「日本人ファースト」報道でTBSが失ったもの──損なわれた“信頼”という資産

現代の日本
「日本人ファースト」報道でTBSが失ったもの──損なわれた“信頼”という資産(遠藤司) - エキスパート - Yahoo!ニュース
7月15日、J-CASTニュースに「『報道特集』に『可及的速やかな検証と訂正』要求の参政党、TBS回答に反発 舞台はBPOへ」と題する記事が掲載された。 12日放送のTBS「報道特集」は、参政党の「

「日本人ファースト」報道でTBSが失ったもの──損なわれた“信頼”という資産

 7月15日、J-CASTニュースに「『報道特集』に『可及的速やかな検証と訂正』要求の参政党、TBS回答に反発 舞台はBPOへ」と題する記事が掲載された。

 12日放送のTBS「報道特集」は、参政党の「日本人ファースト」に関して、外国人排斥の文脈に結びつけて報じた。参政党は、放送の公平性・中立性を著しく欠くとして検証と訂正を申し入れ、TBSは「客観的な問題提起だった」と回答している。しかし参政党は、これを「構成の公正性や取材姿勢の偏りといった本質的な問題点には一切触れていない」と批判し、BPO放送人権委員会への申し立てを行う意向を表明した。

 放送法第4条では、放送事業者が番組を編集する際には「政治的に公平であること」が定められている。ただし、同条は倫理規定に近く、直接的な法的制裁には結びつかないことが多い。とはいえ、特に選挙報道においては、有権者が公正な判断を下せるよう、特定の政党や候補者に一方的な印象を与えない報道姿勢が厳しく求められるのは事実である。仮に報道機関が選挙期間中に特定の政党を貶めるような演出を行い、放送法違反とされれば、総務大臣による行政指導や、極端な場合には業務停止命令などの行政処分の対象となりうる。

 そもそも「日本人ファースト」を掲げるまでもなく、国民全体の幸福を第一に考えるのは、主権国家における政治家の本質的な使命である。国民による選挙で選ばれた代表者は、国民の意思を政治に反映するために議会活動を行う。国益を追求し、国民の生活向上を目指す以上、その対象が「まず自国民」であるのは当然の前提であろう。逆にいえば、「日本人ファースト」をあえて掲げなければならない政治的状況自体に、問題があるのかもしれない。

 このように「日本人ファースト」を排外主義の文脈で報道する姿勢は、公平性を欠くものと受け取られやすい。とはいえ、現実には放送法第4条に基づいて行政処分が下された例はごく限られており、事実上、放送局の自由裁量に委ねられている状況でもある。だが、それが「やりたい放題」を意味するわけではない。なぜならTBSもまた、あくまで民間の営利企業だからである。

オールドメディアの衰退

 テレビが「オールドメディア」と揶揄されるようになって久しい。その要因は、インターネットを中心とした情報の即時化と分散化にある。しかしそれ以上に重大なのは、視聴者がテレビの発信する情報を鵜呑みにしなくなったことである。ここで指摘すべきは、報道倫理や政治的問題以上に、経営上の問題である。つまり、偏向的な報道姿勢が中長期的なブランド価値の毀損につながり、結果として企業の収益をも危うくする。

 視聴者に「公平・中立でない」と感じさせる報道が繰り返されれば、テレビ局は「ある特定の政治的立場の代弁者」とみなされ、信頼を失っていく。特に「報道」という形式を借りて行われた主張には、無意識のうちに「中立だろう」という視聴者の期待が伴う。そこにイデオロギーが織り込まれていれば、それは誘導的な言説と捉えられても仕方がない。

 その結果、視聴者はテレビから離れ、YouTubeやXなどの分散型メディアへと流れていく。確かにそこにはフェイクや陰謀論も多く含まれるが、それでも一部の若年層にとっては、テレビの方がよほど偏っていると感じられているのが現実だ。これはまさしく、信頼という経営資産の流出といえる。

 端的にいえば「神の見えざる手」が働くのだ。これはアダム・スミスの市場調整機能としての意味だけではない。人びとの信頼を損なえば、やがて報いを受けるという、倫理的な因果応報の意味でもある。

 本来、テレビ局などのオールドメディアがもつ最大の無形資産は、報道の信頼性である。視聴者との継続的関係を可能にするこの信頼は、メディア企業の中長期的な収益を支える基盤となってきた。経営学者のチャールズ・フォンブランとセス・ファンリールは、企業の評判とは「その企業がどう振る舞ってきたか、今後どう振る舞うかについて、利害関係者がどれだけ魅力的と感じるかで決まる」と定義している。

 短期的にみれば、テレビ局は広告主の要望を重視する傾向にある。だが実際には、広告は視聴者がいて初めて届く。視聴者が離れてしまえば、広告主も自然と離れるのが現実である。したがって、経営合理性を突き詰めるほどに、視聴者の信頼こそが最大の資本であるという結論に至る。

 ただし、視聴者の感情に迎合することが正解とは限らない。視聴者がメディアに求めているのは、むしろ「冷静で信頼できる判断基準」や「多様な観点からの整理された情報」である。政治的主張や「正義」を語る役目は、むしろ政治家や個人インフルエンサーが担えばよい。

再興の鍵は「思考の余白」

 マクスウェル・マコームズとドナルド・ショーによれば、テレビなどのマスメディアは「何を考えるか」ではなく、「何について考えるか」のアジェンダを設定する機能をもつ。したがって報道機関が行うべきは、偏った答えを与えることではなく、的確な問いを提示し、思考の余白を残すことである。

 情報過多の時代において、視聴者は一次情報へのアクセスよりも、信頼できる編集と解釈に価値を見出している。特に、政治や社会を扱う報道番組には、多角的視点と深掘り分析を求める声が強い。メディアは単なる意見の上書きではなく、視聴者に考える素材を提供する役割を果たすべきである。

 もちろんテレビ業界は、広告収入の減少や制作コストの高騰、人材の流出といった構造的困難を抱えている。しかし、このような困難な局面だからこそ、短期の視聴率獲得やスポンサーの意向の反映ではなく、中長期で儲かる構造への転換が必要である。そのとき経営倫理の学問は、企業が短期的利害を超えて長期の信頼を蓄積し、結果として持続的に利益を確保するための行動原理を提供する。

 経営倫理学者のマイケル・ブラウンとリンダ・トレビーニョは、企業が長期的に成功するためには、倫理的リーダーシップとリスクコミュニケーション能力が不可欠だと述べている。前者は組織の価値観と方向性を率先して体現する能力であり、後者は社会的に敏感な情報に対して的確に対応し、信頼を維持する技術である。

 メディア企業においても、この二つはきわめて重要である。倫理的リーダーシップによって編集方針と企業ミッションの整合性が保たれ、リスクコミュニケーションによって視聴者やスポンサーとの信頼が維持される。いずれが欠けても、報道機関は情報発信体としての地位を脅かされるであろう。

 いま求められているのは、自社の掲げる報道上の正義ではなく、経営として信頼される報道をいかに継続的に提供するかという設計力である。オールドメディアが再び社会に必要とされる存在となるべく、いまこそ根本から見直す好機といえる。

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