この水に100万市民の命がかかっていた…ローマ帝国の水道「驚愕の精密さ」

欧州の歴史

ギリシャ・ローマ時代の科学、技術のレベルはかなり高かったようです。
自然現象をしっかり観察し、その原理や摂理を応用して、これを科学、技術にまで昇華させる。
そして、国家や社会の基盤建設を実現させていく思考過程は現代の科学技術にかけている思考のようにも思います。

この水に100万市民の命がかかっていた…ローマ帝国の水道「驚愕の精密さ」(志村 史夫)
現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか? 現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さんによる古代技術に関するエピソード。今回は、トラヤナ(トライアーナ)水道が、AD109年の6月24日に完成したことにちなんで、古代ローマの時代に通じた水道技術をご紹介します。

この水に100万市民の命がかかっていた…ローマ帝国の水道「驚愕の精密さ」

古代ローマの時代、ローマ水道が建築されました。6月24日は、そのうちの1本であるトラヤナ(トライアーナ)水道が完成した日です。

ローマ帝国は、帝国内の各大都市において水道を建設しましたが、なかでも最大の都市ローマには、500年あまりにわたり、11本もの水道が開鑿(かいさく)されました。このうち、トラヤナ水道は、帝国内の公共施設の強化に努めたトラヤヌス帝(在位期間は98年 〜117年)の時代、紀元109年にローマへの10本目の水道として完成したものです。

トラヤナ水道は、初期に造られたアッピア水道(紀元前312年)やアルシエティーナ水道(紀元前2年ころ)の水量や水質に問題が生じてきたために、造られました。ローマの北西30kmほどのところにあるブラッチャーノ湖で取水され、テヴェレ川を越えて、トラヤヌス浴場のあったオッピオの丘に達していました。

ブラッチャーノ湖 photo by gettyimages

その後、ローマ帝国の衰退・滅亡にともなって荒廃していき、6世紀の東ゴート族によるローマ侵入に際して破壊されてしまいました。

時を経た17世紀、ローマ教皇パウルス5世により再建され、パオラ水道として復活、今もローマの代表的な噴水として有名な「アクア パオラ」を潤します。

アクア パオラ photo by gettyimages

トラヤナ水道については、伝える史料も残された遺構も少ないため、その詳細は窺い知ることができません。しかし、世界遺産に登録された、フランス南部・ガール県のガルドン川に架かるポン・デュ・ガール(ガール水道橋)のように、その威容を今に伝える遺構も存在します。

今回は、現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さん(ノースカロライナ州立大学終身教授)による、ブルーバックスを代表するロング&ベストセラー「現代科学で読み解く技術史ミステリー」シリーズの最新刊、『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』と『古代世界の超技術〈改訂新版〉から、古代ローマの「超技術」についての解説をお届けしましょう。

【書影】古代日本の超技術〈新装改訂版〉

【書影】古代世界の超技術〈改訂新版〉

100万人の市民を潤した水道

見れば見るほど、知れば知るほど圧倒され、驚嘆させられる古代ローマの建造物、技術は少なくないが、なんといっても圧巻は「水道」ではないだろうか。

現代においても、日常生活を送るうえで、まず第一に必要なのは水であるが、古代ローマの市民生活を支えたのも水道だった。人口増加に伴い、ローマ市内に通じる水道は紀元前312年に建設されたアッピア水道にはじまり、紀元226年に建設されたアントニアーナ(アレクサンドリナ)水道まで、計11ルートが建設された。その11ルートの内容を「ローマ水道11ルート一覧」にまとめる。これら古代の水道の多くは、いまなお実際に水を供給し続けているというから驚くほかはない。

ローマ水道11ルート一覧

名称/建設年/全長/水源/水源地高さ/ローマ市内高さ/1日あたりの送水量

  • アッピア/312BC/17km/湧水/30m/20m/73,000m³
  • 旧アニオ/272BC/64km/アニオ川/280m/48m/175,920m³
  • マルキア/144BC/91km/湧水/318m/59m/187,600m³
  • テプラ/125BC/18km/湧水/151m/61m/17,800m³
  • ユリア/33BC/22km/湧水/350m/64m/48,240m³
  • ヴィルゴ/19BC/21km/湧水/24m/20m/100,160m³
  • ヴィルゴ/19BC/21km/湧水/24m/20m/100,160m³
  • アルシエティーナ/2BC/33km/マルティニヤーノ湖/209m/17m/ 15,680m³*
  • クラウディア/AD38/69km/湧水/320m/67m/184,280m³
  • 新アニオ/AD38/87km/アニオ川/400m/70m/189,520m³
  • トラヤナ/AD109/33km/湧水/―/ ―/ ―
  • アントニアーナ/AD226/22km/湧水/― /― /―

*アルシエティーナ水道は、飲料不可

(出典:Wikipedia, 『Newton』2003年9月号)

ローマ市近郊南東部に、紀元38年に建設されたクラウディア水道橋の一部(記事冒頭の写真、および「クラウディア水道橋の断面」)が遺っている。アーチの上にある導水路の内面には、漏水を防ぐために水で固まるモルタルが塗装されている。

クラウディア水道橋の断面。導水路の内面にはモルタルが塗装されている photo by gettyimages

巧妙な送水のしくみ

水源地はいずれもローマ市より高地にあり、送水は完全に重力による自由落下に頼っているから、非常に効率よく大量の水を運ぶことができた(図「水道橋の建設」のa)。しかし、水源地からローマ市内までの数十キロメートルの遠距離をわずかな勾配を保持しつつ導水路を建設するには、高度な測量技術、土木技術が要求された。

導水路は平地の上に建設されるのではない。渓谷や窪地にはわずかな勾配を保持しつつ水道橋を架設(かせつ)し(同図b)、上水を目的地まで運ばなければならない。そのためには、同図cに示すような水準器(ファインダー)を用いた正確な測量が必要だった。

水道橋の建設(小峯龍男『図解 古代・中世の超技術38』講談社ブルーバックス、1999より一部改変)

実際、ローマ水道は非常に精巧に、厳密な許容誤差内で建設された。通常規格で1キロメートルあたり34センチメートルの傾斜とされた。前出の「ローマ水道11ルート一覧」に示される最長91キロメートルのマルキア水道の場合でも、標高差はわずか31メートルである。最短17キロメートルのアッピア水道の場合は、標高差は6メートルに満たない。

これらの水道を介してローマ市内に集められた上水は、1日あたり少なくとも100万立方メートルに達した。現在、東京都水道局が管理している浄水場は11ヵ所あり、それらから1000万人の都民に供給されている上水は1日あたり684万立方メートルである。

古代ローマの市民人口については諸説あるが、紀元元年前後で100万人ほどと考えられている。およそ2000年前のローマ水道の供給量の大きさが実感できるだろう。

欧州各地に建設された水道

ローマ人は、当時のローマ帝国内にあった現在のフランスやドイツ、イスラエル、スペインなどの大都市にも水道を建設した。いまでも、多くの場所でその遺跡が見られるが、とりわけ有名で、世界文化遺産にも登録されているのがフランス南部のガルドン川に架かる水道橋「ポン・デュ・ガール」である。

フランス南部のガルドン川に架かる「ポン・デュ・ガール」。世界遺産に登録されている photo by gettyimages

この水道橋は、ユゼスからニームまでの全長約50キロメートルの導水路の途中にあり、紀元前19年頃、皇帝アウグストゥスの腹心だったアグリッパによって架設されたといわれている。

全長50キロメートルの平均勾配は1キロメートルあたり24.6センチメートルで、全標高差は約12メートル、上記のローマ規格よりやや緩和されている。それは、部材や工事量を減らすため、この水道橋の高さをできる限り低くしようとしたためである。流水量は1日あたり約2万立方メートルだった。

ポン・デュ・ガールは、じつに美しい三重のアーチ橋である。

3層のアーケードの幅は、下層が6メートル、中層が4メートル、上層は3メートルというように上にいくほど細くなっており、全体の高さはガルドン川の最低水位から49メートルである。下層は6つのアーチからなり、長さ142メートル、高さ22メートル、中層は11のアーチからなり、長さ242メートル、高さ20メートル、導水路がある上層は35のアーチからなり、長さ275メートル、高さ7メートルである。

19世紀には、ナポレオン3世の命令で改修されたといわれる。

このポン・デュ・ガールの美しさは、それを見た18世紀の思想家・ルソーに「この3層からなる素晴らしい建造物の上を歩き回ったが、敬意からほとんど足を踏めないほどであった。自分をまったく卑小なものと思いながらも、何か魂を高揚させてくれるものを感じて、なぜローマ人に生まれなかったのかとつぶやいていたのだった」といわしめたほどである。

供給システムのしくみ

水源地からローマ市内に運ばれた水は、街角にある公共の水汲み場の貯水槽や泉へと分配された。一般市民はここへ水を汲みに行ったが、特別の許可を得るか賄賂(わいろ)を払うことによって、最寄りの貯水槽や水道管から自宅まで、ポンプを通して水を引いていた“高官”もいた。

ポンペイの遺跡からは、現代のものとまったく変わらないような青銅製の水道バルブが発掘されている。各所にこのようなバルブを取りつけて、水道管内の水流を調節していたのである。
 
古代ローマの建築家・ウィトゥルウィウスは『建築書』第8書で、ローマ市内の給水状況について

城壁まで来た時、貯水塔(給水槽)とそれに接続して水を受入れるための三重の引込み槽(共同水槽)が造られ、貯水塔には等しく配分された三本の管が、水が両端の槽から溢れた時は中央の槽に戻るように接続された水槽の中に、配置される。こうして、中央の槽にはあらゆる貯水池と噴水へ、他の槽からは市民から税が毎年取れるように浴場へ、第三槽からは公共用に不足を来さないようにして私人の邸宅へ、それぞれ管が敷設される

と書いている(ウィトルーウィウス著、森田慶一訳註『ウィトルーウィウス建築書』、東海大学出版会、1969)。

鉛管にまさる「陶管」

水道管に用いられたのは、主に鉛管であった。近代国家でも長らく鉛製の水道管が使われていたが、鉛が水中に溶け出すことで水を飲んだ人が鉛中毒にかかる危険性があるため、現在は新規に使われることはなくなっている。ローマ時代、鉛中毒の心配はなかったのだろうか。

実際に、ローマ帝国滅亡の一因としてローマ人の鉛中毒を挙げる説があるくらいだが、地中海地方、一般にヨーロッパ大陸の水はかなりの硬水であり、水に含まれる炭酸カルシウムが管内部にすぐに付着(コーティング)することで水道水が直接、鉛管に触れることはなかったから、健康上の大きな問題にはいたらなかったと推測される。つまり、「ローマ帝国滅亡の鉛中毒説」は俗説と思われる。

それでも、ウィトゥルウィウスは『建築書』の中で、鉛管よりも清浄な水を供給でき、修繕も容易な陶製の水道管のほうが好ましいと指摘している。もちろん、そのとおりである。

前述のように、現在は鉛管が新規の水道管に用いられることはなく、旧来の鉛管の、他の材料の管への取り替えが必要視されてはいるが、費用の問題でなかなか進んでいないのが現状である。近代の水道工事担当者がウィトゥルウィウスの『建築書』をきちんと読んでいれば、と悔やまれる。

古代ローマの浄水システム

これとは別に、水に当然含まれていたであろう混入物に対しては、どのような対策がとられていたのだろうか。

たとえ導水路はトンネルや蓋で外部から遮断されていたとしても、水源や流路から土砂などが混入したはずである。これらの混入物は、ローマ市内に入る前に除去されなければならない。そのために使用されたのが沈澱槽であるが、当時はもちろん、現代の浄水場で採用されているような、薬品によって混入物を凝集させて粒径を大きくし、沈澱を促進するような方法は存在しなかった。

流水中の粒径や比重が大きな混入物は、流れが速くても沈澱槽に沈降するので除去できる。粒径や比重が小さな混入物に対しては、流れを遅くすることによって沈降を促進した。
 
たとえばユリア水道(前出の「ローマ水道11ルート一覧」参照)の沈澱槽では、水は入水口から順に4つの水槽を経て出水口側に流れ出ていくしくみになっていた。3つめの水槽から4つめの水槽に向かっては重力に逆らう上昇流になり、沈澱が促進される。沈澱槽にたまった混入物は、定期的に除去された。

さて、記事冒頭で古代ローマの建造物の中で圧巻は「水道」ではないか、と述べたが、水道に代表される大ローマ帝国の建築物の、今に残る美を支えたのがコンクリートといえるだろう。続いては、ローマのコンクリート工法について見てみたい。

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