人類史上最古でかつ最高の文明は縄文文明?
人類史において最初に起きたのは、下記の4つの文明とされてます。
・中国文明(紀元前14000年から紀元前12000年頃)
・インダス文明(紀元前7000年頃)
・メソポタミア文明(紀元前5500年頃)
・エジプト文明(紀元前5000年頃)
しかし、最近は日本国内で大量の石器、土器、遺跡が発見され、日本の縄文文明、石器文明こそが人類史上最古でかつ最高の文明だったのではないかと言われ始めています。
以下に紹介する記事では、日本の国外に目を向け、「南太平洋のバヌアツ、南米エクアドルなど、世界各地で縄文土器が発見されている」と言う事実から、縄文人が世界中に文明を広めていったのではないか、と言う仮説を立てています。
No.1300 世界に遺された縄文人の足跡

南太平洋のバヌアツ、南米エクアドルなど、世界各地で縄文土器が発見されている。
■1.縄文人は元祖「国際派日本人」!?
あけましておめでとうございます。新年の第1号は、お正月らしく夢とロマンのあるテーマから始めましょう。縄文人たちの足跡が世界のあちこちで見つかっており、どうやら彼らは遠洋航海の技術を持って世界を闊歩していた元祖「国際派日本人」だったらしい、というお話です。
澤田健一氏の『古代文明と縄文人』という著書から、内容をご紹介しますが、澤田氏は「はじめに」で、こう慎重な前置きを述べています。
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中には、この著者は頭がおかしいと思った方もいるだろう。実は、筆者も以前はその一人だった。この手の話は、どうしてもオカルトにしか聞こえないからである。それと同じ類のことを書くのだから、完全に拒否されても、筆者には理解ができる。
だが、少し我慢してお付き合いいただきたい。[澤田、p6]
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「少し我慢してお付き合い」して読み進めると、この本には学術的な発見事実も満載で、巻末の「主な参考資料」には8頁半もの文献が掲載されています。論の進め方も非常に論理的で、空想や独断ではない合理的な仮説が展開されています。その一端を、本稿でご紹介しましょう。
■2.「そんなはずはない」と憶測で否定する非学問的態度
縄文人の足跡の一つとされているのが、フランス人考古学者ジョゼ・ガランジェ氏が南太平洋上に浮かぶバヌアツで14点の縄文土器を発見したという事実です
バヌアツは、ニューギニア島の東端からさらに東南に2千キロほども離れた諸島です。そんな所から日本の縄文土器が出るはずはないと、一部の日本の考古学者らが主張しているようなのです。曰く「慶應大学考古学教室の関係者が、フランスの考古学者に縄文土器をサンプルとして寄贈し、それがパリの人類博物館で間違えて登録された可能性が高い」などと主張されています。
しかし、ガランジェ氏は「登録ミスはなかったと信ずる」と主張しており、一方の慶應大学の「関係者」は名前すらも公表されていません。単なる憶測に過ぎない、と澤田氏は批判しています。
「縄文人にはそんな遠距離の渡海などできるはずがない」という先入観から、こんな憶測でその後の研究を封じてしまうようでは、学問の進歩はありません。ガリレオが地動説を唱えても「そんなはずはない」と否定した宗教裁判と同様です。
逆に、それがありうるとする論拠を澤田氏はいくつも挙げています。バヌアツよりさらに東の南太平洋に広がる海域、ポリネシアの島々を旅した18世紀に旅したジェームズ・クック船長は「この広大な大洋に浮かぶすべての島々に、同一の人種が住みついたのは驚くべきことである」と書いています。すでに人々は前近代の船で、南太平洋の島々に移住していたのです。
彼らが使っていたカタマラン船は全長17メートルから30メートルあり、二つの船体が甲板で繋がれていました。1976年に、カタマラン船を復元した実験航海が行われ、35日でハワイからタヒチまでの4500キロを渡りきりました。とすれば、縄文人たちが同様に南太平洋まで行き来していた可能性も、一概に「そんな事はあり得ない」と切り捨てる事はできません。
■3.丸木舟で外洋航海は可能となった
そもそも縄文人は、3万8千年以上前にボルネオ島(別名カリマンタン島)のあたりから、丸木舟に乗って、フィリピン群島、台湾、琉球列島を経由して日本列島にやってきたと考えられています。
縄文人に最も近い末裔とされるアイヌの習俗や楽器、織物技術、道具などは、カリマンタンの諸民族と共通しています。またアイヌ犬は一般的な日本犬と異なるDNAを持っており、それは沖縄、台湾、ボルネオ島にいる犬種と共通だといいます。[澤田、p14]
琉球列島には100キロ以上の距離がある海峡が二つあります。行く先の島が水平線に隠れて見えない、この距離を原始的な船で越えられるのかどうかが、カリマンタンからの渡来説を検証するキーポイントです。
この渡海が可能である事を実証したのが、国立科学博物館の海部陽介教授の「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」でした。男女5人が乗った丸木舟が、台湾を出発して黒潮を超え、水平線の彼方にある与那国島まで225キロを漕ぎきったのです。
ところで水平線の彼方で目的地が見えないのに、どうしてそちらに行こうとしたのでしょうか。これは渡り鳥であるツバメの大群を見たからではないか、と推測されています。南方の島々に住むツバメは、春になると北の空に旅立ちます。そして台湾-琉球列島-本州-北海道というルートで飛び、秋になると戻ってきます。ツバメが飛ぶ北方にも大地があると太古の人々は考えたのでしょう。
実際に、北部九州の古墳壁画には、人が乗った船の舳先(へさき)に鳥がとまっている姿が描かれています。鳥の案内に導かれて、航海しているのです。
■4.丸木舟を作るための磨製石器
また、丸木舟で、というのは、筏(いかだ)ではスピードが出ず、黒潮を乗り越えて行くことができないからです。しかし、丸木舟を作るには、大木を切り倒し、その木をくりぬく道具が必要です。その道具が石斧(おの)で、刃の部分を薄く研いだ刃部磨製石器です
日本列島では3万8千年も前の磨製石器が、1000点以上も出土しています。ヨーロッパで磨製石器を使い始めるのはせいぜい1万年前なので、比較にならないほど日本の方が先行していたのです。
したがって、縄文人の祖先は、カリマンタンで刃部磨製石器を使って丸木舟を作り、黒潮を乗り越えて、日本列島に辿り着いたと考えられます。
縄文人たちは、伊豆半島から50キロも離れた神津(こうづ)島で採れた黒曜石を、黒潮を横断して本土に届けていました。また、琉球列島で採れた南海のイモガイが青森県の三内丸山遺跡で見つかっています。沖縄から北海道まで日本全土で同じ遺伝子を持った縄文人が住んでいたことを考えると、彼らは丸木舟で日本全土を自在に動き回り、交流・交易していたと考えられるのです。

若狭三方縄文博物館で展示されているユリ遺跡の丸木舟
https://www.town.fukui-wakasa.lg.jp/soshiki/wakasamikatajomonhakubutsukan/gyomuannai/955.html
■5.南米太平洋岸で発見された九州・曽畑式の土器
世界最古級の土器が日本で出土しているのは、弊誌でも何度かご紹介しましたが、澤田氏は「縄文土器を作り始めたあとは、長期航海もずいぶんと便利になったことであろう」と述べています。船に土器を積んでおけば、航海中に雨が降り、魚が捕れた際に、土器に水や食料を貯めておけます。丸木舟で外洋航海するのに、土器を積んでいくのは、当然なのです。
そもそも、なぜ日本列島で世界最古級の土器が作られたのか。澤田氏は極めて説得性のある仮説を述べています。
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ではなぜ日本民族にだけ、土器作りの発想が生まれたのであろうか。それは日本が火山国だからだと考えられる。火山から流れ出た、ドロドロに溶けた溶岩が冷えて固まると、そのままの形で硬い塊となる。そこからヒントを得たのではないだろうか。[澤田、p145]
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南米エクアドルの太平洋岸、ガラパゴス諸島の対岸にあたるバルディビア遺跡で5500年前の土器が出土していて、それが九州の曽畑(そばた)式土器と酷似しています。曽畑式とは縄文土器の中でもある程度進化した様式ですが、それが突然、出現しているのです。しかも、エクアドルだけで。
ある程度進化した土器が突然現れた、ということは、どこからか土器の技術を持った人がやってきて、そこで土器を作り始めた、というのが、最も合理的な仮説です。
そして、その人々が海から南米大陸に到着したというのは、間違いないと考えられています。当時の北米大陸は巨大な氷河がカナダ一帯を覆い尽くしていて、ベーリング海峡を通って渡ることは不可能でした。
また、ヨーロッパ人がポリネシアに足を踏み入れたときにはすでに、南米原産のサツマイモを南太平洋全域で栽培していたという事実から、ポリネシアと南米大陸との間で往来があった事も間違いありません。
さらに、南半球には熱帯循環という海流が反時計回りに循環しています。この東向きの海流に乗って南米に行く、また西向きの海流に乗って戻る、ということで、南太平洋での往来はかなり楽になるでしょう。
これらの事実を踏まえれば、縄文人が南米大陸に行っていた、という仮説も、荒唐無稽とは思えなくなります。
■6.中国古代文明に残された縄文人の足跡
澤田氏はこのように、世界各地での縄文人の足跡らしき史実を丹念に紹介していくのですが、本稿では最後に、お隣の中国との関係だけを見ておきましょう。
中国南部の長江流域では、1万5千年前から1万4千年前頃の遺跡が見つかっており、長江文明と呼ばれています。これは北方の黄河文明よりもはるかに古い文明です。縄文土器を使い、また約8千年前のカヌーが発見されていて、船を移動手段として使っていたことも分かっています。
その末裔と考えられる少数民族が中国の西南部、ベトナムやラオス、ミャンマーと境を接する雲南省にいて、高床式建物、お歯黒、神話、歌垣(若い男女が求愛の歌謡を歌う集まり)、納豆、げた、畳、仮面、鮒(ふな)すし、赤飯など、日本と多くの文化的共通点を持っています。
北の黄河流域で、実在が確認されている最古の王朝は殷(いん)で3500年ほど前から約500年続いたとされています。「殷」とは、次代の周王朝がつけた蔑称(さげすむ名)で、本来の国名は「商」でした。
商の人々はもともと東海海岸諸民族の一支族とされ、古くは東方にあって「夷」と称していました。土着の中国人ではなく、東方からやってきた異民族だったのです。夷系の種族は多く、後漢書東夷伝には九つの種族が記されています。その中の一つが、商を打ち立てたのです。
中国大陸の東海岸に、縄文人たちと同じ民族集団がいたとしても、彼らの高度な航海術を考えれば、何の不思議もありません。
商の時代の遺跡から出土する古代文字を「甲骨(こうこつ)文字」といいます。亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻みつけた、漢字の原初の形態です。古代漢字研究の第一人者、白川静・立命館大学名誉教授は、「商王朝の成立には、日本の古代王権の成立事情と極めて相似た傾向が認められる」と指摘されています。
その「似た傾向」として、天地創生(天地開闢)以来の神話をもち、その神々の子孫として王統譜(王の系統)が構成されていること、子安貝や玉器を霊的なものとして珍重すること。そして文身(いれずみ)の習俗ががあることを述べられ、「よその国とは思えないほどよく似ている」とまで言われています。[澤田、p159]
よく似ているのは、同じ文化を持つ同じ民族だったから、と考えるのが合理的でしょう。こうして見ると、縄文人たちは揚子江沿いには古代文明を築き、黄河沿いでは商王朝を開いて、中国史に足跡を残しています。
私は常々、『論語』や老荘思想などの古代中国の精神文化には、日本人にとって極めて親しみやすい、相性の良さを感じるのに、時代が下るにしたがって理屈っぽい朱子学や皇帝独裁など異質になっていく、と感じていました。それも、古代中国の文明にはもともと縄文人たちが深く関与していた、と考えると、その理由が納得できるような気がします。
■7.真に学問的な姿勢とは
以上、ごく一部だけをご紹介しましたが、澤田氏の探求姿勢は膨大な史実を踏まえて、それらを整合的に説明する仮説を求めていった結果、縄文人たちが3万8千年前からの外洋航海術と、1万6500年前からの土器づくりの文化で各地に文明の足跡を残した、という説に辿り着いたものです。
これに対して、冒頭にご紹介した「バヌアツの土器は云々」という論難は、「そんな事はあり得ない」という先入観から、その論拠を憶測で述べているだけの、きわめて非学問的な姿勢に見えます。同様に、非学問的な姿勢を、澤田氏はもう一つ挙げています。
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元来は、土器は西アジアで誕生して世界に広がったと考えられていた。縄文土器も、西アジアから技術が伝わったとされていたのだ。ところが、縄文土器のほうが古いとわかると、一転して、西アジアの土器と東アジアの土器は別個に発明された、あるいは各地で個別に誕生したとなった。こうした意味不明な思考をしているからこそ、古代史が迷路に入り込んでいくのであろう。
当初から考えられていたとおり、土器製作の技術は一地域で誕生し、それが世界に広がったのである。その発祥地は西アジアと考えられていたが、それは誤りで、日本から世界に広まったというシンプルな話なのだ。[澤田、p146]
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なるべく多くの発見事実をなるべくシンプルに説明しうる仮説を追求するのが、学問的態度です。世界各地で土器が個別に発明されたという仮説では、日本以外の地域では突然、進化した土器が登場するという事実が説明できません。土器は日本で発達し、それが他地域に広まった、という仮説の方がシンプルかつ合理的で、それを反証する事実が見つかるまでは、切り捨ててはなりません。
日本の縄文土器の方が古い、と分かった途端に、「一カ所で発生し各地に伝播した」という仮説を切り捨てて、「各地で個別に発生した」と考えるのは、「日本が文明的先進地域であるはずがない」という先入観に囚(とら)われた非合理的、非学問的態度です。一種の自虐史観ですね。
ガリレオの地動説も、「この大地が動いているはずがない」という根拠のない先入観で切り捨てられていれば、決して認められることはなく、その後の天文学の進歩もなかったでしょう。
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