日中戦争は、スターリンがシナリオ書き、毛沢東が実現させたものであった。この点を踏まえないと、日本軍は無謀なシナ侵略を目指して、泥沼にはまった、という東書版の歴史解釈になってしまう。
育鵬社版の記述では、「何者かの銃撃を受け」「日本軍将校殺害をきっかけに」と、第三者の策謀を示唆する記述が散見されるが、近い将来、この点を正面から書けるようになった時、日本はなぜ共産党の策謀にはまったのか、という真の反省ができるようになる。
No.1031 歴史教科書読み比べ(43) 日中戦争に引きずり込まれた日本
日本はどのように、日中戦争に引きずりこまれていったのか?
■1.スターリンの天才
東京書籍(東書)版は「日中戦争の開始と長期化」の項の冒頭で、次のように書く。
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満州を支配下に置いた日本は さらに中国北部に侵入しました。中国では,国民政府(国民党)と共産党との内戦が行われていましたが,抗日運動が盛り上がる中,毛沢東が率いる共産党は,蒋介石を指導者とする国民党に協力を呼びかけ,1936(昭和11)年に内戦を停止しました。[1, p220]
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育鵬社版で、これに対応する記述は以下のとおりである。
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一方,日本軍が満州に隣接する華北地域に親日政権をつくると,中国で抗日運動が高まりました。中国では,国民政府と共産党の内戦が続いており,共産党が劣勢でした。しかし,西安(シーアン)事件をきっかけに,国民政府と共産党は協力して日本に対抗するようになり,両者による抗日民族統一戦線がつくられました。[1, p220]
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西安事件に関しては、側注で「抗日を唱える共産党に,国民政府
軍の張学良(張作霖の子)が同調して、西安で蒋介石を監禁し,内戦の停止と共産党と協力しての抗日を要求した事件」と説明している。
東書版では「毛沢東が率いる共産党は,蒋介石を指導者とする国民党に協力を呼びかけ」と、さも平和的な連携のように記述しているが、当時、蒋介石の言葉では、共産党を滅亡させる「最後の5分間」にあったとしている。中村粲・獨協大学名誉教授の『大東亜戦争への道』では次のように述べている。
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事件の報に接した中共(JOG注:中国共産党)では、蒋の人民裁判を主張する者も少なくなく、毛沢東自身の意見は「殺蒋抗日」であった。本家のモスクワの指示を仰いだところ、スターリンからは「連蒋抗日」と蒋介石の釈放を命ずる指示が届いた。
スターリンの電報に接した毛は「真赤になり、悪態をつき、足を踏みならして怒った」と伝へられるが、スターリンとしては、蒋を釈放しない場合は、国府軍によって中共軍が潰滅させられること、また蒋に代って反共・親日家の汪精衞が政権を取ることになるのを倶おそ)れたものと思はれる。[1, p220]
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蒋介石が釈放の条件として何を約束させられたのか、は謎に包まれているが、この頃、モスクワに留学していた蒋介石の息子・蒋経国がソ連に人質にとられていたことを考えれば、おおよその推測はつく。いずれにせよ、この西安事件をきっかけとして、共産党が日本と蒋介石との対立を煽るという構図が生まれた。スターリンの天才と言えよう。
■2.盧溝橋事件は誰が仕掛けたのか?
この後、日中戦争の起点となった盧溝橋事件が起こる。東書版はこう記述する。
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1937年7月,北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近で起こった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)をきっかけに,日中戦争が始まりました。[1, p220]
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東書版は「日中両国軍の武力衝突」で済ませてしまうが、育鵬社版はもう少し事件の経過を説明している。
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1937(昭和12)年7月,条約に基づいて北京に駐屯する日本軍の部隊が,郊外の盧溝橋付近での訓練中に何者かの銃撃を受け,それが中国軍との戦闘に発展する事件がおこりました(盧溝橋事件)。[2, p229]
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まず「条約に基づいて北京に駐屯する日本軍」という記述からは、日本軍の駐屯が合法的であることを明記している。これは義和団の乱で清朝が北京の各国大使館や居留民の安全を守らなかったために、各国と清朝が結んだ北京議定書によるものである。この点をおさえないと、そもそも北京郊外に日本軍がいること自体が侵略行為ではないか、という誤解が生ずる恐れがある。
次に「日本軍の部隊が,郊外の盧溝橋付近での訓練中に何者かの銃撃を受け」とある。これも正確な表現で、日本軍は実弾を固いボール紙で包装しており、しかもある中隊は兵の過労をふせぐため、鉄帽すら携行していなかったというから、事を起こそうという考えは全くなかったのは間違いない。
「何者かの銃撃を受け」と、ぼやかしているが、これが中国共産党の仕業であったことを示唆する証拠がいくつか挙がっている。たとえば、事件の直後、延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で「成功した」と緊急無線があり、それを日本軍も蒋介石軍も傍受した、という証言がある[4]。
育鵬社版の「何者かの銃撃を受け」というあたりが中学の歴史教科書としては精一杯の記述かも知れないが、少なくとも日本軍が意図的に武力衝突を起こしたのではない事が明記されている点は大切である。
■3.隠された通州事件
盧溝橋事件の3週間後の7月29日、通州(現在の北京市通州区)にて、2百数十名の日本軍守備隊及び邦人居留民が虐殺される事件が起きた。事件後の目撃者の元陸軍少佐が宣誓口供書に残した証言には、次のような部分がある。
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守備隊の東門を出ると、数間(すうけん)ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家悉(ことごと)く首と両手を切断され、十四、五歳以上の婦人は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒(ほうき)を押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を断ち割ってある者など見るに堪えなかった。[5, p163]
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1928年(昭和3)年5月3日の済州事件でも十数名の邦人が同様に残虐な方法で殺されたが、こういう行為はシナの伝統のようだ。この通州事件については、両教科書とも記述がない。この点について渡部昇一氏は次のように語っている。
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この通州事件については、戦後、ほとんど語られなくなった。なぜなら、この事件のことを言い出すと、「中国は善玉、日本は悪玉」という構図が崩壊してしまうからである。・・・
現在、最も詳しい近代史年表とされている岩波書店の近代日本総合年表は、800ページを超える大冊であるが、昭和12年の項に通州事件のことは1行も書かれていない。おそらく、意図的に省いたのであろう。[5, p162]
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済州事件や通州事件のことを書かなければ、当時の日本政府及び国民にとって、シナの在留邦人の安全確保がいかに大きな問題であったかが分からない。そして、この点が分からないと、次の上海での兵力増強も「日本軍の侵略」に見えてしまう。
■4.日本と蒋介石軍を全面戦争に引きずりこんだ共産党の策謀
この後、戦火は上海に飛び火する。東書版はこう記述する。
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戦火は中国中部の上海に拡大し,全面戦争に発展しました。これを受けて,国民党と共産党は日本との戦争のために協力し合うことを最終的に決め,抗日民族統一戦線が結成されました。[1, p220]
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盧溝橋事件と同様、戦火が自然発火したような書きぶりで、誰が戦争を起こしたのかを伏せている。そしてここでも共産党と国民党の協力が協調されている。
育鵬社版の記述は以下のとおりである。
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日本政府は不拡大方針をとりましたが,一方で兵力の増強を決定しました。その後も日本軍と国民政府軍との戦闘は終わらず,8月には日本軍将校殺害をきっかけに上海にも戦闘が拡大しました。ここにいたって日本政府は不拡大方針を撤回し, わが国と中国は全面戦争に突入していきました(日中戦争)。[1, p220]
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「兵力の増強」とは、蒋介石が上海方面に10個師団もの兵力を集中しつつあったからである。上海の日本の居留民を守るのは、わずか約4千人の陸戦隊のみ。日本政府は8月14日に2個師団を上海に派遣することを決定した。通州事件の後であることを考えれば、当然の居留民保護策である。
この14日には蒋介石軍の爆撃機が日本の陸戦隊本部、総領事館、軍艦のみならず市街地にも爆弾を投下した。爆撃は共同租界、フランス租界に対しても行われ、大衆娯楽センターにいた千人以上、英人経営のホテル等では外国人を含めて2百数十名が死亡した。[3, p420]
この爆撃は蒋介石軍の幹部で、共産党に通じていた張治中が、蒋介石の制止を振り切って実行した。日本軍将校殺害同様、日本と蒋介石を戦わせようと言う共産党の工作によって、日本と蒋介石軍は戦争に引きずり込まれたのである。[b]
■5.戦時プロパガンダ「南京事件」
この日中戦争の過程で「南京事件」が起こったとされている。東書版の本文と側注での記述は次のようである。
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日本軍は,1937年末に首都の南京を占領し,その過程で,女性や子どもなど一般の人々や捕虜をふくむ多数の中国人を殺害しました(南京事件(1))。しかし,国民政府は,首都を漢口,次いで重慶に移し,アメリカやイギリスなどの支援を受けながら,戦争を続けました。
(1)この事件は,「南京大虐殺」とも呼ばれます。被害者の数については,さまざまな調査や研究が行われていますが,いまだに確定していません。[1, p220]
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同じ東書版でも平成13年版では「20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し」と人数を記載していた記述が、大幅に後退している。
育鵬社版では、本文に
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日本軍は12月に首都・南京を占領しましたが。蒋介石は奥地の重慶に脱出して徹底抗戦の姿勢をとり,戦争は長期化していきました。[2, p229]
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とあり、南京事件については、以下の側注で記載するのみである。
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このとき日本軍によって,中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については.さまざまな見解があり,今日でも論争が続いている。[2, p229]
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「今日でも論争が続いている」のは確かだが、多くの研究者の多大な努力によって、この「南京事件」がシナ側の戦争プロパガンダであった実態が明らかにされつつある。「南京事件」を報じた欧米人記者たちが、国民党の「中央宣伝部」の工作を受けていた内部資料が発見されている。そして南京陥落時に現場にいた彼らですら、「大虐殺」に関しては伝聞としての記事しか書いていない。[c]
当時、南京にいた国際委員会のメンバー、マギー牧師も東京裁判でアメリカ人弁護人から「では、あなたが実際に目撃した殺人事件は何件でしたか」と尋ねられて「たった1人です」と答えている。しかもそれは安全地区を警備していた日本兵が、そこに入ろうとしたシナ人を誰何したところ、突然逃げ出したので背後から撃ったというのである。
現実に2百数十名が虐殺された通州事件は伏せられ、「南京事件」の20万人などというプロパガンダが教科書にまで記載されていた。戦後の日本の歴史教育の歪みを示す端的な事例である。
■6.妨害された和平交渉
東書版は前項の記述で「日中戦争の開始と長期化」の項を閉じているが、育鵬社版では、さらに次の一節を設けている。
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その間,何度か和平交渉が行われましたが,わが国も,米ソなどの援助を得ていた蒋介石も,強硬な姿勢を崩さず,和平にはいたりませんでした。中国戦線の長期化により,わが国の国力はしだいに低下していきました。[2, p229]
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和平工作の一つとして上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将が、国民党首脳部とも親しい間柄にあった茅野長知に依頼して、即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意を取り付けたが、近衛内閣のブレーンとなっていた昭和研究会のメンバーに潰されている。[d]
昭和研究会の主力メンバーであった尾崎秀実は国内で「東亜百年戦争」を煽って、日本と蒋介石政権を戦争で疲弊させ、共産革命を実現させようと図っていた。尾崎は後にソ連のスパイであることが発覚し、死刑となった人物である。
日中戦争は、スターリンがシナリオ書き、毛沢東が実現させたものであった。この点を踏まえないと、日本軍は無謀なシナ侵略を目指して、泥沼にはまった、という東書版の歴史解釈になってしまう。
育鵬社版の記述では、「何者かの銃撃を受け」「日本軍将校殺害をきっかけに」と、第三者の策謀を示唆する記述が散見されるが、近い将来、この点を正面から書けるようになった時、日本はなぜ共産党の策謀にはまったのか、という真の反省ができるようになる。
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