>歴史をふりかえると、この「核兵器を積んだアメリカ艦船の寄港」についての、半世 紀以上におよぶ国会での明白な虚偽答弁こそ、その後、自民党の首相や大臣、そして官僚たちが平然と国会でウソをつき、さらにはそのことにまったく精神的な苦痛や抵抗を感じなくなっていった最大の原因だといえるでしょう。
アメリカによる支配はなぜつづくのか?
第二次大戦のあと、日本と同じくアメリカとの軍事同盟のもとで主権を失っていたドイツやイタリア、台湾、フィリピン、タイ、パキスタン、多くの中南米諸国、そしていま、ついに韓国までもがそのくびきから脱し、正常な主権国家への道を歩み始めているにもかかわらず、日本の「戦後」だけがいつまでも続く理由とは?
10万部を突破したベストセラー『知ってはいけない』の著者が、「戦後日本の“最後の謎”」に挑む!
本記事では、〈日本とアメリカ間の「あまりにも異常な密約」…日本の「戦後」だけがいつまでも続く「ヤバすぎる理由」〉にひきつづき、「日本とアメリカの埋め難い密約観の違いがもたらす深刻な亀裂」についてくわしくみていきます。
※本記事は2018年に刊行された矢部宏治『知ってはいけない2 日本の主権はこうして失われた』から抜粋・編集したものです。
核兵器の「持ち込み疑惑」
その「深刻な亀裂」が、まさにメリメリと音をたて、大きな口をあけたのが、いまから半世紀以上前の1963年4月のことでした。
そしてそのとき日本の外務大臣と駐日アメリカ大使の間で姿を現した亀裂は、その後もずっと修復されることがなく、半世紀たった現在に至るまで、日本の外交とさらには国家のシステムそのものに、大きなダメージを与えつづけているのです。
少し詳しく説明していきましょう。
当時の日本の外務大臣は、まだ53歳と若かった大平正芳でした。
若い方たちはもうあまりご存じないかもしれませんが、彼は有名な田中角栄元首相の盟友として知られた政治家で、池田勇人内閣で官房長官を務めたのを皮切りに、二度の外務大臣と、通産大臣、大蔵大臣などを歴任し、最後は首相にまで登りつめた自民党・保守本流の超大物だった人物です。敬虔なクリスチャンであり、また政界きっての読書家としても知られるインテリでもありました。
一方、駐日アメリカ大使は、エドウィン・O・ライシャワー。ハーバード大学教授の有名な東洋史研究者で、日本生まれ。明治の元勲・松方正義の孫、ハル夫人と再婚したことでも知られる“日本人からもっとも愛されたアメリカ大使”でした。
ところが人柄も知力も申し分ないはずのそのふたりが、春の日のアメリカ大使公邸の朝食の席で、日米間の「深刻な亀裂」に直面することになったのです。その亀裂の正体とは、当時日本の国会で大きな問題となっていた「アメリカ艦船による日本への核兵器の持ち込み疑惑」でした。
秘密の取り決め
そもそもの始まりは、この年の1月のことでした。ライシャワー大使が日本政府に対し、米軍の新型原子力潜水艦「ノーチラス」の日本への寄港を正式に要請したことをきっかけに、日本の港に入港しているアメリカ艦船のなかに、核兵器を積んでいる船があるのではないかという疑惑が国会で大きな問題となったのです。
この騒ぎがなぜそこまで大きくなったかというと、その理由は3年前(1960年)、 岸政権のもとで行われた安保改定にありました。
そのとき「対等な日米新時代」のまさに象徴として、日本に配備される米軍の重大な軍事上の変更については、日本政府が事前に相談を受けるという「事前協議制度」が新設されており、新安保条約の付属文書(*1)で合意されていたのです。
それは当時日本国内で、占領時代となにひとつ変わらず傍若無人に行動していた米軍の動きに歯止めをかけ、失われていた国家主権を回復するための、安保改定の最大のセールス・ポイントだったのです。
深刻な認識の違い
ですからこの1963年に大問題となった、核兵器の持ち込み疑惑に関する野党の追及に対し、池田首相は、
「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港を認めない」(3月6日・参院予算委員会)、
志賀健次郎防衛庁長官は、
「〔アメリカの艦船が〕日本の港に寄港する場合においては、核兵器は絶対に持ち込ん では相ならぬ、かように〔=そのように〕固い約束をいたしておる」(3月2日・衆院予算委員会)
と国会で述べて、どちらもその事実を明確に否定しました。
ところが実際には、核兵器を積んだアメリカの艦船は、すでにその10年前の1953年から、ずっと途切れることなく横須賀や佐世保に寄港しつづけていたのです。それもただの寄港ではなく、補給をしたあと日本海や東シナ海、フィリピン海域へ展開し、そこからたとえば爆撃機で平壌を核攻撃する演習などを行っていました。(*2)
それなのになぜ、それほど深刻な認識の違いが起きていたのか。
実は安保改定時に新設された事前協議制度には、正式に結ばれたオモテの取り決めのほかに、ウラ側で合意された「秘密の取り決め」があったのです(→『知ってはいけない2』第二章)。
1960年1月6日、つまり新安保条約がワシントンで調印される(同1月19日)約二週間前に、当時の藤山愛一郎外務大臣が東京の外務省本省で、マッカーサー駐日大使とその文書にサインしていました。
その密約文書によって、核兵器を積んだ米軍の艦船が日本の港に寄港することは、すでに了承済みだとアメリカ政府は考えていたのです。
そのため池田首相たちの発言を問題視したラスク国務長官は、ケネディ大統領も出席した重要会議でこの問題を検討し、その結果、ライシャワー大使が大平外務大臣に直接会って説明をすることになったのです。
*
(*1)通称「岸・ハーター交換公文」。正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約〔=新安保条約〕第六条の実施に関する交換公文」
(*2)『「核兵器使用計画」を読み解く』(新原昭治 新日本出版社)
大平外務大臣とライシャワー大使
アメリカ側の記録によれば(*3)、1963年4月4日、ライシャワーは大平をアメリカ大使公邸での朝食会に招き、話を始めます。
たしかにアメリカは日本政府に対し、事前協議なしには核を持ち込まないと3年前の安保改定で約束している。しかし、問題はその「持ち込む(イントロデュース)」という言葉の意味だ。これは日本の陸上基地のなかに核兵器を常時配備するという意味であり、その点については日米で合意があったはずなのだが、と。
その後の展開は、おおむね次のようなものでした。
「ライシャワーの説明を聞いた大平は
「つまり、「イントロデュース」は艦上の核には当てはまらないんだね」
と尋ねた。ライシャワーが肯定すると
「これまでは厳密な意味で使っていなかったが、今後はそうする」
と約束した。
ライシャワーはさらに、〔19〕60年1月6日、ダグラス・マッカーサー二世と藤山愛一郎が署名した「討論記録」(*4)〔という名の密約文書=本書では「討議の記録」と表記〕を取り出して、大平に示した。大平は〔このとき〕討論記録の存在を初めて知らされたが、驚いた様子を見せなかったという。
最後にもう一度、記録に目をやると
「池田〔首相〕にも伝える。問題はないだろう」
と言った。(略)
密約はこうして引き継がれた」(『「共犯」の同盟史― 日米密約と自民党政権』豊田祐基子岩波書店)
大平の娘婿で、長く第一秘書をつとめた元大蔵官僚の森田一氏によれば、このライシャワーとの会見直後から大平は、車のなかなどでよく目を閉じて、
「イントロダクション〔持ち込み〕、イントロダクション〔持ち込み〕……」
と小声でつぶやきながら、なにかを考えこむようになったといいます(『心の一燈 回想の大平正芳』第一法規)。
*
(*3)このライシャワー駐日大使からラスク国務長官への報告書については、日本共産党のHPで翻訳が公開されてい
ます。http://www.jcp.or.jp/seisaku/gaiko_anpo/2000323_kaku_mituyaku_2.html
その原資料については、次のサイトを参照。https://nsarchive2.gwu.edu//nukevault/ebb291/doc03.pdf
(*4)原文は“RECORD OF DISCUSSION”。(その全文は ページ以下に掲載してあります)
何度言っても伝わらない(笑)
それにしても、いったいどうしてこんなことが起きてしまうのでしょう。
1960年に岸政権が結んだ重大な密約が、わずか3年後、同じ自民党の池田政権の外務大臣(大平)に、もう引き継がれていないのです。さらに大平が「今後はそう認識する」といった密約の内容が、やはり次の佐藤政権にも伝わっていなかったのです。
というのも、ライシャワーが翌年(1964年)の9月、外務大臣の職を去って間もない大平に会って確認したところ、彼は後任の外務大臣である椎名(悦三郎)に対して、やはり密約の内容を伝えていないようだった。
そのためライシャワーは同年12月、池田に代わって首相になったばかりの佐藤栄作を官邸に訪ね、やはり同じ密約についての説明をしたのだそうです。
そのとき説明を聞いた佐藤がなにも反論してこなかったので、この時点でアメリカ政府は、日本政府が密約の内容を了承したものと考えていました。
ところがそれから4年たって(1968年)、ライシャワーの次に駐日大使になったアレクシス・ジョンソンが、やはり牛場信彦・外務事務次官と東郷文彦・アメリカ局長(どちらも戦後の外務省を代表する超エリート外務官僚です)に対してそれまでの経緯を説明し、 密約の内容についての確認を求めたところ、牛場と東郷は、1963年4月の一回目の大平・ライシャワー会談については外務省に記録があるとしながらも、大平がアメリカ側の解釈に同意したことは認めませんでした。
さらに、アメリカ側の主張にある二度目の大平・ライシャワー会談(1964年9月) と、佐藤首相への密約の説明(同年12月)については、外務省内を探しても、どこにも 記録が見当たらなかったとしたのです(東郷文彦「装備の重要な変更に関する事前協議の件」 /外務省「報告対象文書1 5」ほか)。
明白なウソをつきつづけた日本政府
ここまで読んでいただいただけで、この問題をめぐる日米間の外交が、いかに混乱したドタバタ劇のような状況にあったかが、よくおわかりいただけたと思います。
しかし、いちばん重要なのはこのあとの話なのです。
結局、二度の「大平・ライシャワー会談」のあとも、「佐藤・ライシャワー会談」の あとも、さらには牛場や東郷が密約文書について、アメリカ側からはっきりその解釈を伝えられたあとも、日本政府は、
「核兵器を積んだアメリカ艦船の寄港は事前協議の対象であり、日本に無断で寄港することはない。したがってこれまで一度も寄港したことはない」
という解釈を変えず、国会でも同じ答弁をつづけました。それが明らかなウソであることを知ったあとも、ずっと同じ立場をとりつづけたのです。
日本政府はその後、現在まで、この明らかなウソを一度も訂正していません。
広く知られているように、アメリカの核戦略の基本は1958年以降、核兵器があるかないかを「肯定も否定もしない」(Neither confirm nor deny)という「NCND政策」にあります。(*5)
ですから日本に寄港する船だけが核兵器を積んでいないとアメリカ政府が保証することなど、絶対にありえないと世界中が知っているのです。
それにもかかわらず、日本政府はずっと国会で、
「事前協議がない以上、核兵器を積んだアメリカの艦船が日本に寄港することは絶対にない」
という百パーセントのウソをつきつづけたのでした。
歴史をふりかえると、この「核兵器を積んだアメリカ艦船の寄港」についての、半世 紀以上におよぶ国会での明白な虚偽答弁こそ、その後、自民党の首相や大臣、そして官僚たちが平然と国会でウソをつき、さらにはそのことにまったく精神的な苦痛や抵抗を感じなくなっていった最大の原因だといえるでしょう。
(*5)その後、アメリカは一九九一年の政策変更(「ブッシュ・イニシアティブ」)により、翌一九九二年以降は核兵器の 艦船への配備を、原子力潜水艦に搭載するSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)以外は中止したとしています。け れどもあくまでそれは「平時」の話であって、米軍が必要と判断したときは、空母や戦闘爆撃機によって、いつで も日本国内に核兵器を持ち込める態勢を維持しつづけています
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さらに連載記事〈なぜ日本だけが「まともな主権国家」になれないのか…アメリカとの「3つの密約」に隠された戦後日本の「最後の謎」〉では、日本が「主権国家」になれない「戦後日本」という国の本当の姿について解説しています。
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本記事の抜粋元『知ってはいけない2 日本の主権はこうして失われた』では、核密約をめぐる日本政府のもっとも重要な報告書がじつは改ざんされていたという驚くべき事実について、資料とともに解説されています。ぜひ、お手に取ってみてください。
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