これは「物質から生命が生まれる瞬間」かもしれない…地球生命に絶対必要なアミノ酸が、なんと「わずか数日」でできてしまった「衝撃の実験」

生命科学
これは「物質から生命が生まれる瞬間」かもしれない…地球生命に絶対必要なアミノ酸が、なんと「わずか数日」でできてしまった「衝撃の実験」(小林 憲正)
「地球最初の生命はRNAワールドから生まれた」しかし、生命が存在しない原始の地球でRNAの材料が正しくつながり「完成品」となる確率は、かぎりなくゼロ。ならば、生命はなぜできたのでしょうか? そのスリリングな解釈をわかりやすくまとめたのが、アストロバイオロジーの第一人者として知られる小林憲正氏の『生命と非生命のあいだ』です。本書からの読みどころを、数回にわたってご紹介しています。これまでの記事で「生命はどこから生まれたか」という議論の変遷を見てきましたが、今回は生命に必要な分子、タンパク質(アミノ酸)が、いったい、どうやって原始地球で生まれたのかを考察します。

これは「物質から生命が生まれる瞬間」かもしれない…地球生命に絶対必要なアミノ酸が、なんと「わずか数日」でできてしまった「衝撃の実験」

生物学の革新時代「1953年」

DNAの二重らせん構造が発見された1953年は、ほかにも生物学上の重要な発見がありました。たとえば英国の生化学者フレデリック・サンガー(1918〜2013)は、タンパク質のアミノ酸配列を調べる方法を開発し、この年に初めて、インスリンというタンパク質(膵臓でつくられるホルモン)の51個のアミノ酸の並び順(一次構造)を発表しました。

そして、米国の化学者スタンリー・ミラー(1930〜2007)によるアミノ酸の合成が発表されたのも、この年のことでした。

ミラーは1951年にカリフォルニア大学バークレー校で化学の学士を取得したあと、シカゴ大学大学院に入学しました。

彼が選んだのは、ハロルド・ユーリー(1893〜1981)の研究室でした。ユーリーは重水素の発見で1934年にノーベル化学賞を受賞し、その後、研究の興味を宇宙化学に移していました。

ハロルド・ユーリー photo by gettyimages

「初期の地球大気」2つの説

初期の地球大気について、当時は、火星大気のように二酸化炭素と窒素を主とするものだったとする説と、メタン(CH4)やアンモニア(NH3)など、水素を多く含むものを主とする(「還元性が強い」とよばれます)ものだったとする説が並立していましたが、ユーリーは後者であると考えていました。

大学院に入ってすぐに、ユーリーのセミナーに出席したミラーは、還元性の強い大気にエネルギーが加わって有機物が生成し、それが海に集められて生命が誕生したのではないか、という話に魅了されました。大学院で最初の1年は別の指導教員のもとで理論的な研究をしていましたが、その教員が他大学に移ったため、ユーリーの研究室に移りました。

スタンリー・ミラー photo by gettyimages

ここでミラーは、還元的な混合ガスから有機物をつくる実験をしたとユーリーに申し出ました。これに対してユーリーは、そのような結果のわからない研究ではなく、「隕石中のタリウムの分析」のような、確実に結果が得られる研究をするようにと説得しましたが、ミラーは引き下がりませんでした。とうとう根負けしたユーリーは、1年以内に結果が出なければテーマを変えることを条件に、ミラーに好きなように実験をさせることにしたのです。

実験室の「ミニ原始地球」

ミラーはユーリーとともに実験装置をデザインし、図「ミラーの放電実験装置」のような装置を組み立てました。左下の小さいフラスコは原始の海を模したもので、これを加熱して沸騰させると水蒸気が生じます。水蒸気は図の左側のチューブを通って上昇し、右上のフラスコでメタン・アンモニア・水素のガスと混じります。

このフラスコには電極が取りつけられていて、テスラコイルという高電圧を発生させる装置を用いて、電極から火花を飛ばします。これは火花放電とよばれ、雷を模したものです。また、右側のチューブは冷却器によって冷やされていて、水蒸気が通ると液体の水となり、放電によってメタンやアンモニアから生成したものとともに、左下のフラスコに戻ります。これは雨に相当します。

ミラーの放電実験装置(『生命の起源』(小林、講談社より)

このようにして放電を続けたところ、2日目には、右上のフラスコにはタール状のものが付着し、左下のフラスコ中の水は黄色くなってきました。さらに放電を続けると、色はさらに濃くなりました。そこで、黄色くなった水を取り出してペーパークロマトグラフィーという方法で分析すると、グリシンなど、いくつかのアミノ酸が生成していることがわかったのです。

ミラーはユーリーの助力のもと、この結果を論文にして『サイエンス』誌に投稿しました。ユーリーは論文の共著者になりませんでした。もし、ノーベル賞受賞者である自分の名前が入っていると、自分だけが脚光を浴びると考えたためです。論文は『サイエンス』誌の1953年5月15日号に掲載されました。

この論文は多くの科学者の興味をひきました。化学進化の実験が数日でできるなんて、誰も考えていなかったからです。

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