世界を地獄へと導いたふたつの9/11
1973年9月11日にチリでオーグスト・ピノチェトが主導する軍事クーデターがあった。ピノチェトを操っていたのはCIAの破壊工作部門であり、その背後にはリチャード・ニクソン大統領の国家安全保障補佐官を務めていたヘンリー・キッシンジャーがいた。ピノチェト政権が導入した新自由主義をイギリスの首相だったマーガレット・サッチャーが欧米で初めて採用、その後世界を席巻することになる。
新自由主義はレッセフェール(自由放任主義)に近く、市場を絶対視する。その市場は資金力や情報力が同じ圧倒的多数の個人、または組織が取り引きすることを前提にしているが、そのようなものは存在しない。資金にしろ情報にしろ、強大な能力を持つ私的権力が市場には存在し、公正な取り引きなどはありえない。必然的に富は強大な私的権力へ集まり、彼らの力は雪だるま式に大きくなる。
2001年9月11日にはニューヨークのWTC(世界貿易センター)とバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された。いわゆる9/11だ。
WTCの場合、ツインタワーだけでなく、攻撃を受けていない7号館(ソロモン・ブラザース・ビル)も爆破解体のように崩壊、そこに保管されていた金塊、エンロンや国防総省の使途不明金に関する捜査資料は消えてしまった。
ネオコン(新保守主義)に担がれたジョージ・W・ブッシュ大統領は詳しい調査をしないままアル・カイダが実行したと断定、その象徴的な存在だったオサマ・ビン・ラディンを首謀者だと主張した。
しかし、攻撃直後にオサマ・ビン・ラディンはその攻撃に自分たちは関与していないと主張、9月16日にはカタールのテレビ局、アル・ジャジーラに送った声明の中で、やはり自分たちが実行したのではないとしている。
そもそもアル・カイダとはCIAがアフガニスタンでソ連軍と戦わせるために訓練した戦闘員の登録リストであり、そうした武装組織は存在しない。イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックは05年7月、「アル・カイダ」についてCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだと説明している。この指摘をした翌月、2005年8月6日にクックは休暇先のスコットランドで散歩中に心臓発作で急死した。
アル・カイダの仕組みを1970年代に作り上げたのはズビグネフ・ブレジンスキーであり、アフガニスタンへ戦闘員を送り込む仕事をしていたひとりがサウジアラビアの富豪の息子、オサマ・ビン・ラディン。このビン・ラディンをジハード(聖戦)の世界へ引き込んだのはムスリム同胞団のアブドゥラ・アッザムだと言われている。
ビン・ラディンは1984年にアッザムと一緒にMAK(礼拝事務局)のオフィスをパキスタンのペシャワルで開設。このMAKがアル・カイダの源流だと考えられている。戦闘員の中心はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団だ。
ウェズリー・クラーク元NATO欧州連合軍最高司令官によると、9月11日の攻撃から10日ほど後、統合参謀本部でイラクを攻撃するという話を聞いたという。そこのスタッフは攻撃する理由がわからないと口にしていたという。
その6週間ほど後、国防長官の周辺で攻撃予定国のリストが作成されていたことをやはり統合参謀本部で知らされている。そこに載っていた国はイラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイラン。5年間に7カ国を破壊することになっていた。いずれも9/11とは無関係の国だ。
9/11を利用し、憲法の権利条項を停止させる「PATRIOT法(愛国者法)」がその年の10月26日に発効した。この法律は「テロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する2001年法(Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001)」の略語だ。
この法律は340ページを超す代物だが、それを議会は提出されて1週間で承認、憲法の機能を停止させてしまった。この法律によってアメリカでは令状のない盗聴や拘束、拷問が横行することになった。国内の治安機能を強化するため、2002年10月にはUSNORTHCOM(アメリカ北方軍)が設置された。
ドナルド・ラムズフェルド国防長官は9/11の直後、偽情報を外国メディアの報道内に埋め込み、民衆の心理を操ろうとした。そのために設置された機関がOSI(戦略影響局)。この機関の存在が発覚するとラムズフェルドは廃止を宣言するが、実際に廃止されたことを裏付ける証拠はない。
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