
齋藤元彦氏が兵庫県知事に返り咲き…主流派メディアが「デマ」や「憶測」の具体的検証を避けたことへの「大いなる違和感」

齊藤叩きだけ、それ以外は触れないメディア
兵庫県知事選挙で、失職した斎藤元彦前知事が、見事に返り咲きを果たした。
私も「週刊現代」10月26日/11月2日合併号が報じた「ワイドショーではわからない真相レポート 斎藤元彦はなぜあきらめないのか? ただの『パワハラ・おねだり』政治家なら、とっくに辞めているはず。ここまでこじれた背景には、県政の深い闇と仁義なき抗争があった…」にも触発されながら、微力ながら斎藤氏を応援する立場に立ったYouTube動画を配信していたので、今回の結果を大変嬉しく思っている。

ところで、今回の選挙結果について、一般にメディアはどういう扱いをしているだろうか。兵庫県のローカル局のサンテレビは「キャッチプラス 兵庫県スペシャル」の中で、「ネット上では様々な根拠のないデマや憶測、誹謗中傷が飛び交いました。こうした状況を受けて、今月14日には、県内の29の市のうち22市長で作る市長会有志が稲村さんへの支持を表明するという異例の事態にもなりました」と報じた。
この報道の中で使われている「様々な根拠のないデマや憶測、誹謗中傷」というのは、どういうことを念頭に言っているのだろうか。
市長会有志が声明を発表したのは、誹謗中傷や誤解が広がっていることを懸念し、緊急的な対応として行ったのだとされている。そしてその立場から稲村候補を支持すると表明したことから考えるべきだろう。
この流れからして、斎藤元彦氏を擁護する議論は、根拠のないデマや憶測に基づくものであり、その立場からなされる県議会、百条委員会、マスコミなどに対する厳しい批判は、誹謗中傷なのであるというのが言いたいことの中心にあると見るべきだろう。
あり得ない市長会の特定候補支持
市長会有志がこの声明を発表した記者会見の場においては、デマ、憶測、誹謗中傷が、斎藤陣営を擁護する側からのみ行われているわけではないというような発言を行う市長もいたが、特定の候補を支持するという前提に立ったうえでの発言であり、各陣営を平等に見ているわけではないのは明らかだ。
私はそもそも市長会という立場で特定候補の支持を打ち出すということに、大きな違和感を感じた。
市長会とは県内各市相互の連絡・協調を図る組織にすぎない。斎藤氏が県政のトップに返り咲くのは不適切である、そんなことがあれば県内の各市のあり方まで混乱するということなんだろうが、そうだとしても、特定の候補を支援するというのはありえない動きだ。
斎藤氏だけは支援できないという表明であっても問題があるとは思うが、そこにとどまっているならば、まだ一応理解可能ではある。だが、稲村氏のみを支援すると打ち出したことには、納得できる十分な根拠がないのだ。県知事選挙には、斎藤氏と稲村氏だけが立候補しているわけではなく、他にも5人の方が立候補されていたが、彼ら全員もまた斎藤氏と同様に否定されなければならない根拠が、何かあったのだろうか。
稲村氏という特定候補を支援するということの不自然さに、市長ともあろう人たちが揃って気付かないことに、私はかなり驚いた。
事実確認がおろそかな県民局長の告発
ところがこの不自然さを選挙戦中に指摘する主流派メディアは存在しただろうか。少なくとも私は確認できなかった。
今回の兵庫県知事選挙で最も問題なのは、斎藤元彦氏を擁護する議論は根拠のないデマや憶測に基づくものであるかのように扱いながら、それについての具体的な検証をメディアが一切行わなかったことにある。
亡くなった県民局長のいわゆる告発文が、伝聞と憶測によって作られたものでしかなく、真実性についての慎重な検証がなされたものではないことは、一読すれば明らかだ。
一例として、この告発内容の1つ目について取り上げてみよう。
告発文によると、ひょうご震災記念21世紀研究機構の五百旗頭真理事長が3月6日に亡くなったのは、斎藤知事の命を受けた片山安孝副知事が、同機構の副理事長ふたりの退任を通知したことにショックを受けたのが原因だというものだった。
またこの通告は、「五百旗頭理事長と井戸前知事に対する嫌がらせ以外の何ものでもなく、何の配慮もなく行った五百旗頭理事長への仕打ちがその命を縮めたことは明白だ」としていた。
ところが、文書問題調査特別委員会において、この県民局長は、五百旗頭理事長と井戸前知事に対する嫌がらせ以外の何ものでもないとされたことへの根拠として、井戸前知事の叙勲祝賀会から斎藤知事が公務を理由に途中退席したことを理由として上げ、この公務が途中退席のための理由付けにすぎないと聞いたと話している。
その公務が途中退席のための理由付けにすぎないと判断しうる根拠は具体的には何も示されておらず、しかも「聞いた」とされていることから、単なる伝聞だとしか言えないのは明らかだ。これでもってふたりの退任を通知したことが嫌がらせ以外の何ものでもないと記すことに正当性があるとは、到底言えないだろう。
また、県民局長は、五百旗頭理事長への仕打ちがその命を縮めたことは明白だと記したことは憶測だと、この場で語っている。憶測に留まるならば、明白とは言えないのは明らかだ。
なお、告発文には、この知らせを聞いた翌日に五百旗頭理事長は亡くなったと書かれていたが、実際には伝えてから6日後であった。
この件については日にちについては聞き間違いがあったとの釈明が県民局長からなされているが、これは県民局長が事実確認を極めておろそかにしていたことを明確に示している。
告発文の真実性評価を徹底的に避けるメディア
県民局長は斎藤知事の立場を悪くしようとするポジショントークを優先させて、事実関係の具体的な検証をやらないまま、斎藤知事を貶めるようなことを行っていたと言わざるをえないのだ。
県民局長はこうした告発文を報道機関、兵庫県警等の県庁の外部に対して流した。これは公益通報者保護法においては3号通報というものに該当する可能性は一応ある。
だが、公益通報は対象行為者の信用を失墜させるといった不正の目的のために行われてはいけないし、3号通報の場合には通報内容に真実相当性があることが求められることになる。単なる伝聞等では真実相当性があるとは言えず、3号通報は成立しないのだ。
だから斎藤知事の側がこの告発文を書いたのが誰であるのかの調査を行い、県民局長であると特定し、県民局長に対して事実関係を質したのは、公益通報者保護法に違反する行為には当然当たらない。
にも関わらず、主流派マスコミは、県民局長がその後に同様の文書を県庁内の公益通報窓口に内部告発文書として提出したことをもって、公益通報者保護法違反を斎藤知事の側が犯したかのように報じてきた。そしてこの告発文の真実性について冷静に評価することを主流派マスコミは徹底的に避ける動きに出た。
その一方で告発文の信憑性を疑う議論が展開されると、根拠のないデマや憶測だとの立場からの報道を行ってきた。
斎藤氏の当選が確実とされた後もこの姿勢を変えていないのは、サンテレビの報道からもわかるだろう。これではあまりにもバランスを欠いていると言わざるをえない。
公用PC不倫データ封殺のメディア~では玉木不倫は?
県民局長が女性職員との不倫についてのデータを、兵庫県の業務用のパソコンの中に保存していたことについて、「亡くなった県民局長のプライバシーに関わることだから」という理由付けから一切明らかにしないことにも、全く説得力がないと言わざるをえない。
国民民主党の玉木代表の不倫については、相手の女性の名前、年齢、職業までつまびらかに公開され、この女性の将来にも大きな影響を与えるものとなった。この女性のプライバシーの公開には倫理上の問題は生じないが、県民局長の不倫の事実の公開はなんとしてでもプライバシーの見地から許されないというのは、あまりにもバランスが悪いと言わざるをえない。
元県民局長は10年間に10人の女性職員と関係を持っていたと伝えられているが、この10人の氏名・年齢・所属部署などまで公開しろと、世間が要求しているわけではないだろう。
しかもこれが、県庁の中で人事畑を歩んできた県民局長が、仮に人事データベースを悪用するなど、職務上の立場を利用して関係を迫っていた結果だとしたら、プライバシーなどという問題とは全く言えないことになる。
県民局長が自らを殺めた原因が、マスコミ報道によるように斎藤知事のあり方にあるのか、それとも百条委員会が盛り上がる中でこういうプライバシーが公開される恐れにおののいた結果であるのかは、今回の問題を考えるうえで重要な争点になっていたのは間違いない。
だが、その点をプライバシーにふれるという理由だけで曖昧化させていることに、多くの人達が納得感が持てないのは当然だ。
ところが、こういう視点からの報道は、主流派マスコミのどこも扱ってこなかったし、選挙後もこの点での反省が全く見られないのだ。これが公正な報道だといえるのだろうか。
石丸、高市、国民民主、そしてトランプとの共通性
今回の兵庫県知事選挙をめぐる動きは、アメリカでのトランプ現象を理解するのに大いに役立つものとなる。
アメリカでも主流派メディアは民主党ハリス陣営については好印象を与える報道ばかりを行い、否定的なニュースはすっかり隠すようにしてきた。その一方で共和党トランプ陣営についてはその真逆の報道を行ってきた。
そうしたメディア報道に違和感を覚えた人たちが、ネット言論に触れると、報道されているのとは全く違う話が展開されていることに気が付くことになる。
メディア報道しか接触していなければ、なぜ多くのアメリカ国民が熱狂的にトランプを支持しているのかが全く理解できないだろう。トランプ現象の根底にあるのは、メディア不信なのだ。
今回の兵庫県知事選挙で起こったのと同じことが、アメリカの大統領選挙でも起こっていたと考えれば、話がよくわかるだろう。
メディアが伝えるべき事実をありのままに報じるという本来のあり方を捨て去っていることが、ネット言論の地位を高める結果になっていることに、メディア関係者は気付くべきだ。それは自社メディアの今後の存続を考えても、重要なポイントになる。
ところで、今年になってから、東京都知事選挙における石丸旋風、自民党総裁選挙での高市旋風、衆議院選挙での国民民主党旋風、今回の兵庫県知事選挙での斎藤旋風と、ネット言論に支えられた動きが相次いでいる。
主流派メディアは石丸さんも、高市さんも、国民民主党も、斎藤さんも支援する立場には立たないできた。しかしながらネット空間においてはそれぞれが支持される中で、大きな風が吹き、現実を動かした。
こうした風について、メディアにしても政治家にしても、あまりにも過小評価しているのではないか。
メディアが報じなければ国民はわからないという時代ではなくなってきた。古いやり方で国民意識をコントロールできるという驕り高ぶったマスコミのあり方は、もう終わりにしてもらいたいものだ。
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