦争に関することだと思っていた」所に、1941年の日米開戦から遡ること、14、5年も前の1927,8年から始めるとは、と大いに驚かされた。

 さらに中国侵略を言うなら、1937年の支那事変か、1931年の満洲事変ならまだしも、1928年4月の軍隊派遣とは日本軍が数千名の出兵をした済南事件である。これは蒋介石率いる国民革命軍100万が、張作霖の北軍100万を征伐しようとした内戦の最中に日本人居留民30余名を虐殺した事件に対応するものだった。英紙デイリー・テレグラフは「中国人は略奪と殺人とを天与の権利であるかのごとく暴行を繰り返している」とし、日本軍の行動を「正当防衛」と認めたものである。[3,p276]

■5.田中メモリアルに基づく世界侵略?■

 清瀬は、アメリカの言う「1927」年からの「世界侵略の共同謀議」説が、同年に天皇に奏上されたという田中メモリアルに基づいているのではないか、と気がついた。ナチス・ドイツがヒットラーの「わが闘争」をバイブルにして世界征服に乗り出したように、日本も田中メモリアルに基づいて世界侵略を企んだ・・・これがアメリカが東京裁判で証明しようとした筋書きだった。

 日本側弁護団は田中メモリアルが偽書であることを証明する戦術をとった。ちょうど蒋介石の最も信頼の厚い部下であった秦徳純が次のような証言を行った。

 私は、中国における極めて普遍的な印刷物(至る所に流布されているパンフレット)に依ったもので、その中には「田中の世界侵略計画」、つまり第一段階で満蒙侵略、第二段階で華北の侵略、第三、第四段階では1940年の(41年の誤り)真珠湾攻撃となって現れるのであります。

■6.これ以上、この問題についての質問を許しません。■

 林逸郎弁護人がこの証言をとらえて、日本文の原文を見たことがあるのか、と尋ねると、秦は「見たことはない」と答えた。さらに内容の荒唐無稽な点をいくつか挙げて、気がつかなかったのか、と詰め寄ると「特に注意したことはありません」。のらりくらりと逃げる秦徳純に、ウェッブ裁判長がいらだったように聞いた。

 私はただ一つだけ証人におききしますが、あなたは「田中メモリアル」といわれるものの真実性について、何か確信を持っているのですが、それとも疑う理由を持っているのですか。

 この質問にも秦徳純は、まともには答えなかった。

 私は、それが真実のものであることを証明はできないし、同時に真実ではないことを証明することもできません。しかし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予言者であったように、私には見えるのです。

 その一週間後、1927年に奉天領事をしていた森島守人が証人台に立ったとき、今度はアメリカ人弁護士クライマンが「田中メモリアルが偽書であったことを証明するために質問したいと思いますが、許可いただけますか」と裁判長に聞いた。

 ウェッブ裁判長は「これ以上、この問題についての質問を許しません」と拒否した。裁判長も検事団も田中メモリアルが偽書であり、日本の「世界侵略の共同謀議」を証明する証拠にはなりえない、と気がついたのだろう。以後、東京裁判では二度と、田中メモリアルは登場しなかった。

 しかし、田中メモリアルがそれで滅びたわけではない。中国では公式的には依然、歴史事実とされており、1991年に北京で発行された「民国史大事典」では次のように記載されている。

 田中義一首相兼外相が1927年7月、天皇に奏呈した文書。内容は支那を征服するためには、まず満蒙を征服しなければならず、世界を征服するためには、まず支那を征服しなければならないとし、そのためには鉄血手段を以て、中国領土を分裂させることを目標としたもので、日本帝国主義の意図と世界に対する野心を暴露したもの。

■7.「30万人虐殺」説の出所■

 もう一つ、もっと高度な国際プロパガンダのテクニックを紹介しておこう。日本軍が南京占領時に30万人の虐殺をしたという「南京大虐殺」説が今も中国政府の公式見解になっているが、それを世界に最初に知らせたとして有名になったのが、マンチェスター・ガーディアン紙の特派員として、事件当時南京にいたオーストラリア人記者H・J・ティンパーリーによる「戦争とは何か-中国における日本軍のテロ行為」である。

 その第一頁にティンパーリーは「華中の戦争だけでも、中国軍の死傷者は、少なくとも30万人になり、一般市民の死傷者も同じくらいであった」と書いた。スノーもこれを下敷きにして「アジアの戦争」で「上海・南京間の進撃中に、30万人の人民が日本軍に殺されたと見られているが、これは中国軍の受けた死傷者とほぼ同じくらいであった」と述べた。

■8.蒋介石の「国際宣伝処」の手先だった外国人記者■

 ところが、最近、このティンパーリーが実は蒋介石の「国際宣伝処」の手先だったことが明らかになった。蒋介石に委任されて「国際宣伝」を担当していた曾虚白の自伝で次のような一節が見つかったのである。

 我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを検討した。・・・このあとティンパーリーはそのとおりにやり、・・・二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。

 スマイスは南京にあった金陵大学で社会学を担当していたアメリカ人学者で、南京事件後に戦争被害の実地調査を行い、戦闘行為以外の暴行による民間人死者2400という数字を出した。この数値は少なすぎるとして、「30万人虐殺」を主張する一派からはカッコ付きで扱われている。そのスマイス博士すら、実は国民党の国際宣伝処の手先だったというのである。

 中国大陸では、数千年の間、多くの民族が入り乱れての戦乱が打ち続いた。その過程で敵を貶めるためのプロパガンダ手法を高度に発展させてきた。本号で紹介した文書偽造や、中立的に見える外国人を金で雇って宣伝を書かせたりというのは、その一部である。その高度なテクニックを使えば「温室国家」日本に育って「心から謝罪すれば許してくれる」などと信ずるお人好しを丸め込むのは、赤子の手をひねるようなものである。

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