「土踏まずがある人」と「偏平足の人」では、どちらが進化しているのか…あまりに「誤解されすぎている考え」から導き出す「本当の答え」

土踏まずがない横綱
「土俵の鬼」と呼ばれた横綱がいた。1958年に横綱に昇進し、栃錦とともに栃若時代を築き上げた二代若乃花である(初代若乃花(あるいは若ノ花)とされることが多いが、師匠である大ノ海も若ノ花の四股名を使っていたことがあるので、正しくは二代である)。
この若乃花は、自分には土踏まずがない、と言っていた。土踏まずがない足のことを偏平足というが、どうやら若乃花は偏平足だったらしい。
土踏まずがなかった初期の人類
土踏まずというのは、脚の裏にある凹んだ部分のことで、かかとと親指の付け根を結ぶ骨が上向きにアーチ状の構造をしているために形成される。足は地面に着地するときに衝撃を受けるが、その衝撃を吸収するクッションの役割を果たすので、歩くときに便利な構造である。

人類の進化において、チンパンジーに至る系統と私たちに至る系統が分かれたのは、およそ700万年前のことと推定されている。
初期の人類はおもに森林に住んでおり、地面に下りることもあっただろうが、木の上にいる時間も長かった。すでに人類の特徴である直立二足歩行はしていたけれど、まだ土踏まずはなかったことが確認されている。
二足歩行が促した「土踏まず」の形成
400万年前あたりになると、中期の人類であるアウストラロピテクスの仲間が現れてくる。

アウストラロピテクスは、夜は木の上で眠っていた可能性が高いものの、基本的には草原で暮らしていたと考えられている。足に土踏まずがあることが確認されているので、直立二足歩行は初期の人類よりも上手くなっていただろう。
そして、それ以降の人類は土踏まずを持っており、それは現在の私たちヒト(学名はホモ・サピエンス)にも受け継がれているわけだ。
レーシングカーのタイヤ
さて、話は変わるが、自動車のタイヤについて考えてみよう。一般的な自動車のタイヤには溝が付いている。しかし、レーシングカーのタイヤには、溝が付いていないことがふつうである。こういう、溝がなくて表面がつるつるして見えるタイヤを、スリックタイヤという。

でも直感的には、スリックタイヤの方が、スピードが出なさそうに思える。溝がなければ路面としっかり噛み合わず、つるつる滑ってしまってしまいそうだ。しかし、実際にはそんなことはない。一般的なタイヤよりスリックタイヤのほうが、溝がない分、路面との接地面積が広くなって、摩擦力が大きくなる。そのため、スピードも出るし、安定してカーブを曲がることもできるのだ。
ただし、スリックタイヤのメリットを最大限に引き出すためには、温度を上げる必要がある。温度が高くなると、タイヤの表面が溶けて、路面との粘着力が増すからだ。
レース前にはタイヤウォーマーでタイヤを温める(gettyimages)*上の画像はあってもなくてもです
でも、その点に関しては、それほど問題はない。実際のレースでは、レーシングカーはかなりのスピードを出すので、摩擦熱によってタイヤの温度はかならず上がるからだ。そうなると、ますますスリックタイヤのほうが有利になるのである。
でも、そんなにスリックタイヤが素晴らしいのなら、なぜ一般道を走る自動車はスリックタイヤを使わないのだろうか。
スリックタイヤの危険性
どうして、わざわざ溝を付けたタイヤを使っているのだろうか。その最大の理由は、路面が濡れていると、スリックタイヤは非常に危険だからである。
面を走ると、タイヤと路面のあいだに水が入り込んで、水の膜ができることがある。これを、ハイドロプレーニング現象と言う。

スリックタイヤで濡れた路ハイドロプレーニング現象が起きると、タイヤと路面のあいだの摩擦力が失われ、自動車の動きをコントロールできなくなる。ブレーキも効かなくなるし、カーブを曲がることもできなくなってしまうのだ。
ハイドロプレーニング現象は非常に危険なので、それを避けるために一般的なタイヤには溝がついている。路面が濡れていても、溝に水が入り込むために、タイヤの出っ張った部分がしっかり路面と接地する。そのため、ハイドロプレーニング現象が起きにくいのである。
若乃花の強さの秘密は「扁平足の摩擦力」だったのか
さて、さきほど若乃花の話をした。若乃花は横綱のなかでも強い方だったが、体は決して大きくなかった。ライバルの栃錦が、番付を上げるにつれて体重を増やしていったのと対照的に、若乃花は番付を上げても体重はあまり増えなかった。全盛期でも100キログラムを少し超えるぐらいで、110キログラムになったことはなかったと思う。
そんな若乃花が、150キログラムぐらいの力士とがっぷり四つに組んで、そのまま寄り切ってしまうこともしばしばあった。自分よりはるかに大きい相手を、真正面から寄っていく姿を見ると、何だか不思議な感じがした。
もちろん若乃花は、体は小さくとも力は強く、足腰も良かったのだろう。しかし、それだけではないかもしれない。もしも若乃花に、本当に土踏まずがなかったのだとすれば、土俵と接地する面積が広く、摩擦力も大きかったかもしれない。
しかも、相撲を取っているときは、通常の直立二足歩行を行わずに、腰を下ろして摺り足で動くことが多い。つまり、足の裏を土俵に着けたまま、移動することが多い。そうであれば、土踏まずがなく、摩擦力が大きい効果を、十二分に発揮できた可能性がある。

以上に述べたことは、もちろん推測に過ぎないけれど、もしかしたら、そういうこともあり得たかもしれない。つまり、一般的な人にとっては有利であった、直立二足歩行に適した形質が、力士にとっては、むしろ不利に作用した可能性があるということだ。そして、そういうことは、相撲に限らずさまざまな場面で起こったのではないだろうか。
進化と進歩の関係
進化は進歩ではない。それはそのとおりなのだが、これほど誤解されている考えは、滅多にないのではないかと思う。あるいは、頭では「進化は進歩ではない」とわかっていても、心の中では「やはり進化は進歩であるような気がする」と思ってしまう人も、たくさんいるのではないだろうか。
たしかに、直立二足歩行を始めた人類に、土踏まずが進化したことは、ある意味「進歩」といってもよいだろう。土踏まずのおかげで、ますます上手く歩けるようになったのだから。
その一方で、もしほとんどの人類が相撲を始めたら(まあ、そんなことは起こらないだろうが)、偏平足が進化するかもしれない。偏平足になった方が、相撲が(多分)強くなるからだ。その場合、偏平足が進化したことは「進歩」といってもよいだろう。

しかし、そう考えると、何だか変な気がする。
土踏まずが進化したことも「進歩」で、偏平足が進化したことも「進歩」になってしまう。でも、それでよいのである。
ダーウィンの言った「進化」とはなにか?
進化は、生物が生きている状況に適応させるように、生物を改良させる働きがある。もし生物が直立二足歩行をしていれば、より上手く直立二足歩行ができるように、生物を改良するし、もし生物が相撲をしていれば、より相撲が強くなるように、生物を改良する。
そのときどきの状況に合わせるように生物を改良していくことを「進歩」と呼ぶのであれば、進化には「進歩」していく側面があるといえる。
とはいえ、進化は、つねに生物を一直線に「進歩」させていくわけではない。相撲が流行ったり流行らなくなったりするのに合わせて、土踏まずの進化は行ったり来たりするかもしれない。
しかも「進歩」というものは価値観によって変化するもので、常に変わらない絶対的な意味での「進歩」というものは存在しない。相撲が嫌いな人にとっては、偏平足の進化は「進歩」ではなく「退歩」だろう。
有名な進化学者であるダーウィンは、生物が「周囲の条件に合わせるように改良される」ことはあるけれど、「周囲の条件にかかわらずつねに進歩していく」ことはない、と考えていた。
たしかに「進化」と「進歩」は違うけれど、その違いは意外とわかりにくいのかもれない。




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