なんと日本隊だけで「1万7000個」も発見した…!奇跡の1969年に見つかった「大量の隕石」からの新発見と「残念な結果」

生命科学
なんと日本隊だけで「1万7000個」も発見した…!奇跡の1969年に見つかった「大量の隕石」からの新発見と「残念な結果」(小林 憲正)
「地球最初の生命はRNAワールドから生まれた」しかし、生命が存在しない原始の地球でRNAの材料が正しくつながり「完成品」となる確率は、かぎりなくゼロ。ならば、生命はなぜできたのでしょうか? そのスリリングな解釈をわかりやすくまとめた『生命と非生命のあいだ』から、読みどころをご紹介。今回は、惑星科学奇跡の年と言われる1969年に発見された隕石群にまつわる発見と、ある指摘について解説します。

なんと日本隊だけで「1万7000個」も発見した…!奇跡の1969年に見つかった「大量の隕石」からの新発見と「残念な結果」

「地球最初の生命はRNAワールドから生まれた

圧倒的人気を誇るこのシナリオには、困った問題があります。生命が存在しない原始の地球でRNAの材料が正しくつながり「完成品」となる確率は、かぎりなくゼロに近いのです。ならば、生命はなぜできたのでしょうか?

この難題を「神の仕業」とせず合理的に考えるために、著者が提唱するのが「生命起源」のセカンド・オピニオン。そのスリリングな解釈をわかりやすくまとめたのが、アストロバイオロジーの第一人者として知られる小林憲正氏の『生命と非生命のあいだ』です。本書刊行を記念して、その読みどころを、数回にわたってご紹介しています。今回は、惑星科学奇跡の年と言われる1969年に発見された隕石群について解説します。

【書影】生命と非生命のあいだ

*本記事は、『生命と非生命のあいだ 地球で「奇跡」は起きたのか』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。

奇跡の1969年

1969年は、惑星科学にとっての奇跡の年となりました。まずは米国のアポロ計画によ り、人類初の月着陸が実現しました。ジョン・F・ケネディー大統領が1961年に「この十年紀(1960年代)に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」と表明した、その公約が切れる最後の年のことでした。

この年の3月、まずアポロ9号が3名の宇宙飛行士と月着陸船を乗せ、地球周回軌道で月着陸のリハーサルを行いました。次にアポロ10号が5月に打ち上げられ、月周回軌道で月着陸船「スヌーピー」が司令船「チャーリー・ブラウン」から切り離され、月面から14.4kmの距離まで接近しました。

アポロ10号から見た地球。下方のクレーターは月面 photo by gettyimages

これらの成功をうけ、7月16日、アポロ11号が打ち上げられました。月着陸船「イーグル」は7月20日、無事に月の「静かの海」に着陸し、船長ニール・アームストロングが「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」との言葉とともに月面に降り立ちました。

アポロ計画はソ連との宇宙競争という政治的要因によって実現されたもの、ともいわれていますが、それでもアポロ11号によって、50個の月の石や、月の土(レゴリス)を含む21.6kgのサンプルが地球に持ち帰られました。それらは、人類が手にした初めての他の天体からの物質でした。

地球上での汚染を避けるため、あらかじめ準備されていたクリーンルームにこれらの石が運び込まれると、まるで受け入れ準備が整うのを待っていたかのように、この年には宇宙からの“贈り物”が相次いで発見されるのです。

そして、この年の惑星科学における発見は、それだけではありませんでした。

南極の隕石発見ラッシュ

2月8日、メキシコのチワワ州で火球が観測され、その後に大量の隕石が降り注ぎました。その重量は、合わせて5トンほどといわれ、そのうちの約3トンが回収されました。

炭素を比較的多く含んでいるので「炭素質コンドライト」に分類されたそれらの隕石は、落下地点付近の村名をとって「アエンデ隕石」と名づけられました。これだけ大量で、ほぼ均質な隕石が入手されたことは、その後の太陽系形成過程の研究に重要な役割を果たしたのです。

そして9月28日には、オーストラリアのビクトリア州マーチソン村の2km南に大量の隕石が降り注ぎました。これらは200kgほどが回収され、「マーチソン隕石」(図「マーチソン隕石」)と名づけられました。やはり炭素質コンドライトに分類されたこの隕石の重要性は、またくわしく述べます。

マーチソン隕石 photo by User:Basilicofresco

そんな奇跡の年も暮れようとしていた12月、またしても、今度は南極で新たな隕石の発見がありました。日本の第10次南極地域観測隊がやまと山脈付近を探査中、9個の隕石を発見したのです。複数の隕石があっても通常は、マーチソン隕石のように、1つの隕石が何個かに壊れたものであることが多いのですが、これらは異なる6種類の隕石を含むものでした。

なぜ同じ場所で大量に発見されたのか

南極の雪原で隕石が見つけやすいことは想像がつきますが、同じ場所に何個もの隕石が落ちてくるのは考えにくいことです。のちに、南極の特定の場所で多数の隕石が見つかる理由は、次のように説明されました。

隕石は南極大陸の広い範囲にわたって落ちて、氷の中にめり込むのですが、南 極の氷がゆっくりと海に向かって流れるとき、隕石も氷と一緒に移動します。しかし、途中で出っ張りなどがあると、氷はそこでせき止められて留(とど)まります。やがて氷が昇華してなくなると、多数の隕石がそこに姿を現すことになるわけです(図「南極の隕石が集積するしくみ」)。

南極の隕石が集積するしくみ

南極で複数個の隕石が発見されたことは、国際的に注目を浴びました。それ以前には、南極では散発的に6個の隕石が見つかっていただけでした。

隕石が集積する場所が見つかれば、多くの隕石を一挙に採集できる可能性があります。日本隊に続いて、米国隊などが南極での隕石集めに本腰を入れるようになり、日本隊だけで1万7000個ほどを採集できました。現在では、隕石といえば南極で見つかったものが主となり、他の場所で見つかったものは「非南極隕石」と分類されているほどです。

また、これだけ多数の隕石が見つかったことで、さまざまなことがわかってきました。それらの中には炭素質コンドライトが一定の割合で含まれること、一方では特殊なものも含まれること、などです。月や火星から来たことが判明した隕石もありました。火星から来た隕石の一つが、やがて大騒動を引き起こした話は『生命と非生命のあいだ』の詳しく述べましたので、ぜひご一読ください。

さて、そうした隕石の中には、生命の材料となるアミノ酸が含まれるものもあるのではなはないかと予想されたのです。

隕石の中にあったアミノ酸

隕石には、金属の塊のようなもの、岩石っぽいものなど、さまざまな外見のものがあります(図「隕石の分類」)。前者は鉄隕石、後者は石質隕石とよばれています。石質隕石はさらに、ルーペで観察したときに粒々が見えるもの(コンドライト)、見えないもの(エイコンドライト)に分類できます。

隕石の分類

石質隕石の中のエイコンドライトと、鉄隕石、そして石質隕石と鉄隕石が混ざった石鉄隕石は、隕石のもととなった天体が高温にさらされて成分ごとに分離するなど、変化した(分化した)ものと考えられます。

一方、石質隕石の中でもコンドライトは、それほど高温にさらされておらず、多くは石のような外観をしており、普通コンドライトとよばれます。

また、コンドライトには石炭のように黒っぽいものもあります。これが炭素質コンドライトで、炭素を1〜3%ほど含んでいます。炭素は加熱されると揮発してしまうので、炭素質コンドライトはコンドライトの中でもあまり加熱されなかったもの、つまり、太陽系をつくった材料がそれほど変化を受けずに残ったものと考えられています。太陽系の成り立ちを考える際には、なるべく最初の姿を保存しているものが重要なので、炭素質コンドライトはとくに注目されました。

さらに、炭素質コンドライトには有機物も含まれています。その中にはアミノ酸のような生命の材料も含まれるのではないかという予想も、古くからありました。1962年に発表された論文では、1950年に落下した「マレイ隕石」は炭素質コンドライトで、分析したところ14種類のタンパク質構成アミノ酸と、3種類の糖が発見されたと報告されています。

14種類のアミノ酸の中にはグリシン、アラニンなどの単純なアミノ酸に加え、ヒスチジン、リジン、アルギニンといった複雑なものも含まれていました。さらに、この論文では、普通コンドライトの「ブルーダーハイム隕石」からもアミノ酸や糖が検出されたとしています。

炭素質コンドライトの例(モロッコの砂漠で発見されたもの) photo by gettyimages

また、1961年には「オーゲイユ隕石」(1864年に落下した炭素質コンドライト)の中に、微生物のような構造体が見られるという論文も出されました。これらのことから、生命が宇宙から来たのではないかともいわれるようになりました。

残念な指摘

ところが、こうした議論に冷や水を浴びせる論文が1965年に提出されました。人間の指の指紋を分析すると、多種類のアミノ酸が検出され、それらは隕石中にあったとされるアミノ酸のパターンに類似していたというのです。

落下した隕石は、博物館や研究室で保管されるまでに、多くの人が素手で扱ってきています。つまり、見つかったアミノ酸が本当に隕石に含まれていたものなのか、落下後に人が触れてついたものなのかが、わからなくなってしまったのです。

しかし、その4年後の1969年が惑星科学にとって「奇跡の年」であったことが、ここで生きてきました。この年、アポロが月の石を持ち帰ることが予定されました。

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