「道理」に関連して、聖徳太子の憲法十七条にはこういう一文がある。
「然(しか)れども、上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則(すなは)ち事理自ずから通ふ。何事か成らざらむ。」
(地位や年齢の上下はあっても、和気藹々(あいあい)と議論を尽くせば、物事の道理が自ずから明らかになる。そうなれば、出来ない事などあろうか)
「道理」とは、日常の会話を含め、議論や裁判、宗教論争など、人と人との対話の中から発見されるもののようです。
我が国は、専制を嫌い、衆議を重んずる伝統があったからこそ、合理的思考が発達したのです。
布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルは、キリスト教の不合理な面をつく日本人に悩まされた。
日本における道理の伝統
■1.「日本へ行けば、人々は理性豊かである」
1547年12月、キリスト教の東洋への布教のためにマレー半島のマラッカにやってきたフランシスコ・ザビエルは、日本人・池端彌次郎と出会う。彌次郎は武士であったが、商売の争いから殺人を犯してしまい、かねて交渉のあったポルトガル商人に頼んで、マラッカに逃れてきたのだった。
自分の犯した罪に苦悩していた彌次郎は、そのポルトガル商人から、高徳の聖人ザビエルに会って、懺悔と安心の道を求めるが良いと勧められた。ザビエルは彌次郎と出会った印象を次のようにローマのイエズス会あてに報告している。(原文は正漢字、正仮名遣いだが、本稿では常用漢字、現代仮名遣いに改めさせていただく)
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もし全ての日本人が彌次郎と同じように知識欲の旺盛な人々であるとすれば、日本人は新たに発見された諸地域の中で最高級の国民であると思われる。彌次郎は私の聖教講義に出席した後、信仰箇条のすべてを自分の国語で書き直した。彼は度々教会に来て祈祷を捧げ、それからいろいろと私に質問した。・・・[1,p185]
日本に行ってきたポルトガル商人達は全員が私に言うのだが、私がもし日本へ行けば、人々は理性豊かであるから、インドの異教徒達を相手にして得るよりも遙かに多く、我らが主デウスに対する奉仕をなすことができようとの事だ。[1,p186]
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この結果、ザビエルは「内心の深い喜びを以て日本に行く事を決心した」。
■2.「日本人は理性的だから、大部分がキリスト教徒になる」
ザビエルは二人のイエズス会士と彌次郎を伴って、支那人の船に乗り、途中暴風雨に遭いながらも、53日の苦しい航海の後、1549年8月に彌次郎の故郷である鹿児島に上陸した。種子島に鉄砲が伝来したのがこの6年前、そして織田信長の桶狭間の戦いが11年後である。
ザビエルは自ら日本の民衆と接して、自分の期待通りであった事を発見し、本国にあててこう報告している。[1,p193]
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此の国は、霊的に豊かな収穫をもたらす肥沃な土地で、今までの処では、人々がキリスト信者になることを、不思議とは思っていないようです。国民は理性的な人間です。彼等は無知の故に、多くの誤謬の状態の中に住んでいるけれども、理性が彼等の間では大切にされています。・・・
日本人は理性的な国民でありますから、その大部分がキリスト信者になることを、イエズス・キリストにかけて期待しています。
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ザビエルにとって、キリスト教こそが理性的な宗教であり、日本人はたまたまそれを知らないために、仏教や神道などの「誤謬の中に住んでいる」けれども、彼等が自ら持つ理性を発揮すれば、かならず大部分がキリスト教を理解し、信仰するようになるだろう、と期待したのである。
■3.「デウスは祖先に対して無慈悲である」
しかし、ザビエルの期待は裏切られた。日本人の理性が足りなかったのではなく、理性が豊か過ぎて、キリスト教の教義の中にある不合理な一面を見過ごさなかったからである。京へ上る途中、山口で布教を行った際には、次のような質問がなされた。[1,p228]
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山口の信者は、その洗礼の前に、デウスの全善(JOG注: 全能)に就いての重大な疑問に襲われた。それは、デウスは私達が来るまで、決して日本人に啓示をお与えにならなかったから、全善ではないということであった。
又私達の教えているように、デウスを礼拝しない者は、地獄に堕ちるとすれば、デウスは祖先に対して無慈悲である。何となれば、デウスは教について何も識らない祖先が、地獄に堕ちることを許したからである。
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先祖思いの日本人は、先祖をほったらかして自分だけ天国に行こうなどとは思わなかった。しかし、ザビエル達の説く処によれば、先祖はデウスの教えを聞いていないから、天国に行けないという。
デウスが全能なら、はるか太古の昔から日本にも現れて、我が祖先も救ったはずだろう。今頃、のこのこ日本に現れて、これから人々を救います、というのでは、全能ではありえない。
しかもデウスが勝手に遅く登場したがために、それまでに亡くなった祖先は救われないというのでは、無慈悲きわまりないではないか、というのである。
■4.「若(も)しデウスが善なら、悪魔なぞ作る筈がない」
また悪魔についても、日本人は次のように問いかけた。[1,p293]
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彼等は、悪であり人類の敵である悪魔の存在を信ずるが故に、創造主のことを認められないと言った。又、若(も)しデウスが善なら、そんな悪い者を作る筈がないというのである。
それに対して私達は、デウスはそれ等を皆善いものとして造ったが、彼等が自分勝手に悪くなったので、デウスは彼等を罰した。その罪は永劫に続くと答えた。
すると彼等は、デウスはそれ程に残酷に罰するなら憐れみのない者だ、しかも若しデウスが、私達の教の如く、人間を造ったことが本当なら、何故こんなに悪い悪魔がいて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。
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鋭い合理的な問いかけに、たじたじとなっているザビエルの姿が思い浮かぶ。
ここで留意すべきは、ザビエルは19歳でパリ大学で哲学を学んだ当時の西洋社会での第一級の知識人であり、その彼の説くキリスト教の教義を、当時の日本人(それも学者僧侶など知識階級以外の一般人)が聞いてすぐに、こうした論理的なつっこみを仕掛けてきたことだ。当時の日本人は一般階級にいたるまで、鋭い理性を持っていたことが窺われる。
「日本人は理性的な国民でありますから、その大部分がキリスト信者になる」というザビエルの期待は裏切られた。「理性的な国民」は、合理的な装いの下に隠された「全能の神と悪魔」といった非合理性を見過ごさなかったのである。
■5.「近代的理性は鎌倉時代に始まった」
以上、我が国にキリスト教が伝来した当時の光景を見たが、本稿の趣旨は、なぜ当時の日本人が、かくも合理性を備えていたのか、という点である。この点を歴史的に解明したのが、日本思想史の碩学、小堀桂一郎・東大名誉教授の大著『日本に於ける理性の傳統』[1]である。
この著書では、我が国における近代的理性は鎌倉時代から始まったとして、慈円、明恵上人、道元などの著作が縦横に引かれており、さすがに「最後の帝大教授」と形容されるだけの博引旁証ぶりである。
本稿では、その中でもわかりやすい一般民衆の逸話を中心に、我が祖先たちが、どのように理性を発揮してきたのかを見てみたい。
鎌倉時代は「武士が主君から領地を与えられて所有する」という意味での封建社会が発達した。「封建主義」というと、いかにも前近代的・非合理的に聞こえるが、土地の私有を制度化するには、私有財産の所有権を互いが理解し、その権利を守るための法治制度の発達が必要であり、これらは近代社会に不可欠の基盤なのである。
現代社会でもいまだに土地を国有化している近隣諸国もあるが、そういう国では政府の一片の通達で大規模工場も移転させられるような具合であって、およそ封建時代以前の有様と言うべきである。
土地が私有化されていくと、当然、人々の間で、ある土地がどちらの所領か、という争いが起こる。その争いは将軍・源頼朝以来の幕府に持ち込まれていたが、それらの先例を、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が中心となって整理し、成文化したものが、1232年に編纂された『関東御成敗式目』である。
■6.「理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず」
『式目』の末尾には、この法体系の基本理念としての「道理」を明白に掲げている。
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およそ評定の間、理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。[1,p83]
(裁判の場にあっては決して依怙贔屓(えこひいき)なく、専ら道理に基づいて、傍の目、上なる権力者の意嚮(いこう)を恐れることなく信ずる所を言え)
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現代の裁判官や検事・弁護士にもそのまま通用する言い分であろう。現代でも後進国においては、裁判は政府に強いコネを持つ方が勝つ、という事を良く耳にするが、これに比べれば800年も前にあくまで「道理」を中心に公正な裁判をしようとした先進性は驚くべきものがある。
この『式目』は、徳川時代には寺子屋での子供の教科書として用いられていたというから、ここで述べられているような道理の重視が、庶民の間にまで定着していたであろう事は、想像に難くない。
■7.「これは当方の負けなり」
泰時の道理の重視は、単に口先だけのことでも、また限られた為政者だけの思いだけでもなく、一般人にも広く浸透していた事を示す逸話がある。それは沙石(しゃせき)集という鎌倉時代中期の仏教説話集に収められている、泰時も登場する一話である。
ある時、下総国(千葉県北部が主)の地頭と領家(荘園領主)との間でいさかいが生じ、両者の話し合いでは決着がつかなかったので、鎌倉幕府に裁定が持ち込まれた。
北条泰時が代官となって、両者とじっくり問答を行った際、領家が肝心の道理を述べた時、地頭は手をはたと打って、泰時の方に向かって「これは当方の負けなり」と言った。同席した一同はわっと笑い出したが、泰時はうち頷いて、笑わずに言った。
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立派な負けっぷりである。泰時は長い間、代官として裁定を行ってきたが、あきらかに道理で負けていると思われる側でも、なおも負けじと主張を続ける事はあっても、自分から負けたと言う人はいなかった。
相手の方に道理があると分かったら、ただちに負けを認めたのは、返す返す立派な態度である。正直な人柄が見て取れる。
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と、涙ぐんで褒めた。領家の方も、「今まで道理を理解していなかっただけで、故意ではない」として、6年分の未納を3年にまけてくれた。沙石集の作者は次のように、結論つけている。
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されば、人は道理を知りて、正直なるべき物なり。咎を犯したる者も道理を知りて、我が僻事(ひがごと、間違い)と思いて正直に咎(とが)をあらわし、おそれつつしめば、その咎ゆるさるる事なり。
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裁判の席上、相手の方に道理があると分かった途端に、自らそれを認めるというのは、現代でも珍しいことだろう。当時でも珍しかったからこそ、物語に取り上げたのだろうが、こういう物語が世の中に広く読まれた、というその事実が、我が先人たちが道理を大切なものとして尊重してきた証左であろう。
■8.「和気藹々(あいあい)と議論を尽くせば、物事の道理が自ずから明らかになる」
『関東御成敗式目』は51箇条あるが、これは聖徳太子の憲法十七条を基礎に、天地人の三方に配して三倍としたと伝えられる。
形式だけでなく、その内容においても通ずるところがある。「道理」に関連して、憲法十七条にはこういう一文がある。[a]
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然(しか)れども、上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則(すなは)ち事理自ずから通ふ。何事か成らざらむ。[4]
(地位や年齢の上下はあっても、和気藹々(あいあい)と議論を尽くせば、物事の道理が自ずから明らかになる。そうなれば、出来ない事などあろうか)
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ここでも「事理」という言葉で、「物事の道理」が重視されている。そして「道理」とは、議論や裁判、宗教論争など、人と人との対話の中から発見されるもののようだ。専制国家、独裁国家、全体主義国家では、独裁者が権力で自らの主張を押しつけてしまうから、他の人が「道理」を言ったところで、踏み潰されてしまう。
西洋で合理主義が発達したのも、対話を主としたギリシア哲学や、ローマでの元老院での議論という伝統があったからであろう。そして、我が国も同様に、専制を嫌い、衆議を重んずる伝統があったからこそ、合理的思考が発達したのである。
明治期に憲法、議会、裁判所、内閣、行政組織、会社組織などの近代的な仕組みが一挙に導入されて、短期間の間に国民生活に定着したのも、こうした合理的思考方法が長い歴史の間に、一般民衆の間にまで浸透していたからであろう。
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