歴史教科書は、事実を記述していません。江戸時代の鎖国政策とは何だったのか?
キリシタン禁制が日本の植民地化と宗教戦争を防いだという事実を紹介す記事です。
キリスト教宣教師を尖兵として世界を植民地化しようとする西洋諸国に、日本はいかに対峙したか。
歴史教科書読み比べ ヨーロッパとの出会い
■1.「ポルトガルとスペインの世界分割」
16世紀にイスラム文化の影響によって天文学や地理学が発達し、羅針盤や帆船の技術が進むと、大西洋に面したスペインとポルトガルが競って海外に乗り出した。その様子を育鵬社版の中学歴史教科書は次のように記述する。
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ポルトガルとスペインの世界分割 ポルトガルとスペインは,軍隊や商人,宣教師をアジアの諸地域と南北アメリカ大陸に送り,キリスト教を広めるとともに武力で多く国々や地域を征服しました。両国はローマ教皇の仲立ちで勢力範囲を定め(2),それぞれの地域の支配力を強めていきました。[1, p103]
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同じ頁の世界地図上には「植民地分界線」が引かれ、ブラジルより東、アフリカ、インド、東南アジアを含めて朝鮮まではポルトガル領、残りの日本から太平洋、北米大陸、ブラジルを除く南米大陸はスペイン領とされている。上記の文中の(2)に関しては、欄外で次のような注釈が施されている。
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(2) 1494年、トルデシリャス条約が結ばれた。西半球を東西に分ける線が引かれ,線の東で発見されるものはポルトガルに,西で発見されるものはスペインに帰属するとされた。16世紀には同様の分界線が東半球にも引かれた。[1, p103]
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この「植民地分界線」は両国の世界分割の野望を示している。現代でも南米では、ブラジルのみポルトガル語で、他の国々はスペイン語を話しているのも、この「植民地分界線」の結果である。
一方、東京書籍版(東書版)では同様の世界地図に「ポルトガル領」と「スペイン領」を分ける境界線が引かれているが、トルデシリャス条約の説明がないため、その意味が分からない。
■2.スペインによるアメリカの植民地化
育鵬社版の世界地図では、現代のメキシコあたりにアステカ王国、ペルーあたりにインカ帝国が示され、それぞれスペイン人のコルテスとピサロによって滅ぼされた事が書き添えられている。スペイン人の南北米大陸侵略に関しては、本文で次のように説明されている。
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スペインは,南北アメリカ大陸の独自の文明をほろぼして大半を植民地とし,大量の金銀をヨーロッパに運び,繁栄を築きました。鉱山の採掘やサトウキビ栽培に奴隷として使われた中南米の先住民は,きびしい労働やヨーロッパから入ってきた病気で人口が激減しました。[1, p103]
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この部分については、東書版の方がやや詳しい。
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アメリカの植民地化 アメリカ大陸にわたったスペイン人は、先住民の文明を武力でほろぼした後、銀の鉱山を開発し、農園を開いてさとうきびなどを栽培しました。・・・
こうしてアメリカ大陸は, ヨーロッパの植民地になりました。アメリカの先住民が伝染病や厳しい労働で激減し,労働力が足りなくなると、ヨーロッパ人は大西洋の三角貿易を始め、アフリカの人々を奴隷としてアメリカ大陸に連れていきました。[2, p103]
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そして、欄外で「大西洋の三角貿易」として、ヨーロッパからアフリカに武器や雑貨を輸出し、アフリカからアメリカに奴隷を送り、アメリカから銀や砂糖をヨーロッパにもたらす、という仕組みが図解されている。さらに「奴隷がつめこまれた船」の図もあり、スペイン人の世界規模の植民地支配がよく分かるように説明されている。
この点では、育鵬社版は三角貿易の説明がないため、同じ奴隷船の図は掲載していても、なぜ奴隷が運ばれているのか、が理解できない。世界を勝手に2分する「植民地分界線」と「大西洋の三角貿易」は西洋諸国の植民地主義を理解させる大切なポイントなので、この両方を掲載する必要があると考える。
■3.プロテスタントとカトリックの「はげしい対立や戦争」
スペインやポルトガルというカトリックの国々が積極的に海外に進出した背景には、欧州での宗教改革があった。育鵬社版はこう説明する。
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プロテスタント(新教)の動きに危機感をもったローマ教会(カトリック・旧教)は,ヨーロッパで失った勢力を取りもどすためイエズス会を結成し,海外への布教を進めました。16~17世紀にかけて,ヨーロッパではプロテスタントとカトリックのあいだにはげしい対立や戦争がくり広げられました。[1, p106]
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東書版は、この点をこう述べる。
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カトリック教会も,プロテスタントに対抗して改革を始めました。その中心になったイエズス会は,ザビエルなどの宣教師を派遣してアジアへの布教も行いました。[2, p101]
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東書版にはプロテスタントとカトリックの間の「はげしい対立や戦争」の記述がなく、両派で平和的な改革が競われたかのような記述になっている。
しかし、フランスでのユグノー戦争(1562-1598年)では推定死者200-400万人、ドイツの三十年戦争(1618-1648年)では同300-1150万人などの史実を知れば、育鵬社版の記述すら生ぬるいほどだ。こういう「はげしい対立や戦争」を踏まえなければ、日本にやってきたキリスト教勢力の正体が分からない。
また、日本に宣教師を送り込んできたイエズス会の性格も、東書版では「プロテスタントに対抗して始めた改革」の中心となって、「アジアへの布教」を始めたとなっているが、育鵬社版では「ヨーロッパで失った勢力を取りもどすため」「海外への布教」としている。
宣教師が先導役となってメキシコやフィリピンを植民地化し、さらに日本やシナの植民地化を狙っていた点[a]を踏まえれば、育鵬社版の記述の方が史実に近い。
■4.「宣教師の見た日本」
こうして、1543年に種子島に流れ着いた「中国人の倭寇の船」(東書版)に乗っていたポルトガル人が鉄砲を伝え、1549年にはイエズス会の宣教師ザビエルが日本にやってきた。
これらの記述で両教科書の記述はあまり差がないが、育鵬社版では「宣教師の見た日本」という半ページ近くのコラムで、次のような記述がなされている。
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ザビエルの日本布教は2年ほどでしたが, 日本人との出会いは驚きに満ちたものだったようです。とりわけ彼を感心させたのは日本人の旺盛な知識欲でした。彼は,手紙に次のように記しています。
「彼らの大部分は読み書きを知っており,すぐ祈りの言葉を覚える」
「日本人よりすぐれている人々を異教徒の中に見つけることはできない。彼らは親しみやすく,善良であり、そして何より名誉を重んじる。人々の多くは貧しいがそれを不名誉とは思っていない」・・・
宣教師たちは,貧しくとも誇り高く理性的な日本人の国民性に,布教の成功を予感したのではないでしょうか。[1, p107]
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確かに、ザビエルは日本での布教の成功を期待したのだが、残念ながら「理性的な日本人」は、キリスト教の中に潜む不合理性を見過ごさなかった。たとえば、デウスが全能というなら、どうして今まで日本人には啓示を与えなかったのか、デウスを礼拝しないと地獄に堕ちるというなら、我々の先祖に啓示も与えずに地獄に落とすのは無慈悲ではないか、と言うのである。[b]
日本でのキリスト教信者は30万人にもなったというが、逆にいえば、わが国がメキシコやフィリッピンのようなキリスト教国にならなかったのはなぜか、というのは、わが国の歴史を学ぶ上で重要な質問である。中学生のクラスで生徒たちに議論させたら面白いだろう。
■5.信長の「我一生の不覚也」
この質問につながるのが、秀吉の「バテレン追放令」である。東書版ではこう説明されている。
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【宣教師の追放】信長は,仏教勢力には厳しい態度をとる一方、キリスト教の宣教師は優遇しました。それに対し秀吉は、九州の大名を従えた後、長崎がイエズス会に寄進されていることを知り、日本は「神国」であるとして宣教師の国外追放を命じました(バテレン追放令)。キリスト教の布教が、スペインやポルトガルの軍事力と結び付いていることが危険だと考えたためです。
しかし、宣教師の一部は日本にとどまって布教活動を続けており、また、秀吉が直接支配することになった長崎では南蛮貿易がさかんだったため、キリスト教徒は増加していきました。[2, p107]
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育鵬社版は同じ項目を次のように書いている。
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キリスト教の禁止 キリスト教の布教を認めていた秀吉も、長崎の土地がキリシタン大名からイエズス会に寄進されていることを知ると、1587(天正15)年、バテレン追放令により宣教師の国外追放を命じ、キリスト教を禁止しました。
イエズス会による布教が、ポルトガルやスペインの植民地化と密接につながっていることを危険とみたためでした。しかし、貿易船の来航は従来通りとしたため、取りしまりは十分な成果をあげませんでした。[1, p111]
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東書版の「信長はキリスト教宣教師を優遇したが、秀吉は国外追放を命じた」という一文は不正確である。
肥前西部(長崎県)の大名・大村純忠は宣教師コエリヨの言に従って、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放を強行した。さらに寄進された長崎は、大砲・鉄砲などにより武装され、軍艦も建造配備されて、軍事要塞化されていたのである。
全国統一をめざす信長が、こんな危険を見逃すはずはなかった。今まで宣教師たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らした[c]。そしてヨーロッパを凌駕する性能と数量の鉄砲を量産し、大砲を備えた鉄製軍艦まで建造した。それを見た宣教師は驚いて、「征服が可能な国土ではない」とフィリピンを統治していたスペイン提督に書き送っている[d]。
■6.「日本の仏教を破壊するけしからんことをしている」
後に九州を平定した秀吉は、キリシタン大名たちの「神社や寺を破壊している」様を現地で見て激怒し、「バテレン追放令」を出したのである。育鵬社版では「バテレン追放令」の原文の一部を引用している。
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一、日本は神国であるから、キリシタンの国から悪い教えを受けるのは非常によくない。
一、キリシタン大名が領民に布教して信者とし、彼らを動かして神社や寺を破壊しているという。このようなことは前代未聞のことである。・・・
一、バテレンは、その知識によって信者を増やしていると思っていたが、日本の仏教を破壊するけしからんことをしている。よって、二十日以内に日本を退去せよ。・・・
一、ポルトガル・スペイン船は商売目的の船なので、今後も来航して、いろいろと売買をしてよい。[1, p111]
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東書版は神社や寺の破壊に触れず、「長崎がイエズス会に寄進されていることを知り、日本は『神国』であるとして宣教師の国外追放を命じました」と書く。これではまるで秀吉は「神国」の土地を異教徒が所有したのを怒る「狂信的な神国主義者」のようだ。
お寺や神社を破壊したのは、まさにヨーロッパでカトリックとプロテスタントが数百万人も殺し合った一神教の攻撃性なのである。秀吉の言う「神国」とは、八百万の神々が仏様をも包摂して仲良く共存する神々の国であった。多神教徒にとっては当たり前の近代的な「信仰の自由」をキリスト教徒はまだ発見していなかった。
さらに東書版では秀吉が「貿易船の来航」は許した点を書かない。この政教分離も欧州がまだ知らない近代的政策であった。
■7.キリシタン禁制が防いだ植民地化と宗教戦争
歴史に「IF」は禁物と言うが、ある政策がとられなかったら、その後どうなっていたかを考える事で、その政策の歴史的意義を明らかにすることができる。
もし信長、秀吉、そして徳川幕府に継承されるキリシタン禁制がなかったら、日本が辿ったかもしれない一つの道は、メキシコやフィリピンのように完全にキリスト教化されて伝統文化は根絶やしにされ、植民地化されて徹底的な収奪を受けていたという道である。
もう一つの道は、ヨーロッパ諸国が経験したような大規模な宗教戦争である。キリスト教と仏教・神道が戦いあって、数百万人規模の死者が出ただろう。このどちらの道も避けたという点で、キリシタン禁制は日本人の叡知を示している。
こう考えると、植民地分割線、欧州の宗教戦争、日本でのキリシタンの蛮行を描かず、あたかも神国思想に凝り固まった秀吉がバテレン追放令を出したかのように描いている東書版の記述は、歴史の真実を伝えていない事が分かる。
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