日本人の「心」の基底部には「縄文の心」「世界観」が現代にも連綿と流れているように思います。
西欧を中心とした自然収奪型文明と根本的に違う、自然との循環と共生の世界観を基底とする「自然循環型文明」は次代の「世界観」「文明」の鑑となるのではないでしょうか。
約5500年前から1500年間栄えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた。
共生と循環の縄文文化
■1.三内丸山遺跡の衝撃■
約5500年前から1500年間、縄文時代前期から中葉にかけて栄えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた。高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂る。新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作る、等々。
縄文時代といえば、従来は、たとえば次のように描写されていた。
今から2400年前、水田による稲作が北九州に伝わった。中国の稲作が、おもに朝鮮半島南部から、人々の移住とともに伝わったのである。米づくりが始まると、人々は採集や狩りのくらしから、計画的に食料を生産するくらしに変わり、定住して生活するようになった。[1,p36]
すなわち、文明化されたシナから稲作が伝わる前は、日本人は定住もせずに、狩りをしたり、貝や木の実を採集して、原始的な生活を送っていた、というのである。
最近の考古学的発見から、このような原日本人のイメージがどのように修正されつつあるか、見てみよう。
■2.大規模な木造建築群■
三内丸山遺跡の大きさは、約35ヘクタール。平均直径6~700mもの巨大な円形状の土地である。ここに約100棟の掘立柱建物、約580棟の竪穴住居が、整然と配置されていた。
掘立柱建物は、直径2m、深さ2mの巨大な柱穴に、クリの巨木を立てたもので、柱の高さは10m以上と推定されている。柱の間隔は、すべて4.2mと一定で、縄文時代に長さの単位、尺度があった可能性がある。長さが10m以上のものが何棟もあり、最大のものが32m、床面積100坪である。
建物は、祭祀施設などの可能性が考えられているが、よくわかっていない。これだけの敷地に約1500年にわたって継続的に人が住んでいた。最盛期の人口は500人規模であったと推定されている。[2,p34-44]
■3.全国規模の大量生産と交易ネットワーク■
発掘された面積は遺跡全体の15%に過ぎないが、それでも出土した土器や石器はダンボール箱約4万箱におよぶ。現在までに発見された土器では日本の縄文土器が1万6500年前と世界最古であるが、土器の先進地域として、ここでも多種多様な土器が大量に見つかっている。
出土したなかには、直径が30センチほどもある見事な漆塗りの皿もあった。今でも東北地方は漆が盛んだが、現代にひけをとらない漆の技術がすでに5千年前からあったことは、専門家を驚かせた。
通常は一集落から数点しか発見されない土偶が、約600点も出土した。骨角器の針も大量に見つかった。これらはここで大量に生産され、周辺のムラに供給されていた可能性が高い。
さらに広域の交易が行われていた証拠として、新潟県のヒスイ、秋田県のアスファルト、岩手県のコハク、北海道の黒曜石などが出土している。[1,p35]
ヒスイは日本では新潟県の糸魚川上流の姫川でしかとれない。その原材、半製品、完成品が、中部地方、関東地方、そして、今回の青森県の三内丸山遺跡で見つかっている。出土遺跡の分布状況から、新潟から青森まで500キロ以上もの距離を日本海をこえて、直接持ち込まれたと考えられている。
太平洋上の御蔵島、八丈島など、伊豆諸島には、前期から縄文人の活発な進出が見られるが、その狙いの一つはゴホウラという貝だったと言われている。縄文晩期には、これら南西諸島産のゴホウラの製品が北海道まで運ばれている。縄文人は激しい黒潮をつききる高度な航海術をもっていたのである。
[2,p68]
■4.おしゃれな縄文人■
興味深いのは、これだけ遠方から集められた材料が、装飾品などに使われたことだ。白や緑、黒のきれいな石は、リング状に加工され、ピアスとして耳を飾った。
ヒスイ、コハク、動物の歯、貝などは、穴をあけてビーズ状にして、首飾りや腕飾りを作った。硬玉製大珠やイノシシの牙などはペンダントにされた。
一枚板から切りだした櫛、骨格器でかわいい飾りをつけたかんざしやヘアピンも見つかった。樹皮を十字に編んだポシェットも出土した。これらの高度の加工技術から、専門的な技術者の存在が考えられる。
ザンバラ髪で、毛皮をまとった原始人というイメージは、これらの発見にはどうにもなじまない。かんざしやヘアピンで髪を美しく飾り、耳輪、首輪、腕輪をつけ、ポシェットをこわきに抱える-それが縄文時代の日本の女性であった。
このような美への欲求を満たすために、新潟のヒスイや、伊豆諸島の貝が、数百キロの波濤を越えて、もちこまれていたのである。[2,p65-68]
■5.平和な平等社会■
丸山三内遺跡では成人の墓約100基、小児用の墓約880基が見つかっている。集落のそばに平然と配列されたこれらの墓地は、全く大小の区別なく、副葬品もみな同様だった。
ここから縄文社会が階級差のあまりない、基本的には平等主義に立脚した共同体社会であったと見なされている。巨大な建物も、王や貴族の家ではなく、宗教的儀礼や共同の作業場、食料貯蔵庫などであったと推定されている。
三内丸山遺跡が発展した今から5千年前、メソポタミアやエジプトでは、すでに王が出現し、人民を搾取して、巨大な建物を造って富めるものと貧しいものの階級があらわれていたのとは、著しい対照をなす。
さらに、縄文時代には、人殺しの武器はなかったとも推定されている。縄文時代は戦争のない平和な平等社会であったようだ。[3,p296]
■6.環境に適した効率的な食システム■
三内丸山遺跡の周辺には、クリ林が広がり、縄文人はクリを主食の一種としていた。クリが人工的に栽培されていた可能性も指摘されている。
ヒエも利用されていた。穀類であるヒエは狭い面積で多くの収量が期待でき、栄養価が優れ、貯蔵が簡単と、主食として優れた食品である。実際にヒエは日本では近世まで非稲作地帯の主要穀類であった。世界のヒエの分布から見て、ヒエ栽培は日本が起源地であるという説もある。
またニワトコの種子と、その果実が発酵していた事を示す昆虫化石が発見され、当時の縄文人達は野生の果実を集めて、酒造りを行っていたことが確実視しされている。
さらに年間を通じてとれる貝類、季節的に押し寄せるサケ、ニシン、イワシ、アジが、主食や副食として利用されていた。肉類では、ウサギ、ムササビなどの小動物が主となっていた。
縄文人は、クリやヒエを主食とし、これに水産資源や小動物を幅広く利用していた。季節の変化をよく理解し、身の回りの多様な動植物を最大限に利用する効率的な食のシステムを作りあげていた。[2,p56-61]
■7.貝塚は貝のお墓■
他の縄文遺跡では、捕獲されたイノシシやシカ、カモシカなどの大型動物の骨も見つかっているが、そうした動物では幼獣の骨が極めて少ない。また、シカやイノシシの歯の萌出段階の分析では、冬の季節にしか捕獲されていない事が分かっている。それらが絶滅しないよう、他の食物の少ない冬に限定し、成獣だけを捕った。そこに共に生きる自然への配慮が窺われるのである。[3,p88]
昔の考古学では貝塚とは、貝の捨て場と考えられていたが、最近では「貝のお墓」だという説が生まれた。貝は丁寧に並べられて、盛り土をされており、どう見てもゴミ捨て場とは見えない、という。
貝がふたたび豊かな身をつけて、この世に戻ってくるようにとの願いを込めて、貝の霊を丁重にあの世に送る場所が貝塚なのである。三内丸山遺跡で見つかった土器塚も、土器をあの世に送り返す場所であった。
縄文人の精神の根底には、すべてのものに生命が宿り、それがあの世とこの世を循環しているという世界観があった。これが基底となって、聖徳太子が仏教を受け入れた時も、「山川草木悉皆成仏(自然のすべてのものに生命が宿る)」という思想となり、また現代でも道具が壊れた時、「お釈迦になった(成仏した)」と言う。縄文人の共生と循環の世界観は、日本人の心の基層をなしているのである。[2,p24-26]
■8.共生と循環の文明■
縄文文化が自然との調和の中で、高度の土器文化を発展させ、一万年以上にわたって一つの文化を維持しえたことは、驚異というほかはない。縄文文化が日本列島で花開いた頃、ユーラシア大陸では、黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明など、農耕に基盤を置く古代文明がはなばなしく展開していた。
東アジアの一小列島に開花した縄文文化は、こうした古代文明のような輝きはなかった。しかし、これらの古代文明は強烈な階級支配の文明であり、自然からの一方的略奪を根底に持つ農耕と大型家畜を生産の基盤とし、ついには自らの文明を支えた母なる大地ともいうべき森を食いつぶし、滅亡の一途をたどっていく。
それに対し、日本の縄文文化は、たえず自然の再生をベースとし、森を完全に破壊することなく、次代の文明を可容する余力を大地に残して、弥生時代にバトンタッチした。それは共生と循環の文明の原点だった。[4,p89]
環境考古学者・安田喜憲氏の言である。1万年の間、原日本人はこの列島の中で、共生と循環の世界観のもとで、豊かで、平和な平等社会を営んできたのである。それはユーラシア大陸に発生した「自然収奪型文明」とは、まるで性格の異なる「自然循環型文明」の基盤となった。
■9.自然循環型文明の最後の砦■
ユーラシア大陸の自然収奪型文明は、常に森を食いつぶすことで、新たなるフロンティアを必要とした。四大古代文明の地はほとんど砂漠化・荒地化し、ギリシアは禿げ山となった。イギリスの森は16~18世紀にほとんど消滅し、現在の森は19世紀以降、人間によって植えられたものである。ドイツの有名なシュバルツバルトの森の大半も、人間によって再生されたものである。
アメリカの森は17世紀以降の移民によって切り開かれ、ワタ、トウモロコシ、タバコなどの大規模栽培が始められた。安田氏は花粉分析の手法により、アメリカの大森林が1620年から1920年までのわずか3百年間にほとんど破壊つくされたことを示した。それはまた森の民、インディアンの滅びとも軌を一にしている。
気候変化の影響により、やむなく稲作を受け入れてからも、日本では森との共生の努力が続けられた。神社にはかならず鎮守の森がもうけられ、また森を食いつぶす家畜の数はきびしく抑えられた。さらに森を美しく保つことで、栄養分が川から海に流れ、漁獲を安定させるという「魚付き林」が維持された。
現在でも、日本の緑被率(森林が国土に占める割合)は67%と、フィンランドの69%に続いて世界第2位である。この狭い国土で、世界有数の人口密度と工業生産を維持しながら、なおもこれだけの森を残していることは、縄文時代からの共生と循環の思想が、今なお我々の精神の基底にあるからとしか考えられない。
西天城高原の空晴れわたりひめしやらの苗人びとと植う
平成11年5月30日の静岡県における全国植樹祭での天皇のお歌である。昭和25年から国土緑化振興のために始められたこの催しも、すでに50回目となった。ヒメシヤラは当地の周辺の森に自生する代表的な樹木で、高木となる。静岡県では、「山村に住む人だけでなく、都市に住む人達とともにみんなで植え、育てる」森づくりを啓発に努め、この日は1万2千人もの人々が参加した。美しい国土作りを通じた人々との連帯感がうかがわれる御歌である。[5]
自然との循環と共生を大切にする縄文の心は、このような形で現代の我々にも脈々と受け継がれている。自然収奪型文明により破壊されつつある地球を救うのは、このような心である。
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