日常的に使っている「日本語」はかなり特殊な言語のようです。
昔から使われている「大和言葉」があり、外国から入ってきてこれを咀嚼し自らのものとした「外来語」もあります。
これらの「言葉」が私たち日本人の「情緒」と「思考」の基盤を作っています。
情緒を養う大和言葉の上に、論理的思考を支える外来語を移入して、我が国は独自の文明を発展させてきた。
日本語が育てる情緒と思考
■1.「今、歌ったポップスの歌詞は大和言葉だけだったぞ」
ある新進の言語学者の結婚記念パーティーでのこと。シェイクスピア学者であり、演劇人でもある安西哲雄氏が、ギターを弾きながら、歌を2曲披露した。1曲目はポップスの定番「白いブランコ」である。
君は覚えているかしら あの白いブランコ
風に吹かれて二人で揺れた あの白いブランコ
日暮れはいつも寂しいと 小さな肩をふるわせた
君に接吻(くちづけ)した時に
やさしく揺れた白い白いブランコ
もう一曲も、有名なフォークソング「さよならをするために」。
過ぎた日の微笑(ほほえみ)を みんな君にあげる
ゆうべ枯れてた花が 今は咲いているよ
過ぎた日の悲しみを みんな君にあげる
あの日知らない人が 今はそばに眠る
暖かな昼下がり 通り過ぎる雨に
濡れることを夢に見るのよ
風に吹かれて 胸に残る思い出と
さよならをするために
これを聴いていた渡部昇一氏は、そばにいた言語学者の卵たちに言った。「今、安西さんが歌ったポップスの歌詞は大和言葉だけだったぞ」
歌詞で書くと、「接吻」とか「微笑」と漢字は使われているが、「くちづけ」「ほほえみ」と訓読みされているから、古来から日本人が使ってきた大和言葉である。唯一外国語らしい「ブランコ」はポルトガル語から来たという説もあるが、「ぶらぶらさせるもの」という語感があり、感覚的には大和言葉に近い。
■2.大和言葉と外来語の違い
その後、渡部昇一氏は、高校の後輩二人と共に、母校の校歌を歌わされるはめになった。戦前の旧制中学時代から引き継がれた校歌である。
鳳嶺(ほうれい)月峰(げっぽう)雲に入り
滄水(そうすい)遠く海に行く
山河の眺め雄偉(ゆうい)なる ここ庄内の大平野
・・・
「鳳嶺」「月峰」「滄水」「雄偉」など、難しい漢語が次々と登場する。歌詞を読んでも、意味を理解できる人は少ないであろうから、パーティーで歌だけ聴いた人は、意味をまったく理解できなかったろう。
「白いブランコ」や「さよならをするために」が、耳で聞いて、小学生でも理解できるのとは対照的である。何がどう違うのだろうか?
この校歌を理解するためには、「鳳嶺」「月峰」などの漢語の知識が必要である。知識のない人には、チンプンカンプンである。
それに対して、大和言葉は我々が子供の頃から使っており、教養や学歴で差がつかない。「君は覚えているかしら あの白いブランコ」と聴いただけで、誰でもが子供の頃遊んだ公園のブランコを思い浮かべることができる。
すなわち、外来語は知識と教養によって理解できる人とできない人の差がついてしまうが、大和言葉は日本語を母国語として育った人なら、誰でもが共通に理解し、かつその情感に浸ることができるのである。
■3.和歌に見る大和言葉の伝統
この大和言葉の特徴をもっとも純粋に保っているのが、和歌の伝統である。たとえば、百人一首に入っている次の和歌を知っている人は多いだろう。
天の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる
三笠の山に いでし月かも
作者の阿部仲麻呂(あべのなかまろ)は、遣唐留学生として唐に渡り、後に玄宗皇帝に仕え、さらに当時の代表的詩人である李白や王維とも交わって、漢詩人としての文名が現地でも高かった人物である。
その仲麻呂が、「唐土(もろこし)にて月を見てよみける」と題して詠んだのが、この歌である。20歳前に唐に渡り、立身出世の後は帰国を夢見ながらも果たせず、73歳で客死した。この歌は、若かりし頃に見た奈良春日の三笠山を思いながらの歌である。切々とした望郷の思いが伝わってくる。
この歌も大和言葉だけで歌われている。唐で漢詩人として高名であった仲麻呂でも、切々とした情を歌に詠むと大和言葉だけになってしまう、という点に、現代のフォークソングにも通ずる日本語の伝統が現れている。
もう一つ近代の例を挙げよう。斎藤茂吉は若かりし頃、ドイツで医学博士号をとったのだが、その時に次のような歌を詠んでいる。
一隊が Hakenkreizの赤旗を
立てつつゆきぬ この川上に
ヒトラーのハーケンクロイツ(鍵十字)を知らない人にとっては、チンプンカンプンの歌である。ところが国際的教養人の茂吉も、後には大和言葉だけの絶唱を残している。
最上川 逆白波(さかしらなみ)の たつまでに
ふぶくゆふべと なりにけるかも
広く日本人の心に訴える歌は、このように大和言葉だけで詠まれているのである。
■4.「生ける言語」と「死せる言語」
渡部氏は、大和言葉と外来語の違いを、ドイツの哲学者フィヒテの「生ける言語」と「死せる言語」という概念で説明する。
ナポレオン戦争に惨敗して、ベルリンがフランス軍の占領下にあった1807年から翌年にかけて、フィヒテはドイツ人を奮い立たせるべく『ドイツ国民に告ぐ』という連続講演を行った。その14回の講演のうち、2回を国語問題にあてている。
フィヒテの言う「生ける言語」とは、「太古からその民族が用い続けてきて、一度も中断されたことのない言語」という意味である。ドイツ語がその例であり、大和言葉もこれにあたる。
一方の「死せる言語」とは、たとえばフランス語である。フランス人は、かつてはドイツ人と同じ、ゲルマン民族の一部族であったが、母語のゲルマン語を捨て、ラテン語方言を話すようになった。
ドイツ語で「成功」を意味する”Erfolg”は、接頭辞”er-“(仕上げる、完了する)と、動詞”folgen”(ついて行く)から成り、ドイツ人は子供でも、”erfolgen”とは「ある目的を追求して最後まで成し遂げること」という意味を直感的に理解し、語感を感じとれる。
一方、フランス語の「成功」は、”succes”で、これもラテン語にさかのぼれば、”suc”と”ces”からなる事が分かるが、分解された要素の一つ一つまで意味が感じ取れるフランス人は、ほとんどいない。
ちょうど日本語でも、「成し遂げる」という大和言葉なら「成す」と「遂げる」からなることが子供でも直感的に理解できるが、「成功」と外来語で言われると、その語源、語感までは感じとれないのと同じである。
ドイツ人にとってのドイツ語と同様、日本人にとっての大和言葉は、太古から共にともにあり、長い歴史をともに過ごしてきた「生ける言語」なのである。
それに対して、古代の中国から入ってきた漢語、そして近代に欧米から入ってきた外来語は、日本人が新たに習い覚えた「死せる言語」であり、単語の語源や語感を直感的に理解することはできない。
■5.「生ける言語」が生み出す平等感、一体感
「生ける言語」を話す民族は、教養階級と一般民衆との間に切れ目がない、というのが、フィヒテの主張である。
戦前、ドイツに留学していた日本の哲学者が、ある日のこと、下宿のお婆さんの口から「理性的 “vernunftig”」という言葉が出てきたので驚いた。大哲学者カントの『純粋理性批判』に出てくるような用語を、義務教育しか受けていないお婆さんが使うとは、「さすがにドイツは哲学の国だ」と思った、という。
しかし、これは誤解である。”vernunftig”とは、”ver”(~から)と”nehmen”(とる)という3歳の子供でも知っている動詞からなり、「外部の音を聞き取って、自分で理解する」という意味となる。大和言葉で言えば、「聞き分けが良い」の「聞き分け」にあたる。
下宿のお婆さんが日本の哲学者に言ったのは、「あんたは聞き分けが良いわね」というようなレベルの話であろう。
逆に、大哲学者カントが3歳の子供でも分かる「聞き分け」というような平明な言葉から、一大哲学大系を構築してしまうところにこそ、「ドイツは哲学の国」たるゆえんが現れている、と言えるのではないか。
ナポレオンのフランス軍を破る目的で新しい士官学校を作ったシャルンホルストは、若い士官候補生たちにカントの哲学書を読ませたと言うが、それも外来語でなく「生ける言語」で書かれていたが故であろう。
フランスではこうは行かない。たとえば「博愛主義」とは、”philanthropie”だが、”phil-“(愛する)と”anthrop”(人間)とギリシア語の語源までさかのぼって理解できるフランス人は、教養階級であろう。
これがドイツ語だと、”menshcenfreindlichkeit”と長ったらしいが、これは”menshcen”(人)+”freind”(とも)+”lich”(らしさ)+”keit”(であること)から成り、大和言葉で訳せば「人を友とする道」とでも言えよう。我が国でも、外来語の「博愛主義」では大人でも知らない人がいるだろうが、「人を友とする道」と大和言葉で言えば、小学生でも分かる。
フランスでは厳しい大学教育を受けた教養階級と、一般大衆の間に知的隔絶があるが、ドイツでは教養階級も一般大衆も同じ「大和言葉」で語り合えるので、その垣根は低い。
教養人から、下宿のお婆さん、3歳の子供まで、同じ「生ける言語」を使うという事で、国民の中に平等感と一体感が生まれるのである。
■6.「和歌の前の平等」
「生ける言語」が平等感、一体感を生み出すという事に関して、和歌には典型的な例がある。
複数の人が集まって、ある人が上の句を作り、他の人が下の句をつなげるという連作の形式を、「連歌(れんが)」というが、その起源とされているのが、『古事記』に出てくる次の場面である。
日本武尊(やまとたけるのみこと[a])が、父・景行天皇の命を受けて東国征伐に赴き、その帰途、甲斐の国に立ち寄ったとき、
新治(にいばり)筑波(つくは)を過ぎて
幾夜(いくよ)か宿(ね)つる
と歌った。すると、そこに居合わせた火焼く(ひたき)の老人(おきな)が、その後を受けて、
日々(かが)並(な)べて
夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を
と続けた。武名天下にとどろく皇子と、身分の低い焚き火係の老人が、共に歌を詠み、それが国家が編纂した史書に誇らしげに述べられている。歌の前には、身分も年齢も関係ない、という常識が、我が国には太古の昔からあったのである。
この伝統は、今でも宮中の歌会始めに活き活きと受け継がれている。毎年2万首程度の応募作の中から優れた歌が選ばれるが、中には中高生から80代の老人、さらには海外に住む日系人からの詠進歌もある。それらが天皇皇后両陛下ご臨席の歌会にて朗詠され、最後は両陛下のお歌で締めくくられる。
まさに「和歌の前の平等」を端的に現している光景である。[b]
■7.大和言葉の上に外来語を受容してきた国語の伝統
我が国の伝統的国柄として、国民の間の一体感、平等感の強いことが挙げられるが、その一因をなしているのが、この大和言葉の力であろう。
しかし、もう一方では、日本語が豊富な外来語を受容してきた、という面もある。古代は漢語、明治以降は欧米語が流入して、儒教思想、近代欧米思想、科学技術の流入と独自の発展を可能にしてきた。
この点で、日本人は、自らの言語を捨ててしまったフランス人とも、外来語の流入を拒んできたドイツ人とも異なる、第三の独自の道を歩んできたと言える。
深い情緒を支える大和言葉の基層の上に、論理的思考を支える外来語の語彙を移入して、我が国は国民同胞感を維持しつつ、先進文明を巧みに導入・発展させてきた。古代の和魂漢才、近代の和魂洋才は、まさに日本語の構造そのものとなっている。
とするなら、我が国の言語教育も、和歌や俳句などの大和言葉を味わうことで子どもたちの情緒を養いつつ、同時に英語の授業で外国の論理と格闘させて、知的鍛錬を行うのが良いだろう。
小学校の国語から和歌や俳句を追放して、子どもたちが情緒を養う機会を奪い、同時に条件反射的な英会話教育で知的鍛錬の場をなくさせることは、情緒と知性を同時に失わせる愚策であろう。
言語教育も、我が先人たちの深い智慧を踏まえたところから、考えなくてはならない。
コメント