
物理学者が問題提起 「相対性理論」はアインシュタインの独創か?
ポアンカレはなぜ生涯許さなかったのか

アインシュタインといえば相対性理論。だが、その理論の「独創性」に重大な疑義があるとしたら──?
ブルーバックス話題の新刊『いやでも物理が面白くなる〈新版〉』著者、志村史夫氏による貴重な問題提起をお届けしよう。
参考文献が存在しない?
「アインシュタイン」と聞けば誰でも、「(特殊)相対性理論」を思い浮かべるし、「(特殊)相対性理論」といえば「アインシュタイン」を思い浮かべるほど、両者は有名である。
この「(特殊)相対性理論」は、アインシュタイン一人の独創による産物なのだろうか?
後年、アインシュタインを有名にする1905年の「特殊相対性理論」を述べた論文の正式な題名は「動いている物体の電気力学」で、これは「解説」ではない科学論文(原著論文)としては例外的に長い、31ページにも及ぶ大作である。
また、科学論文としてはきわめて稀有なことに、参考文献が一つも挙げられていない。

通常、科学論文、そしてそれ以前の科学的研究というものは、先人たちの研究成果の上に積み上げられるものなので、本当に“無“から生まれたような仕事でないかぎり、参考文献が一つもないというのは、普通はあり得ないことだ。
事実、科学論文の価値を決める一つの指標は、参考にされている論文(先人たちの研究成果)の質と量である。
かのニュートンが「もし仮に、私がほかの人よりも遠くを見渡すことができたとすれば、それは私が巨人たちの肩の上に乗っていたからである」という謙虚な言葉を遺しているが、この“巨人たち”というのは、具体的にはニュートン以前の自然哲学者、科学者であるアリストテレスやコペルニクス、ガリレイ、ブラーエ、ケプラーらを指している。

アインシュタインの「特殊相対性理論」の論文に、参考文献が一つも記されていないということは、それが本当に、アインシュタイン一人の独創の結果だったのだろうか。
結論を先にいえば、その点については「否」である。
アインシュタインの思考がいくら革命的であったにせよ、アインシュタインが先人たちの思考を土台にしていることは当然のことである。アインシュタイン自身、1949年に発表された『自伝ノート』の中で、こう述べている。
ニュートンよ許したまえ、あなたはあなたの時代において最高の思考力と創造力をもった人間に、かろうじて可能であった唯一の道を発見された。あなたの創造された概念は、現在でもなお、われわれの物理学的思考において指導的なものであります。たとえ、今やわれわれが、ものごとの関係をより深く理解しようとするならば、あなたの概念を、何か別の、直接的な経験の領域から遠く離れた概念によって置き換えねばならないということを知っているとしてもです。
(金子務編訳『未知への旅立ち アインシュタイン新自伝ノート』)
アインシュタインが「ニュートンよ許したまえ」といったのは、具体的には「特殊相対性理論」によって、ニュートンの「絶対時間」「絶対空間」を否定したことに対してである。
また、「特殊相対性理論」がマクスウェルの電磁気学を受け継いだものであることは、まぎれもない事実である。
問題は、アインシュタインが述べた「特殊相対性効果」がアインシュタイン自身の独創によって生み出された概念なのか、ということである。
先人たちの影響は明らかだ
じつは、直接的といってもよい大きな影響を及ぼしたであろう、また、アインシュタインが参考にしたであろう、先人たちの仕事がいくつか存在するのだ。
マッハ(1838〜1916)は1883年の著作の中で、ニュートンの「絶対時間」「絶対空間」を批判的に検討している。
アインシュタインが、このマッハの著作に強く引きつけられていたことは、自身が『自伝ノート』の中で繰り返し述べている。マッハの影響は、アインシュタインが「マッハの真の偉大さは、その揺るぎない懐疑心と独立性にある」と述べているように、「絶対時間」「絶対空間」のみならず、広くアインシュタインの思考法そのものにも及んでいた。
また、ポアンカレ(1854〜1912)も、1902年の著作『科学と仮説』の中で「絶対時間」「絶対空間」を否定しているし、さらには「相違なる場面に生じる2個の事象の同時性」についても疑問を投げかけている。

ポアンカレの指摘はまさに「仮説」ではあるが、その中に「時間」というものの本質が明らかにされているのは事実である。実際、アインシュタインの「特殊相対性理論」は、ポアンカレの「仮説」を一つ一つ検証していくように構築されるのである。
何度も繰り返し述べたように、アインシュタインの「特殊相対性理論」の大前提、根幹は「光速不変の原理」であるが、光速不変を検証したのは1887年のマイケルソンとモーレイの実験である。
この実験結果について、アインシュタインは、1922年の日本における講演の中で「マイケルソンの実験の不思議な結果を知り、そしてこれを事実であると承認すれば、おそらくはエーテルに対する地球の運動ということを考えるのは私たちの誤りであろうと直覚するに至りました。つまりこれが私を今日特殊相対性原理と名づけているものに導いた最初の路であった……」(石原純『アインシュタイン講演録』)と述べている。
マイケルソンとモーレイの実験の「光速差が見出せない」という“不思議な結果”に対し、すぐに「物体がエーテルの中で運動すると、エーテルの圧力によって、物体が運動方向に収縮する」という“不思議なこと”をいい出したのはフィッツジェラルド(1851〜1901)だった。
ローレンツ(1853〜1928)はフィッツジェラルドと同じ解釈を優美な数式で記述し、さらに、物体が収縮するだけでなく、エーテルの風によって時間も変化する、という新しい発想を導入した。
この数式が完成したのは1904年であり、それはアインシュタインの「特殊相対性理論」の中に示されている数式とほぼ同じである。
ポアンカレの怒り
このような一連の事実を並べてみると、アインシュタインの「特殊相対性理論」は少なからぬ先人たちの思考や仮説や実験結果と無縁でないことは明らかである。
だからといって、「光速不変」を原理として規定し、エーテルの存在をきっぱりと否定し、“時間の遅れ”や“長さの縮み”を理論的に明らかにし、「特殊相対性理論」という革命的な理論体系を構築したのはアインシュタイン一人なのだから、彼の栄光が減じられることは少しもない。
しかし、アインシュタインが1905年の「特殊相対性理論」の末尾に、友人であったベッソーへの謝辞を掲げるのみで、論文中にマクスウェル、ローレンツの名前は見られるものの、マイケルソンやモーレイ、ポアンカレ、フィッツジェラルドらの文献が引用されていないのは、いささか不可解といわざるを得ない。この点において、アインシュタインは非難されても仕方ないだろう。
また、アインシュタインのこの論文の査読者(私はプランクではないかと想像する)が、そのことを指摘しなかったとすれば、私には、それも不可解である。
ポアンカレは並外れて優れた数学者、物理学者で、おだやかな人柄として知られていたが、自身の論文を引用文献としなかったことに関しては、アインシュタインを生涯許さなかったそうである。
私には、ポアンカレの気持ちがよくわかる。
コメント