
JOG(1454) 「聖帝」仁徳天皇は恐妻家?
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国柄探訪: 「聖帝」仁徳天皇は恐妻家?
世界最大の墳墓に祀られた「聖帝」仁徳天皇が強情な皇后に振り回される姿が、『日本書紀』には克明に描かれている。
■1.世界最大の墳墓に祀られた仁徳天皇は恐妻家だった?
伊勢: 花子ちゃん、大阪府堺市にある「仁徳天皇陵」、教科書では「大仙古墳」と呼ばれている最大の古墳については習ったかな?
花子: 面積では、世界最大の墳墓だって習いましたけど、どのくらい大きいんですか?
伊勢: 最近出た寺田恵子先生(元学習院女子大学講師)の『日本書紀 全現代語訳+解説 <4>巨大古墳の時代』では、こう書かれている。
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近年の試算では、仁徳天皇陵は、古代工法では延べ六百万人余りの人員で約十五年の歳月がかかったといわれます。その大きさは、全長四八五メートル、前方部の幅は三〇二メートル、総面積四六・四ヘクタールで、二重の周濠(堀)を持ち、周囲には十三の陪塚(大型の古墳に付随する小型の古墳)を有する、日本最大の古墳です。
これほどの墳墓は、世界的に見ても多くはありません。そこには、多くの人材、資材、技術が必要であり、統一王権としての大きな力が確かに存在したと考えられるのです。[寺田、p102]
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花子: すごいですね! それだけ強大な力を持った天皇だったんですね。
伊勢: ところが、この仁徳天皇、どうやら恐妻家だったらしいんだ。
花子: えっ! これほど強大な統一王権の天皇が恐妻家って、どういうことですか?
■2.「民の竈(かまど)」に煙が立っていない!
伊勢: その話は後にして、まず仁徳天皇の人柄を見ておこう。名前の通り、「仁」すなわちおもいやりと、「徳」すなわち人格に優れた方だった。よく知られているのは、「民の竈(かまど)」の話だ。ある日、天皇は群臣に詔して、こう仰せられた。
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私は高殿に登って遠くまで眺めたが、国の中に煙が立っていない。もしや百姓(おおみたから)はたいへん貧しく、家に飯を炊く者もいないのではないか。[寺田、p37]
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花子: 百姓を「おおみたから」と呼んでいるんですね。
伊勢: そうだね。ここでも、民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、神武天皇の「おおみたからを鎮むべし」の祈りが継承されていることが分かる。そして天皇は、「今後三年の間、すべての課役を免除して、百姓の苦しみを止(とど)めよ」と仰せられた。
花子: それで、天皇ご自身はどうされたんですか?
伊勢: 衣服や履き物は使えるうちは決して新調されず、屋根が壊れても直すこともなかった。風雨が建物の中に入ったほどだ。三年の後、天皇が高殿から遠くを眺めると、煙が多く立ち上っていた。
花子: 民の生活が良くなったんですね!
伊勢: そうだ。天皇は、「私はすっかり豊かになった」と言われた。すると皇后は「皇居は壊れ、衣服や寝具は濡れています。これでどうして豊かと仰せられるのでしょうか」と申し上げた。天皇はこう答えられた。
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天が君主を立てるのは民のためである。それならば君主は民を第一とするものなのだ。だからこそ、いにしえの聖王は、民がただ一人でも飢え凍えていれば、自らを顧みて責めた。民が貧しいということは私が貧しいということだ。民が豊かであれば私が豊かであるということだ。民が豊かで君主が貧しいということは、いまだかってないのである。[寺田,p38]
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花子: 素晴らしいお考えですね。それで皇居は修理されたんですか?
伊勢: この後、諸国から「豊かになったので、皇居を修理させてほしい」と願ってきたが、天皇はさらに3年、お許しにならなかった。その後、皇居の造営を許されると、
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人々は命ぜられるまでもなく、老人を助け幼い子を連れて、資材を運び、もっこを背負い、昼夜を問わず力を尽くして競って建造した。こうして、さほどの時間もかからずに皇居はすべて完成した。このため今、仁徳天皇を称えて「聖帝」と申し上げるのである。[寺田、p42]
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伊勢: 世界最大の墳墓、仁徳天皇陵が造られたのも、人々が天皇に感謝し、また崩御の後も、神となって天上に上がられた仁徳天皇にこの世をお守りいただきたい、という願いが込められているのではないかな?
■3.大阪平野の田畑を広げた大規模治水工事
伊勢:「民の竈」の話は天皇統治を美化するためにでっちあげられた話」などと考える左巻きの人々もいるけど、仁徳天皇の民に対する「仁」と「徳」は、この話に留まらない。日本書紀には、当時の大阪平野が低湿地帯で、淀川がよく氾濫を起こして、田畑もつくれなかったのを、仁徳天皇が日本で最初の大規模な治水工事を行い、田畑を増やして人々の生活を安定させた治績が語られている。
花子: どんな工事をされたんですか?
伊勢: 淀川の氾濫をふせぐための「茨田(まむた)の堤」、大和川の水を大阪湾に流すための「難波の堀江」、また何カ所も溜め池を造られた。本当に民のことを第一に考えられた天皇だったんだ。こうした現実に残っている遺構を見れば、天皇の「仁」と「徳」が、人々の生活を守ったということは疑えない史実だね。
もう一つ「古墳は民を奴隷のように酷使してつくられた」という説もあるが、体積では世界最大の墳墓、始皇帝陵は、中国最初の統一王朝・秦の始皇帝が阿房宮や万里の長城の原形とともに造らせたもので、人民は過重な負担に耐えかねて、広範な反乱を起こし、秦はわずか15年で滅んでしまう。
それに比べれば、我が国では第16代仁徳天皇陵だけではなく、第15代応神天皇陵425m、第17代履中天皇陵365mと巨大古墳が切れ目なく続いている。墳丘長が200mを超える古墳が35基、100m以上のものに至っては302基もある。我が国全体では、大小含め16万基近くにもなる。人民を奴隷としてつくらせたという説では、この数と規模は説明できない。
やはり民が、祀られる天皇を慕い、しかもそれで自分たちの子孫もお守りいただけると思えばこそ、これだけの古墳がつくられたのだろう。
■4.皇位を譲った異母弟の遺言
伊勢: さて、いよいよ「仁徳天皇は恐妻家?」という話題に入ろう。仁徳天皇の即位の際に、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)という異母弟がいた。先代の応神天皇はこの菟道稚郎子を皇太子と定めていたが、菟道稚郎子は皇位を兄の仁徳天皇に譲ろうと即位されなかった。
花子: 仁徳天皇はどうされたんですか?
伊勢: 仁徳天皇も、先代の皇太子指名を重んじて、即位されなかった。この譲り合いで、3年の間、空位が続いた。そこで菟道稚郎子は自ら死を選んで、皇位を仁徳天皇に譲ったんだ。
花子: 悲しいお話ですね…
伊勢: 菟道稚郎子は自死の際に、自分の妹の八田皇女(やたのひめみこ)を妻としてください、と言い残していた。後に、仁徳天皇はこの遺言を守るために八田皇女を娶ろうとした。その時、仁徳天皇は、すでに皇后になっていた磐之媛(いわのひめ)に「八田皇女を召し入れて妃(みめ)としたい」と言われたが、皇后は許されなかった。
花子: やっぱり!
伊勢: 仁徳天皇は、何度も歌を皇后に送って、許可を求めるが、磐之媛はいっこうに聞き入れない。寺田先生は次のように、補足説明をする。
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天皇が何度も皇后に歌で許可を求めているのは、それだけの権限が皇后にあったからでしょう。過去にもそのような事例は記されています(本シリーズ〈二〉の狭穂姫(さほひめ)など)。この点は、中国など他のアジア諸国と日本の違うところとされ、日本古代の皇后にはそういった権限があったことも指摘されています。[寺田、p55]
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花子: じゃあ、仁徳天皇が恐妻家というより…
伊勢: そう。仁徳天皇が恐妻家というよりは、日本の皇后にはそれだけの強い権限があり、誠実な仁徳天皇はその伝統を守った、ということだね。
しかし、このドラマには別の視点もある。仁徳天皇が送った歌では、「そなたの予備の妻として、並べ置きたいだけなのだよ」とか、「あなたが泣くようなことになっても連れがあれば良いだろう」などと言って、一生懸命、説得しようとしている。
花子: 何か、天皇の勝手な言い分で、これでは皇后は納得しないのでは?
伊勢: そう、寺田先生も「何やら男性側の理屈のようで、皇后の気持ちを理解していないようでもありますね」と書いている。
花子: 「聖帝」と呼ばれた仁徳天皇も、家庭ではいろいろ弱点も悩みもある普通の人間だったのですね。なんだかウチの父みたいです。そういうところを包み隠さず描いている『日本書紀』に親しみを感じます。こういうところを読めば『日本書紀』が「天皇統治を美化するための架空の物語」などとはとても言えないことが分かります。
■5.皇后の強情ぶりの陰にあった事情
花子: その後はどうなったんですか?
伊勢: 皇后が仁徳天皇の願いを聞き入れないまま、8年が過ぎた。その頃、皇后が紀の国に御綱葉(みつなかしわ)を取りにいった。御綱葉は神への供え物を盛ったり、宴席での盃に使うんだ。皇后のその不在の間に、仁徳天皇は八田皇女を娶って入内させた。
花子: えっ! 皇后がいない間に!?
伊勢: それを知った皇后は、大変に怒って、御綱葉を海に投げ捨て、難波の港に出迎えた天皇をすっぽかして、郷里に近い現在の京田辺市のあたりに、引き込んでしまう。
花子: 天皇はどうされたんですか?
伊勢: 天皇はそこにも自身で行かれて、皇后を連れ戻そうとしたが、皇后は天皇に会うことすら拒否した。天皇はあきらめて、一人皇居に戻った。
しかし、皇后の強情ぶりには事情があって、寺田先生はこう説明している。磐之媛は大豪族・葛城氏の出だが、皇女ではない。八田皇女は文字通り皇女で、応神天皇の娘。八田皇女が入内して男子を産んだら、磐之媛の4人の皇子より皇位継承の順位が上になってしまうかも知れない。また、出自の葛城氏のことも考えたろう。自分自身の嫉妬だけの問題ではなかったようだ。
花子: そういう事情があったんですね。
伊勢: 仁徳天皇も、このあたりのことを思いやられてか、その翌年に磐之媛の生んだ4人の皇子のうちの長子を皇太子とした。
花子: 優しい天皇ですね。
伊勢: その4年後、磐之媛はその地で薨去された。さらにその3年後、ようやく仁徳天皇は八田皇女を立てて皇后とされた。
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磐之媛は、皇居にいらっしゃらなくても薨去されるまで皇后の地位にあったことがわかります。ここには日本古代の「皇后」が終身の地位であったことも語られているように思われます。[寺田、p69]
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花子: 皇后って、それほど大切にされていたのですね。
■6.『万葉集』相聞歌(恋愛)の冒頭におかれた磐之媛の歌
伊勢: そうなんだ。ところで、実は、この磐之媛の歌が、『万葉集』巻二相聞(恋愛)の冒頭に収められている。それが日本書紀に見る磐之媛とは全く違った人物像となっているんだ。
花子: どんな歌なんですか?
伊勢: 連作4首の冒頭の1首だけを見ておくと、次のような歌だ。
君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
(あなたの外出は 日数長くなりました 山に分け入りお迎えに参りましょうか それともただひたすらにお待ちしましようか)
花子: あれ? 天皇を心から慕う歌ですね。日本書紀に描かれた強情な磐之媛とは印象が全然違います!
伊勢: そうだろう。『万葉集』のこの歌の注記には、日本書紀に描かれた、上記の磐之媛の強情ぶりが引用されている。明らかに、後の世の歌人が事情を知りながらも、磐之媛に仮託して作った歌とされている。
そこで歌われた磐之媛は、このようにせつなく夫を待ち焦がれる女性として描いている。実際に、磐之媛の強情な嫉妬の陰には、このような天皇への思いがあったのではないかな。
花子: 万葉人たちは、磐之媛の気持ちを理解してあげようとしたん
ですね。
伊勢: そうだ。伊藤博先生の『萬葉集釋注』にはこう書かれている。
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いちずに綿々と男を思慕する女の姿が切実に描かれるこの四首は、おそらくは主として宮廷の女性たちに提供され、いたくもてはやされたのであろう。四首を享受した人びとは、これをあの磐姫皇后(伊勢注: 磐之媛)の一面と信じて感に耽(ひた)ったのであり、そこに、女心の模範を汲み取って心酔したことでもあろう。[伊藤、3240]
その身に仮託された名作が『万葉集』巻二「相聞」の冒頭に飾られることによって、磐姫皇后の魂は万代ののちまでも安らかに鎮まることになった。[伊藤、3251]
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花子: 素敵なお話ですね。
伊勢: これも我が祖先たちの女性に対する優しさのあらわれではないかな? 天皇が好きな女性を召し入れるのに皇后の許可がいるとか、皇后が別居状態でも終身、皇后の地位についていた、などと合わせて、我が国では古代から女性は大切にされていた、と思うんだ。
花子: 本当ですね。日本の昔の人たちは、女性の気持ちを大切にしていたんですね。



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