日本のきものには、愛・美・礼・和、の4つの叡智があります。
毎日繰り返し行う装いの中で、きものに込められているこの叡智を身につけ、「装道」を追求、実践する中で美しい生き方に触れて、「人の道」を見つけていきたいですね。
きものに込められた我が先祖の叡智を知ろう
きものの叡智 ~ 愛・美・礼・和
■1.法王ヨハネ・パウロ2世ときもの■
1985(昭和60)年、バチカン市国のサン・ピエトロ寺院講堂には、法王ヨハネ・パウロ2世に拝謁するために世界中から8千人の人々が集まっていた。法王が姿を現すと、どよめきが起こり、全員で厳かに祈りを捧げた。
最前列の1番から100番までの席には、和服を着た日本人の一行が座っていた。法王はそれらの人々に向けて、日本語でこう挨拶した。
日本の皆様、よくいらっしゃいました。世界を回って日本の伝統的なきものと、きものの美しさを世界に紹介しておられる装道きもの文化使節団の皆様に、私も心からの挨拶を贈ります。ありがとう。
その後、法王はわざわざ壇上から下りて、使節団の団長・装道きもの学院院長の山中典士氏の手をしっかりと握り、記念のメダルとロザリオを贈った。山中氏は、こうお礼を述べた。
法王様にまじかにお目にかかることができ、また日本語で暖かいお励ましのお言葉をいただき、大変感激しております。この感激を忘れずに、世界平和に役立ちたいと思います。今日は法王様に日本の平和の象徴のきものをお贈りしますので、ぜひお召しいただきたいと存じます。
山中氏がきもの一式を献上し、羽織を広げると、法王はその場で法衣の上から羽織られ、「ありがとう」と何度もお礼を述べ、使節団一人ひとりの手を堅く握られた。この異例の光景に、8千人の観衆は期せずしてどよめき、拍手が湧き上がった。[1,p193]
■2.「こんなに美しい衣服が地上には存在するのですね」■
昭和45(1970)年に第一回の「装道礼法きもの文化使節」を香港・マカオに送って以来、毎年100名から150名の使節団が海外に派遣されてきた。これまで訪問した国は100カ国に達し、87都市で「きものパレード」、67会場で「装道講演ときものショー」を行っている。参加者は出発から帰国まで、きもので通す。
使節団に参加した若い女性は、次のような感想を語っている。
どんなに豪華なものを身につけても、ドレス姿では欧米の女性には気おくれしてしまいます。プロポーションが違いますから。でも、きものを着ると、最高級ホテルでもレストランでも、格式の高いパーティーの席でも、自信を持って胸を張っていられます。[1,p199]
男性も同様で、袴(はかま)をつければ、腰が据わり、腰板がついているので、背筋も自然に伸びる。外国人から見れば、立派なサムライに見える。
別の若い女性は、こんな感想を漏らしている。
きものは、世界のどんな国の人が見ても、美しく魅力的なのだということがわかりました。私たち日本の女性には、きものという外国人に向かって誇るべきものがあるのですね。私はこれから、洋服を着ているときも、心にきものを装わせることにします。そうすれば、どんな人にも引け目やコンプレックスを感じずに、胸を張ってつきあっていけると思います。
「きものは、世界のどんな国の人が見ても、美しく魅力的なのだ」とは、使節団からきものを贈られた人々の感想が証明している。スペインのソフィア妃殿下は、贈られたきものを着て、こんな実感の籠もったメッセージを寄せた。
美しい。美しいというしかありません。こんなに美しい衣服が地上には存在するのですね。
■3.愛と美と礼と和の四つの叡智■
この使節団訪問とともに行われるのが、山中氏による装道講演である。山中氏は国連本部からの招請を受けて、1980(昭和55)年に「きものと日本の精神文化」、その2年後に「世界を包むきものの愛」と題した講演も行っている。
装道講演は、まず歴訪の目的から語り始める。
世界は今、物質文明、科学技術文明が進歩し、人間生活が大変便利に、豊かに、快適になりました。人類は今、宇宙までも征服しようとしています。しかし、世界各地では、宗教や民族の違いによる憎しみなどで、殺戮が繰り返されています。また、自然破壊や環境汚染で、地球が危機に瀕しているといわれていますが、これは、人間が本来持っている優しい愛の心や、美しく生きようとする美の心、周囲
の人を尊敬する礼の心、皆と仲良くしようとする和の心を現代文明によって失ってしまったからだと思います。・・・
私は、この日本のきものの中に、現代人が失った、人間の理想である愛と美と礼と和の四つの叡智が込められていることを発見しました。今日は皆様方にそれをお目にかけてご理解いただきたいと思います。[1,p201]
■4.きものに込められた愛の智慧■
この後で、反物を持った5人のモデルが舞台に登場する。幅38センチ、長さ約13メートルの反物を広げて見せて、これがきものの原型であることを紹介する。その布はあらかじめ裁断され、マジックテープでつないである。
テープをはずして、それぞれの布を身ごろ、袖、襟などとしてモデルの身体にかけて糸で留めていくと、きものの形がほぼできあがる。
数十年前まではこの布を織り上げるにも愛の心を込め、さらにこれを妻は夫のため、母はわが子のために、一針一針に愛の心を込めて縫い上げたのです。そうすることで、きものは深い愛の心が込められていくのです。
ついで、きものから糸を引き抜き、マジックテープでつなぐと、また元の反物に戻る。観客は驚いて、一斉に拍手を送る。
洋服は身体にフィットさせるために曲線裁ちをして、余った部分は捨ててしまうが、きものは直線裁ちで、余った部分は端を折って調整する(「端折る」から「はしょる」という俗語となった)ので、元の反物に戻せるのである。
このように、きものはすべて直線裁ちのため、何度も仕立て直し、デザインの染め替えができるのです。ですからきものは、親から子、子から孫へと、代々引き継がれてゆきます。そしてさらに、手さげ鞄、風呂敷、装飾品、掛け軸、布団、座布団、子供の遊具、雑巾など最後までリサイクルできるのです。
これが、地球環境を守る愛の智慧なのです。また、きものが引き継がれるときには、愛の心を伴った役目も果たしています。実際、私の着ている黒紋付きのこのきものは、約百年前、父が結婚式の折りに仕立てたものを兄が着て、さらに母が私の寸法に合わせて仕立て直ししてくれたものです。このきものを着ると、父の導き、母の愛をひしひしと感じます。[1,p203]
■5.美の智慧■
次に山中氏は、きものに込められた美の智慧について語る。
洋服は、着る前にデザインが完成されるのに対して、きものは、着る人が着るときにデザインを完成させるのです。ですから、一枚のきものは、着る人によって優雅にも無粋にも装われます。また、きものはプロポーションを見せる表現をしないのが特長です。ですから、きものを美しく装うことは芸術であり、教養や品性や感性という心の美の表現になるのです。[1,p206]
西洋のイブニング・ドレスの場合は、着る人はデザイナーがデザインしたドレスを身につけるだけで、選択の余地は少ない。それに対して、きものの場合は、その下に着て襟元や袖口を見せる長襦袢、そして帯、履き物、バッグまたは巾着など、着る人自身で、さまざまなコーディネートができる。
また、イブニング・ドレスは身体の線がそのまま出てしまう。若いスタイルの良い女性にはそれで良いだろうが、お年を召した女性、恰幅のよくなった女性にはまことに気の毒である。
それに対して、きものは身体の線を見せない。したがって、若い女性はあでやかさなきもの、中高年女性はしっとりとした落ち着いたきもの、というように、年齢や個性に合った美しさを表現することができる。
まさに、自分に合ったきものを選び、装うことは、それ自体が芸術であり、「教養や品性や感性という心の美」の表現なのである。
■6.礼の智慧■
第三は、礼の智慧である。
日本には、昔から、襟を正す、折り目正しく、つつましく、袖振り合うも他生の縁、辻褄が合う、躾をする、などの礼を表現する言葉があります。これらはすべて、きものから生まれた礼を表現する言葉で、謙虚な心を表し、相手に対する尊敬を表しています。きものは先に述べたように、肉体をすっぽりと包みますから、つつましい謙虚な心を育むのです。だからこそ以前の日本人は、自己主張を避け、相手を尊敬する礼儀作法の習慣を身につけたのです。[1,p207]
「つつましい」の語源は「包む」と同じで、むき出しの心を包んで覆う意味である。辻褄の「辻」は「縫い目が十文字に合うところ」、「褄(つま)」は「長着の裾の両端の部分」で、合うべき部分が合わないことを「辻褄があわない」という。「躾」とは仕立てが正確にできるように、「仕付け糸」で仮縫いをすることから来ている。
きものを作り、着こなす技術は、日本人に礼の智慧を教えてきたのである。
■7.立ち居振る舞いの礼■
さらに、山中氏はきものを着たときの立ち居振る舞いを「装道礼法」として教えている。その一部を紹介しよう。[1,p53]
美しい姿勢
頭まっすぐ、顎(あご)引いて
視線は遠く、水平に
背筋伸ばして、胸を張り
両腕真横に、指先そろえ
おなかを引いて、両足そろえ
天地と我と一直線
美しい立ち方
上体ゆらさず、腰うかせ
爪先たてて、左右の踵(きびす)はなさずに
左足より、半足すすめ
上体おしあげ、起ちながら
左足後ろに引いて、そろえつつ
すうっと静かに、直立姿勢
このような気品ある立ち居振る舞いは、自らの姿勢を正すと
共に、相手に対する礼の心を育てる。
■8.人と自然の和、人と人との和■
最後に、山中氏はきものに込められた「和」の智慧を語る。[1,p209]
日本は、春夏秋冬の美しい四季に恵まれています。昔はきものを装う場合に、装う季節の自然の紋様を選んで装いました。そこで、きものを装うことが、自然と調和する心を育んできたのです。季節ごとの花鳥風月をきものの絵画模様に取り入れてきました。これが自然と調和して生きる智慧なのです。
また、不思議なことに、きものを着ると女性は女性らしさを、男性は男性らしさを、男女それぞれの特質を発揮し、平等の立場で調和していきます。きものは、人と人とを結び、調和させていく、すばらしい智慧の衣服なのです。
まさに、きものは、人と自然の和、人と人との和を育む働きを持っている。
■9.形から心に至る「道」の文化■
講演のしめくくりに、山中氏は、日本の「道」の文化を紹介する。[1,p211]
日本には、繰り返し稽古をすることで身につけていく叡智があります。それが形から心に至る「道」の文化です。
「茶道」「華道」などに代表される「道」の文化は、その行為の中で、技術を身につけるだけではなく、礼から道へ、人間性を高めていくのが目的です。
西洋では紅茶の入れ方や、フラワー・アレンジメントは技術や芸術とはなっても、それが人間性を高める「道」とまでは考えられなかった。「道」こそ日本文化の本質である。
そこで私は、世界中の人々の共通行為である衣服の装いに着目し、それを「道」に高める「装道」を展開しています。毎日繰り返し行う装いの中で、きものに込められている愛美礼和を身につけ、理想的な美い人生を実現していただきたいのです。
この装道を教育改革に活かしたいという文部省からの依頼もあって、昭和49(1974)年から毎年100人以上の高校の先生に装道の教育が行われてきた。以来、3千校の先生方が受講し、全国各地の高校できもの教育が行われてきた。あるアンケート調査では、きもの教育を受けた女子高生の実に94%が「きものを着たい」と答えている、という。
平成10(1998)年には、衆議院において「中学校における和装教育実施に関する請願」が全会一致で採択され、平成14(2002)年度から小中学校の「技術・家庭」の中で、きもの教育ができるようになった。
こうしたきもの教育を通じて、日本のすべての子供たちに、我々の先祖が数千年の歳月をかけて育んできた愛・美・礼・和の智慧に触れて欲しいと思う。
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