伝統的な我が国の教育では、『論語』を生き方のお手本としてきた。「私心」を去る事で動物脳を抑制し、「公」のための志を持つ事で、人間脳を発達させ、艱難、すなわちストレスを活力源に変える生き方を説いてきた。
孔子が説いてきた生き方は立派な社会を作ると共に、健康で活力に満ちた脳を育てる道である事を、篠浦氏の研究は示しつつある。
現代の脳科学は、『論語』が活き活きとした脳を育てる事を示しつつある。
『論語』が元気な脳を育てる
■1.生き方が脳の健康に影響?
脳外科医の篠浦伸禎(しのうら・のぶさだ)さんの所に認知症の治療で通っていた患者がいた。[1,p174]
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その方は会社の社長さんでしたが、時代の変化に伴って業績が下がり、そのストレスによって認知症になってしまいました。奥さんに元気なときの行き方についてお話をうかがってみたところ、次のようなことがわかりました。
子供の頃に戦争を体験したため貧しい中から這い上がろうとする向上心が強かったこと、自分のことしか考えない傾向があったこと、他人受けはよかったが面倒な仕事になると他人任せにすることが多かったこと、本はほとんど読まないこと・・・など。
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残念ながら、この患者の認知症は治療の糸口もみつけられないまま進行してしまったという。
この患者と対照的な一例として、篠浦さんが挙げているのが、渋沢栄一である。90余歳の長い人生の中で、明治・大正期の近代国家建設のために第一国立銀行、日本鉄道会社、日本郵船会社など企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献した。幼少期から学んだ『論語』を指針とし、80歳近くになっても『論語と算盤』などの著書を著して、道徳と経済を一致させる必要を説いた。[a]
本を読まず、自分のことしか考えない傾向があった社長は、認知症になった。一方、幼少期から『論語』に学び、世のため人のために尽くした渋沢栄一は、90余年の長い人生を活き活きと過ごした。
どう生きるか、という姿勢が、実は脳の健康にも大きく影響しているのかもしれない、というのが脳外科医としての篠浦さんの研究テーマである。
■2.「私」の動物脳、「公」の人間脳
篠浦氏の著書[1]には、脳のいろいろな部位の説明があるが、その中で特に示唆に富むのは「動物脳」と「人間脳」の部分である。篠浦氏は次のように説明している。[1,p31]
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次に脳を上下に分けてみます。脳の中心下方には大脳辺縁系という動物的な本能、保身にかかわる脳があります。これを便宜上「動物脳」と呼びます。
一方、大脳辺縁系の上方・外側には大脳新皮質という進化の過程で新しくできた脳があります。人間はこの大脳新皮質が他の動物に比べてより発達しているため、これを便宜上「人間脳」と呼びます。
・・・動物脳は本能的に自分の身を守る働きをしています。この動物脳は自分の身を第一に考えるという点で、人間学的にいうと「私」、『論語』でいえば「小人」的なあり方として表される行動にかかわります。
一方の人間脳は、組織を作ったり技術を進歩させたりすることにかかわります。動物脳に対して人間脳は外に目を向けて全体を考えるという点で、人間学的にいうと「公」、『論語』でいえば「大人」的な態度にかかわる脳ということができそうです。
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冒頭の認知症になってしまった会社社長は、自分のことしか考えない傾向があった、というから、「私」の動物脳中心の生き方をしていたのだろう。逆に、世のため人のために尽くした渋沢栄一は「公」の人間脳をよく使っていたと言えそうだ。
■3.動物脳中心の小人の生き方
『論語』で小人の生き方として戒められている項目は、動物脳による保身本能から説明できる。
たとえば学而篇で出てくる「巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すく)なし仁」。「言葉巧みに、表情を取り繕っている人には仁が少ない」という意味である。
篠浦氏はいろいろな人と接するうち、「巧言令色は動物脳が主体になって自分かわいさのあまり出るものだ。そのような人は仁のない人間であり、信用してはいけない」と痛感するようになったという。[1,p99]
子路篇の「君子は泰(ゆたか)にして驕(おご)らず」は、「立派な人物は、ゆったりとして驕ったところがない」という意味で、逆に小人ほど驕り高ぶるとされている。これを篠浦氏は次のように解説している。[1,p104]
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驕りほど進歩を阻害するものはありません。それは、動物が自分より弱いものを見ると威嚇して大きく見せようとしているのと全く同じで、動物脳が脳の主役となって働いている証拠です。
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動物脳中心に保身本能で生きている人は、自分より強い人に対しては巧言令色でゴマを摺り、弱い者に対しては驕り高ぶって見せる。どちらも小人の生き方である。
■4.動物脳が阻む「仁・義・礼・智・信」
篠浦氏によれば、『論語』の中心思想である「仁・義・礼・智・信」の一つ一つが、動物脳との関係で説明できる。[1,p138]
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たとえば、「仁」は相手を思いやる心ですが、動物脳が主体で自分の保身のみ考えると結果的に相手を思いやる心の余裕は生まれず、相手を利用することばかり考えるようになります。
「義」は正義(=弱い者を助ける)ですが、動物脳が主体になると正義どころか私腹を肥やすほうにばかり頭を使うようになります。
「礼」は相手に敬意を払う態度ですが、動物脳が主体になると弱い者に対して傲慢にふるまいがちです。
「智」は知識を得ることですが、動物脳が主体になると、年をとったり、あるいは自分の得にならないと思ったことに対して、知ろうとする意欲が失せていきます。
「信」は信用ですが、動物脳が主体になると自分の利益のみを考え、相手に利用価値がないと判断すると離れてしまうため、結果的に信用を失います。
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こうして見ると、『論語』の「仁・義・礼・智・信」とは、動物脳を抑制して、人間脳中心の生き方をすることで実現しうる徳目と言える。
■5.暴走する動物脳
冒頭で紹介した社長は、動物脳主体による自己中心的な生き方をしていたのだが、会社の業績が下がるにつれて、そのストレスで認知症になってしまった。このメカニズムは、脳科学である程度、解明されている。[1,p31]
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脳内ではストレス(敵)がかかると側頭葉の内側にある扁桃体という神経細胞からノルアドレナリンという神経伝達物質が分泌されています。すると動物脳は、それに応じて攻撃・待避行動をとります。
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この動物脳は、自分の生存が危うくなると暴走する性格があるという。[1,p132]
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ストレスがあると、人間は眠れなくなったり、頭痛、吐き気、ふらつき、息苦しさなどの症状を起こします。症状が重くなるとパニックになることもあります。その原因は・・・、動物脳(たとえばその中の扁桃体)が過剰に反応しているのです。
動物脳が過剰に反応すると自律神経がバランスを崩し、さまざまな症状が出現して、まともな活動ができなくなります。頑張って活動しようと思う人間脳に反して、動物脳が逃げる方向に暴走してしまうわけです。
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この社長さんの動物脳は、会社の業績降下というストレスに過剰に反応して、自律神経のバランスを崩し、ついには認知症に逃げ込んでしまったのだろう。
動物脳がストレスに過剰に反応することで、神経症やうつ病の原因となる。また外に出て行く元気をなくして、家に引きこもってしまうのは、動物脳が逃げに入っているからと考えられる。逆に学校や家庭で暴力を振るうのは、動物脳が保身のために攻撃に出るからであろう。
こう考えると、現代日本の会社や学校で神経症、うつ、引きこもり、暴力などの症状が目立っているのは、動物脳主体に自己中心的に生きている人が増え、様々なストレスに動物脳が耐えられずに暴走しているからだと言えよう。
■6.動物脳の暴走を抑えるには
ストレスによる動物脳の暴走を抑えるには、どうしたら良いのか。ここでも『論語』は重要な示唆を与えている。
「君子固より窮す。小人窮すれば、斯(ここ)に濫(みだ)る」
小人は窮地に陥れば取り乱す。君子も当然、窮地に陥ることがあるが、小人のように取り乱したりしない。この差はどこから来るのか。篠浦氏はこう解説している。[1,p141]
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・・・困難から逃げてパニックになると、脳の血流が落ち、頭が真っ白になって、正常な判断力を失い、窮地を脱することが困難になります。
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窮地に陥って、自分の身がどうなるのだろう、と自分のことだけ考えていると、動物脳が暴走して、正常な判断力を失う。これが「小人窮すれば、斯(ここ)に濫(みだ)る」ということである。
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自分のことで思い悩んでいても、自分がやったことで人に喜んでもらうとふっと気が楽になるのは、動物脳から離れたためです。そういう余裕が生まれると、強いストレスを感じる緊急事態でも動物脳の暴走をくいとめやすくなり、ストレスを乗り越える原動力になります。
不安感というものは、その場から逃げなければ脳の活性化につながるのです。
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君子は自分の保身より「公」を考えようとする。その姿勢が、動物脳の暴走を止め、人間脳を働かせる。人間脳はストレスを「乗り越えるべき課題」と捉えて、逆に活性化する。
同じくストレスを受けても、認知症になった社長さんと、90歳過ぎまで活き活きと社会に貢献した渋沢栄一の違いは、「私」のために生きるのか、「公」のために生きるのか、という姿勢の違いにあったのである。
■7.楽をしたがる動物脳
動物脳は身の危険を感じると暴走するが、逆に自己満足すると、楽をしよう、休もうとする。そのため、動物脳を主体にして生きている人は、ある程度の生活水準に達すると、そこで満足してしまい、向上心がなくなってしまう。
動物脳と人間脳の間に帯状回という部位がある。楽をしたがり、逃げたがる動物脳をコントロールする、人間脳のエンジンとでも言うべき働きをする。
この帯状回の機能が低下すると、楽をしたがる動物脳を制御できず、認知症(アルツハイマー)になる。逆に、人間が何かに夢中になると、帯状回が活発に働き、人間脳と動物脳が一体になって脳全体が活性化する。
「憤(いきどお)りを発して食を忘れ、楽しみを以って憂いを忘れ、老いの将に至らんとする知らざるのみと」
(学問に発憤して食事を忘れ、向上を楽しみとして憂いを忘れ、老いが忍び寄っていることさえ気づかないほどです)
『論語』学而篇のこの一節は、まさに帯状回が活性化して、学問や仕事に打ち込んでいる人間の姿を現している。
人間が「私」のためだけに生きていると、ある程度の冨や名声を得れば、自己満足してしまう。ところが、「公」のために生きている人には、「もう満足」という状態はありえない。渋沢栄一が企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献し、80代後半になっても、まだ著述を続けていたのが良い例である。
「公」のために、仕事や学問に打ち込む事が、脳の活性化、老化防止につながるのである。
■8.元気な人間脳を育てるために
篠浦氏の本を読むと、現代日本で自殺や校内・家庭内暴力、引きこもり、メンタルなどが目立ってきた理由がよく分かる。それは「公」のために生きるという姿勢を、戦後教育が否定し、その結果、人間脳が未発達なまま、ストレスを受けては動物脳が暴走する「小人」を作ってきたからであろう。
伝統的な我が国の教育では、『論語』を生き方のお手本としてきた。「私心」を去る事で動物脳を抑制し、「公」のための志を持つ事で、人間脳を発達させ、艱難、すなわちストレスを活力源に変える生き方を説いてきた。
孔子が説いてきた生き方は立派な社会を作ると共に、健康で活力に満ちた脳を育てる道である事を、篠浦氏の研究は示しつつある。
本講座では近年、幼児・児童教育でも『論語』が見直されつつある状況を紹介した[b,c,d]が、それによって、健康で活力にあふれた人間脳を持つ日本人が輩出される事を期待したい。
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