日本人自身が日本の美術は「特殊」であり、外国人が感動するほどの「普遍性」はないという、一種の「文化的自虐史観」に囚われているようだ。
日本美術の傑作を鑑賞することで、我々の先祖が持っていた美を感ずる心を継承することができる。
歴史教科書読み比べ(番外編) 「世界的にも傑出した名作群」を生み出した鎌倉時代
■1.「日本の美の形」
育鵬社の中学歴史教科書で目を引くのは、冒頭に「日本の美の形」と題して、縄文時代の火焔型土器から現代の太陽の塔まで、6頁にわたって各時代の代表的な美術作品を数点づつ、カラーで紹介している点である。[1, p1-6]
こういうビジュアルな企画で、中学生が日本の美術に親しめるようにしようというのは、「著作関係者」の中に美術史の大家・田中英道・東北大学名誉教授が入っているからだろう。
田中氏は西洋美術史家として海外でも注目され、著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』[2]はイタリア語版、浩瀚な『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』[3]は英語版も出され、国際美術史学会の副会長まで務められた。本誌でも著書『国民の芸術』を紹介している。[a]
こういう大家が中学生向けに日本美術史を分かりやすく示すというのは何とも贅沢な企画なのだが、明治時代の小学唱歌も当時一流の音楽家たちが匿名で作曲していたように、明日の日本を背負う国民を育てるのは国家の最重要事業なのだから、このくらい教育に力を入れるのは本来のあるべき姿だとも言える。
対する東京書籍版(以下、東書版)[4]では、同様の形式で「日本の国宝・重要文化財」として、それほど有名でないものまで含めて19点を2頁にわたって、とりとめもなく並べているが、育鵬社版の各時代の傑作群を選りすぐって絵巻物のように紹介した迫力とは比べるべくもない。
■2.「金剛力士像などの力強い彫刻作品」
田中氏は、白鳳時代を「世界の美術史上、もっとも豊かな彫刻美術を生みだした時期のひとつ」[3, p88]とし、東大寺大仏などの傑作を続々と生み出した国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)を「世界三大巨匠の一人」と評価している。これについては[a]で述べたので、本稿では、その影響を受けて「世界的にも傑出した名作群」[3, p226]を生み出した鎌倉時代を見てみたい。
東書版は「鎌倉時代の文化と宗教」の中で、「新古今和歌集」「平家物語」「徒然草」などに触れた後、美術については次の一節があるのみである。
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源平の争乱の中で平氏に焼かれた束大寺は,貴族や武士だけではなく民衆からの寄付も集めて建て直されました。南大門などには,宋から新しい建築様式が取り入れられ,運慶が金剛力士像などの力強い彫刻作品を制作しました。東大寺再建の影響を受けて,鎌倉でも同様に,寄付によって大仏が造られました。[4, p74]
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一方、育鵬社版の記述は、はるかに詳細である。
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平氏によって焼かれた東大寺は,皇族や貴族武士や民衆などの寄付によって再建され,東大寺の南大門には,奈良時代の彫刻の影響を受けた運慶や快慶らの手により,力強い動きを表す金剛力士像がつくられました。また,運慶は,無著(むちゃく)・世親(せしん)像などの写実性にすぐれた傑作も生み出しました。
絵画では,似絵(にせえ)という肖像画がえがかれました。伝源頼朝像や伝平重盛像は気品に満ちており、大燈国師(だいとうこくし)像や夢窓国師(むそうこくし)像など,禅僧の肖像画もその高い人格を伝えています。絵巻物でも,「平治物絵巻」などのすぐれた作品がつくられました。[1, p77]
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育鵬社版では「皇族や貴族武士や民衆などの寄付」となっているが、東書版では「貴族や武士だけではなく民衆からの寄付」としている。しっかり「皇族」を抜き、「民衆」をやけに強調しているところが東書版らしい。
また南大門について「宋から新しい建築様式が取り入れられ」と、例のごとく近隣諸国の文化的影響をすかさず記す。これも事実であるが、この短い一節の中で、わざわざ言及するほどの事だろうか。
一方、育鵬社版は「奈良時代の彫刻の影響を受けた運慶や快慶ら」と、わが国の美術の伝統を指摘する。鎌倉時代が「世界的にも傑出した名作群」を生み出した日本美術史上のピークの一つである事を踏まえれば、どちらの記述が妥当であるか明白だろう。
■3.「プロポーションも細部も自然さを欠いた出来」
両教科書とも、東大寺南大門とその金剛力士像をカラー写真で紹介している。しかし、この像は、田中氏に次のように評されている。
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・・・二つの『仁王像』はプロポーションも細部も自然さを欠いた出来なのである。胴体に比して腕や脚が太すぎるし、体に比して頭が大きすぎる。・・・大きさで圧倒しようとしているとはいえ、筋肉描写が写実の妙を尽くしているどころか、類型的表現に過ぎず、生き生きした印象など感じられないのである。[3, p237]
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確かに、異様に太い腕や足、大きな厳(いか)つい顔で、中学生ならアニメ『ドラゴンボール』の敵役かのように受けとめてしまうかも知れない。ただ、容貌は不自然でも、相手に待ったをかけるような手の動き、身体の重心を傾けた姿勢は自然であり、育鵬社版の「力強い動きを表す金剛力士像」という表現は精密である。
東書版では登場しないが、育鵬社版冒頭の「日本の美のかたち」では、興福寺の金剛力士像も紹介されている。この像を『日本美術全史』は、こう評している。
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この作品が重要なのは、何よりもその裸体像の卓越した表現である。これまでの力士像が写実性に乏しかったり甲冑で肉体を省略していたのに対し、初めて芸術的な肉体像を作り出したと言うことが出来るであろう。
・・・西洋人により、日本人の彫刻家たちは、解剖学も知らぬ幼稚な表現力しか持たぬ、と思われてきたものである。日本の美術史家たちも、その暖昧な肉体表現に慣れきってしまい、何も評言を加えてこなかった。しかしこの『金剛力士像』はそれを真っ向から否定し、単に解剖学的な知識以上の、写実的な男性像の力動感を生み出したのである。
・・・力動感は、その腰衣の動きによるところが大きく、体の方向と逆に動くことによって、強められている。[3, p245]
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この解説を読んだ後で、二組の『金剛力士』像を比べて見れば、その違いは明白に感じとれる。興福寺の像は均整のとれた身体に鍛え上げた筋肉を備え、腰衣の靡く様が身体の力強い動きを感じさせる。ドラゴンボールの不自然な力強さとは大違いだ。
西洋での男性裸体像として有名なのはミケランジェロの『ダビデ』像だが、それを美しいと感じとることができる人は、西洋人だろうと日本人だろうと、この『金剛力士』像の「写実的な男性像の力動感」を感じとることができるだろう。
美を感じとる力は、文化や人種を超えて人類に普遍的なものである。そういう普遍的な美的感受性を日本の中学生の心中に発達させるためにも、両教科書の作品選択の違いは重大である。
■4.『無著』像-『思想家としての内面性と一般の人間の感情』
『無著』像は育鵬社版では本文で言及され、カラー写真でも取り上げられているが、東書版では言及もされていない。この作品について、田中氏はこう評している。
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『無著』『世親』像の、思想家としての内面性と一般の人間の感情を備えた二人の姿は、東西古今の肖像でも、わずかに天平の『鑑真像』が匹敵出来る傑作である。[3, p237]
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涙を湛えたような目、悲しみをこらえた口元、何とかしてやりたいのに、何もできないような悲しみと苦しみを秘めている。やや伏し目がちに見下ろしているのは、どんな光景なのだろうか? そういう想像が、中学生の心にも、人間の感情を思わせるきっかけとなり、ひいては美を感ずる心を育てて行くだろう。
『無著像』の表情を、ミケランジェロの最高傑作『サン・ピエトロのピエタ像』でイエスの遺骸を抱く聖母マリアの透明な悲しみの表情と比べて見るのも良い経験になるだろう。東西二つの傑作を通じて、彫像がいかに人間の内面性と感情を表現できるか、を体感することができよう。
■5.『伝源頼朝』は「世界の肖像画史上でも出色の作品」
もう一つ、絵画分野の傑作も見ておこう。東書版では言及されていないが、育鵬社版では本文と冒頭の「日本の美の形」で紹介されている神護寺仙洞院の三肖像画の一つ、『伝源頼朝』である。
『日本美術全史』では「彫刻において世界的に見ても最も優れた彫刻家たちを輩出した実り多き時代にあって」「彫刻だけ栄えることはない」として、この三肖像画を冒頭に挙げている。
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この『伝源頼朝』『平重盛』、そして『藤原光能』はその気品ある顔の表現と、形態の見事な単純化によって世界の肖像画史上でも出色の作品となった。束帯の強装束(こわそうぞく)姿は、肩から真っすぐな斜線で下りる袖への線が、まるでキュビスム(JOG注:ピカソなどの立体派)の幾何学性を思わせ、顔との見事な対比を示している。
やや横向きの顔の角度が、その幾何学性の単調さを救い、三次元性を与えている。『源頼朝』の顔はよく見ると団子鼻であるし唇もかなり厚い。しかしそれが写実性となって、その意志的な表情に真実味を与えている。[3, p276]
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坐った姿全体を見ると、衣服が単純化された直線で描かれていて抽象画のようだが、その顔を子細に見ると、口髭、顎髭や鬢の生え際までが精密に描かれ、団子鼻と腫れぼったいまぶた、分厚い唇はかならずしも美男ではないが、強い意思を秘めた気品を感じさせる。
実は、東書版でも、この像は「3.鎌倉幕府の成立と執権政治」の項で掲載されている[4, p70]。しかし、美術作品としての説明はなく、人物紹介の一部として用いられているのみ、これが「世界の肖像画史上でも出色の作品」とは気づかないのである。
■6.『モナリザ』との比較
肖像画として名高いレオナルド・ダ・ビンチの『モナリザ』と見比べてみるのも、中学生への教育効果はあるだろう。『モナリザ』に関して、田中氏は著書『レオナルド・ダ・ビンチ』の中で、次のように形容している。
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彼女は額がひろく、そこには頭蓋骨の輪郭までかすかに感じられ、しかも垂直に落ちこんでいるようだ。眼と眼のあいだも細めで、鼻梁の線もまっすぐであり、鼻自身もやや下ぶくれである。その眼と口もとを除いたら、彼女はうつくしい女性と感じられぬかもしれない。すでに若々しい女性ではなく、その出口にいる女性の落着いた聡明な像という印象をあたえるのである。[3, p250]
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肖像画は個人を描くだけに、当然、容姿や表情に個性が出る。しかし、その個性を通じて、男性の「強い意思を秘めた気品」や成熟した女性の「聡明さ」を伝えるというのも、優れた肖像画の力である事が分かるだろう。
■7.「文化的自虐史観」
中学生が鎌倉時代の歴史を勉強するのに、こうした世界的に見ても優れた傑作群も知らずに通りすぎてしまうのは、何とももったいない事だ。それも東書版の執筆陣が、日本美術の真価を認識していないからだろう。
これは世界の美術専門家も持つ偏見であり、これと戦って来たのが田中氏なのである。氏は、『日本美術全史』の「はじめに 世界の中の日本美術」で、まず西洋の美術史家がほとんど日本美術を無視してきた様を指摘した後で、こう述べている。
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私はこうした記述に日本人であるから不満を述べているのではない。これまで私のささやかではあるが西洋美術研究の結果として、この無視に近い態度が決して正当ではない、と考えるからこそ指摘するのである。[3, p20]
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そして、西洋美術史家の「無視に近い態度」の原因は、彼らの不勉強や西洋中心主義ではなく、「日本文化の紹介は活発になされている。しかしそこには『普遍性』に対する留意が足りないようなのだ」と指摘している。
日本人自身が日本の美術は「特殊」であり、外国人が感動するほどの「普遍性」はないという、一種の「文化的自虐史観」に囚われているようだ。
■8.我が先人たちの美を感じる心を受け継ぐ
本編では、意識的に鎌倉時代の傑作を西洋美術の傑作と並べて紹介した。日本人が西洋美術に心動かす事ができるなら、西洋人が日本美術に心動かすこともできるはずだ。それが美を感じる心の普遍性である。
実際に『伝平重盛像』はフランスの駐日大使アンドレ・マルローによってヨーロッパで紹介されて高い評価を受け、ルーブル美術館で展示されたこともある。日本美術にはそのような普遍性を持った傑作群が少なくない、と田中氏は主張しているのである。
中学の歴史授業で、先生方が『日本美術全史』を頼りに、育鵬社版冒頭の「日本の美の形」に紹介された各時代の傑作群を説明すれば、中学生たちもそれらをじっくり鑑賞して、我が先人たちの美を感じる心を受け継ぐ事ができよう。これこそ最も高級な意味での歴史教育ではないか。
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