天皇の陵墓も例外にあらず…! 周濠構造に秘められた「古代日本人の超技術」

日本の技術

すでに述べたように、水田稲作にとって最も重要なのは、いうまでもなく、水の安定的確保であるが、天候に左右される「自然の水」に頼らないためには灌漑用水が必要である。

具体的には、溜池と灌漑用水路である。水田の広さは溜池の容積、つまり貯水量に比例するだろう。

古墳周濠の容積を大きくすればするほど開拓可能な水田の面積が増し、結果的に稲の収穫量が増す。古墳周濠の容積は、古墳の数と規模に比例する。実際、図3に示されるように、纏向地域には少なからぬ古墳が存在する。

天皇の陵墓も例外にあらず…! じつは、古墳は「単なる権力者の墓」ではなかった。周濠構造に秘められた「古代日本人の超技術」(志村 史夫)
あの時代になぜそんな技術が!? ピラミッドやストーンヘンジに兵馬俑、三内丸山遺跡や五重塔に隠された、現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか? 現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さんによる古代技術に関するエピソード

天皇の陵墓も例外にあらず…! じつは、古墳は「単なる権力者の墓」ではなかった。周濠構造に秘められた「古代日本人の超技術」

卑弥呼の墓

崇神天皇陵の手前の山辺道を右折すると、龍王山ハイキングコースに入る。

今回は山辺道を直進したが、ちょうど2年前の4月、山頂(586m)まで約5kmの古墳巡りを楽しんだ。少なからぬ横穴墓を探しながらの山登りハイキングである。いくつかの横穴墓には入ることができる。

山頂に達する頃にはかなりの汗をかくが、そこは箸墓(はしはか)古墳、大和三山の耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)、香具山(かぐやま)を眼下に、そして二上山(にじょうさん)、葛城山(かつらぎさん)を眺望できる絶景スポットである(写真6、図1)。

【写真】龍王山頂上(586m)からの眺望
写真6 龍王山頂上(586m)からの眺望(撮影:柳澤万里枝)

眼下に横たわる箸墓古墳(写真6右下)は3世紀中期~末期、古墳時代の幕開けを告げる全長276m、高さ30mの巨大な方形部合体型円墳である。

宮内庁により、第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵墓と治定されているが、近隣の纏向(まきむく)遺跡の規模や出土品などから、私は『魏志倭人伝』に登場する女王・卑弥呼の墓であろうという説に賛成したい。

【地図】 山の辺の道
図1 山辺道(南ルート)

最大規模の「都市的集落」

考古学の調査・研究によれば、箸墓古墳の造営当時、纏向地域には国内最大規模の都市的性格をもった集落があったとされている。図3に示されるように、この地域は緩斜面を下る「河道」からの用水が豊富で、水田耕作に適した土地であった(参考図書2)。

【図】古墳時代前期の纏向地域復元図
図3 古墳時代前期の纏向地域復元図(提供:田久保晃氏)

すでに述べたように、水田稲作にとって最も重要なのは、いうまでもなく、水の安定的確保であるが、天候に左右される「自然の水」に頼らないためには灌漑用水が必要である。

具体的には、溜池と灌漑用水路である。水田の広さは溜池の容積、つまり貯水量に比例するだろう。

稲の増産を可能にした土木技術

一般的には、図4(a)に示すように、水は川から用水路を経て水田に供給されるが、このままでは、水量は天候に依存する川の水量に頼らなければならない。

ところが、図4(b)に示すように、古墳周濠を「溜池」として利用すれば、水田への水の安定的供給が可能になる。

【図】古墳周濠を利用した用水供給システム
図4 古墳周濠を利用した用水供給システム(田久保晃『水田と前方後円墳』[農文協プロダクション、2018]を参考に作成)

纏向の人々は、川に井堰(いせき)を設けて取水し、古墳周濠へと導水して、干ばつに備えて貯水した(参考図書2)。

古墳周濠の容積を大きくすればするほど開拓可能な水田の面積が増し、結果的に稲の収穫量が増す。古墳周濠の容積は、古墳の数と規模に比例する。実際、図3に示されるように、纏向地域には少なからぬ古墳が存在する。

ヤマト政権の王墓

翌日も天気に恵まれ、奈良盆地北にある、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群(図5)東側のウワナベ、コナベ、ヒシアゲ古墳(写真7)を散策した。

左・図5 奈良盆地の主要古墳(出典:田久保晃『水田と前方後円墳』農文協プロダクション、2018) 右・写真7 ウワナベ・コナベ・ヒシアゲ古墳(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

上図「奈良盆地の主要古墳」の拡大画像表示

佐紀盾列古墳群は、古墳時代前期から中期にかけてのヤマト政権の王墓を多く含む古墳群である。

水の支配者

ウワナベ古墳は5世紀中頃に造られたとされる全長約270mの、コナベ古墳も全長200m超の巨大古墳である。

両古墳の周濠にも、満々たる水が蓄えられている(写真8、写真9)。

上:写真8 ウワナベ古墳の周濠 下:写真9 コナベ古墳の周濠(撮影:いずれも柳澤万里枝)

「水の支配者が生産の支配者である」という考え方から、古墳周濠と灌漑の問題を「畿内古墳立地の一考察」という論文で取り上げた伊達宗泰は、「ウワナベ・コナベの周濠の水は現在でも70ヘクタールの水田をうるおし、しかも中世文書にもその利用の記録が発見される。大仙陵(仁徳陵)にいたっては117ヘクタールにおよぶ水田の水を供給している。」と書いている(参考図書3)。

たとえば写真2のような、大古墳の周囲に広がる水田を目の当たりにすれば、拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で詳細に述べた方形部合体型円墳(「前方後円墳」)の方形部ー周濠ー水田との関係が明らかになり、ヤマト政権の拡大、方形部合体型円墳の巨大化と全国的波及の理由がすっきりと理解できるのである。

コナベ古墳の北東の位置に隣接するヒシアゲ古墳に水が蓄えられた周濠は見られないが、航空写真(写真7)から、周濠の痕跡は明らかである。

日本列島の長い歴史の中で、九州から東北南部にかけて、水稲耕作がはじまった時期と「古墳時代」が一致することは歴史的事実であるが、その「一致」の理由がよく理解できる。

伝説的な嫉妬深さ

ところで、ヒシアゲ古墳の被葬者は、宮内庁により第16代仁徳(にんとく)皇后・磐之媛命(いわのひめのみこと)と治定されている。

ヒシアゲ古墳の全長219mという規模は、皇后陵としては破格の大きさに思えるが、それは、磐之媛命が第17代履中(りちゅう)天皇、第18代反正(はんぜい)天皇、第19代允恭(いんぎょう)天皇の母であることと、伝説的な嫉妬深さに関係することなのだろうか。

磐之媛命に関しては、『古事記』仁徳天皇条に

その太后石之日売命(いわのひめのみこと)、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立てば、足もあがかに嫉妬みたまひき

という記述が見られるように、嫉妬深い人物として知られる。

そのさまから他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は自身が宮殿を離れたときか、磐之媛命が宮殿から出かけたときに妾たちを迎え入れるしかなかったという。

日本古代史がもつ「2つの面白さ」

『古事記』はまた、仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売は磐之媛命の嫉妬を怖れて国に帰ったという話も伝えている。『日本書紀』には、仁徳が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが、磐之媛の嫉妬が強くて召し上げられないと嘆く話が出てくる。

ことの真偽はともかく、磐之媛命の嫉妬深さについては『記紀』が何度も述べていることであり、それがヒシアゲ古墳の、皇后陵としては破格の大きさと関係しているのは間違いないだろう。このようなことを考えると、私は「日本古代史」の史実の面白さに加え、文学的面白さを感じるのである。

「渡来亀」発見!?

佐紀盾列古墳群では、他にも面白い体験をした。

コナベ古墳の周濠に、たくさんの亀が生息しているのを見つけたのである(写真10)。

写真10 コナベ古墳周濠の亀(撮影:筆者)

おそらく鯉などの魚も生息しているのだろうが、このあたりの地層が粘土質のためなのか、水が濁っていて見ることができない。私が訪れたのは、まさにうららかな春の日であり、亀たちは仲間とともに甲羅干しに出てきたものと思われる。

昔から「鶴は千年、亀は万年」といわれるので、コナベ古墳周濠の亀たちは古墳築造当時から生息していると思いたい。しかし、いくら「亀は万年」の亀でも、実際にはそんなに長生きできないから、私は勝手に、少なくとも古墳築造当時に生息していた亀(百済から渡来した帰化亀?)の子孫ではないかと空想した。

もちろん、科学的、生物学的根拠はまったくないが、「そう」思うと、古墳周濠が現役の灌漑施設になっていることに加え、古墳にいっそうの親しみが湧くのではないか。

古墳時代の先祖から伝わる亀たちの「昔話」を聴きたいものだ。

「古墳と暮らす」現代人

閑話休題。

ちょうど昼過ぎ、山辺道のほぼ中間点にあり、美しい眺望が楽しめる開放的なデッキも設置されている天理市トレイルセンターに到着。早速、格別の味の生ビールで乾いた喉を潤し、空いた腹を満たし、山辺道後半に向けて英気を養った。

天理市トレイルセンターは、食事や休息の場であるだけでなく、東殿塚(ひがしとのづか)古墳出土の船の精巧な線刻画で知られる鰭付楕円筒埴輪(ひれつきだえんとうはにわ)のレプリカや、古代の奈良盆地のジオラマなどを展示した文化施設でもある。また、前述の保田與重郎が郷里の“大和”に捧げた業績が紹介されている。

同センターを出発して天理市に入ると、「古墳のようす」は一変する。

古墳が現代人の日常生活に溶け込んでおり、現代人が古墳と暮らしているのである。

寺の境内に古墳が!

ほどなく、4世紀前期の全長110mの燈籠山(とうろうやま)古墳に出合うのだが、この古墳は念仏寺の境内にあり、いまは本堂背後の広大な“現代の墓地”になっている(写真11)。

もし、そこに「燈籠山古墳」という看板(写真12)がなければ、誰も古墳だとは思わないだろう。

上:写真11 “現代の墓地”燈籠山古墳 下:写真12 燈籠山古墳を示す看板(写真:いずれも『燈籠山古墳』天理市中山町の前方後円墳より

また、明らかに古墳の上につくられたと思われる畑もところどころに見られるが、これらを目にして、ここがもともとは古墳であったと思う人はいないだろう。

古墳の上に建てられた住宅

天理市の山辺道沿いの萱生(がよう)町、竹之内町には、写真13のような環濠集落が見られるが、これらの環濠は明らかに古墳周濠を利用したものであろう。つまり、「環濠集落」の集落は古墳の上にあるということだ。

写真13 萱生環濠集落(gettyimages)

古墳の「霊」を供養する

本来は神聖な場所であるべき古墳(墳墓)の上に墓地や畑や集落がつくられていることに、私は眉を顰(ひそ)めるのであるが、萱生町環濠集落からほどなくのところにある天満宮の境内に、ひっそりと立つ「古墳霊供養塔」を見つけ、ほっとした気持ちになった(写真14)。

写真14 古墳霊供養塔(筆者撮影)

これは「古墳被葬者」を供養するのではなく、古墳の「霊」を供養するものである。背面に「昭和五十五年九月建立、有志一同」と刻まれている。私は、「古墳霊供養塔」と、それを建立した「有志一同」に深く頭を下げた。

古墳の頂上にて

その後、夜都岐(やつぎ)神社や内山永久寺跡、石上神社を経て、天理高等学校の敷地内にある西山古墳に達した。

西山古墳の築造時期は、古墳時代前期の4世紀と考えられている。周濠は埋め立てられており、地形改変が行われているために元の形状がはっきりしないが、現状では「前方後方墳」と見られる。

この西山古墳は樹木に覆われていないため、高さおよそ16mの頂上まで登ることができる(写真15)。

写真15 西山古墳(撮影:柳澤万里枝)

西山古墳の頂上で、われわれ「コフトモ」は達成感と開放感に浸りながら、およそ10時間にわたる、現代の山辺道を歩く「古代史散歩」を終えた。

山辺道がたどった「道」

さて、古代の山辺道は、歴史の変遷の中で、どのような道をたどったのであろうか。現代人の私としては興味深いところである。

大和、山辺道をこよなく愛した保田與重郎の言葉(参考図書1)を引用して、山辺道に想いを馳せたい。

〈欽明天皇、敏達天皇ののち、都は櫻井をへて飛鳥にうつり、山ノ邊ノ道は國史の幹線から没しきる。(中略)

都が櫻井(磐余)をへて飛鳥地帯へ移つてからは、山ノ邊ノ道はその名さえ忘れされた。つばいちが繫栄し、街路樹といふものが植えられてゐたといふことは、「萬葉集」にみえてゐる。

今日の山ノ邊ノ道は、大和の國中でも、一番ものしづかで、人情も平常のやうにうけとる。奈良から櫻井へ通る鐵道の沿線が、大和國原では一番温雅なやうだ。その沿線、櫻井から丹波市までの間の車窓から見てゐると、好ましい形をした、はつきりと大古墳とわかるものが三十数箇あつた。しかしこの線路に沿ひ、山べにかかつて列つてゐる村落と、平地たちつづく村は、どの一つをとつも、最もすぐれた總合藝術品でないものはない。大和に残る數千年来の遺物は、その時代時代のわが民族の最高藝術ならぬものはないが、この村々の總合藝術としての美しさ立派さは、天平や推古白鳳の一流作品に何ら劣らぬのである〉

本稿を閉じるにあたり、山辺道についての綿密・周到な事前準備、当日の詳細なガイドをしていただいた本居宣長記念館・吉田悦之名誉館長、貴重な資料を快く提供していただいた田久保晃氏に心から感謝申し上げたい。田久保氏は、数ある古代史書の中で、私が「破格の名著」と絶賛する『水田と前方後円墳』の著者である。

【参考図書】

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  1. 保田與重郎『保田與重郎文庫17 長谷寺/山ノ邊の道/京あない/奈良てびき』(新学社、2001)
  2. 田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018)
  3. 伊達宗泰『大和考古学散歩』(学生社、1968)

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