文字文化もなく、ましてや科学もなく、精神世界が暮らしや生活の中心を占めていた縄文時代。「石棒の聖地」、飛騨市宮川で石棒に思いを巡らすと、イマジネーションは無限に広がりそうだ。

「石棒の聖地」岐阜・飛騨市宮川町 縄文時代の遺跡から1056本出土


「石棒(せきぼう)」って知ってますか? 現代からおよそ1万2千~5千年前に当たる縄文時代の祭(さい)祀(し)、祭礼の道具と推測され、一族の繁栄を願う男根を模したものだ。国内の縄文時代の遺跡では、各集落跡に数個見つかっているが、飛騨市宮川町では一つの遺跡でそれまでの常識、記録をはるかにしのぐ1056本を発掘。決して広くない研究規模ではあるが石棒研究の「聖地」とも位置づけられる。なぜ飛騨市宮川なのか、なぜそんなに大量に見つかったのか。無料クイズで毎日脳トレ!入口はこちら
1056本の石棒が見つかった塩屋金清神社遺跡と至近距離にある飛騨みやがわ考古民俗館。公営でありながら市の方針で普段は無人の施設に足を運ぶと、長さ1メートル超という超巨大な石棒が、回転するテーブルの上に鎮座していた。「なんで回転しているんですかね。謎です」。案内してくれた市職員がけげんな表情を浮かべ、覆っていたケースを写真撮影のために外してくれた。
石棒は、縄文時代中~後期の地層から多く出土する磨製石器の一つ。縄文中期は1メートル超と大きいが、その後、数十センチ前後へと縮小し、後期には「石冠(せっかん)」という全く形の違う道具へと姿を変える。
なぜ飛騨市宮川で石棒が大量に見つかったのか―。その問いの有力な答えとして、地元でとれる「塩屋石」という岩石が挙げられる。地質学で言う「黒雲母流紋岩質溶結凝灰岩」で、柱のように縦に割れやすい、柱状節理という性質がある。この特徴を熟知し、塩屋石を石棒へと変えたのが縄文人というのだ。大量に見つかったことから石棒を生産していた製作所のような場所が飛騨市宮川にあったと報告書で示唆している。地域内では他の遺跡でも大量に発掘され、2008年には過去最大規模1・2メートルの代物が見つかった。
何に使っていたのかという問いの答えを探すことは他の縄文時代の遺跡、発掘物の研究と同じく困難を極める。文字の文化がないためだ。08年の調査にも参加、過去最大の石棒の発掘に関わった飛騨市の学芸員三好清超さんも「集落、家族の繁栄を願っていたのではと推測するのが限界」と言葉を濁す。町内の別の遺跡で出土した石棒には、真っ二つに割られたり、中には火であぶった形跡もあるという。いわゆる竪穴式住居の床下部分から見つかるものもあれば、集落の中心で見つかるケースもあり、謎は深まるばかりという。
「想像を巡らす余白が大量にあるのは逆に面白くないですか」と言うのは、先の職員。地元では石棒をテーマに交流する「石棒クラブ」も立ち上がった。コアメンバーは三好さんや飛騨市職員、都内のサラリーマンら9人。考古館が所蔵する石棒を「一日一石棒」と称して写真投稿アプリ「インスタグラム」でアップしている。石棒の写真を3D処理し、オープンデータで公開、保存していく取り組みも始めた。
クラブの発足当初、塩屋石から石棒を削り出す内々のワークショップもやってみたといい、力任せに削ると割れてしまったという。思いがけず技術の高さを知ったといい、石棒をつくる職人、削る、たたく、磨くの工程を分業していたことも考えられるという。
文字文化もなく、ましてや科学もなく、精神世界が暮らしや生活の中心を占めていた縄文時代。「石棒の聖地」、飛騨市宮川で石棒に思いを巡らすと、イマジネーションは無限に広がりそうだ。
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