米民主党ウォルツ副大統領候補は、かなりヤバい人物のようです。
同カマラ・ハリス大統領候補もヤバい!
もし、米国大統領選でトランプが負けるようなことがあれば、米国はもちろん、全世界が混乱の渦に巻き込まれる事は間違いありません・・・11月の米国大統領選は決して他人事ではありません!

米民主党ウォルツ副大統領候補の「闇の4年」が暴かれ、こりゃヤバッ!
歴詐称?民主党副大統領候補
日本には、学歴詐称で何度も公職選挙法に違反してきた疑いがある小池百合子という知事がいる。同じように、アメリカには、イラクへの勤務を前に退役し、軍歴を詐称しながらも、下院議員を6期、ミネソタ州知事を2期途中まで務め、民主党の副大統領候補に選ばれたティモシー(ティム)・ジェームズ・ウォルツなる人物がいる。

米民主党の大統領候補カマラ・ハリス副大統領は、8月6日、副大統領候補としてウォルツ知事を指名した。1964年4月6日、ネブラスカ州ウェストポイントで、ドイツ系ルーツを持つルター派の両親のもとに生まれた彼は、高校を卒業後、州兵として農作業や製造業に従事し、チャドロン・カレッジで教育学の学位を取得した。
大学卒業後、米国のNPO法人ワールドティーチ・プログラムで中国に1年間滞在した後、故郷の小さな町アリアンツで学校の教師兼コーチとして働き始めた。後に妻となるグウェン・ウィップルと出会ったのもこの学校であり、1996年に彼女の故郷であるミネソタ州に移り住んだ。
2006年、共和党を破ってミネソタ州議会第1選挙区(保守的な地方選挙区)を制し、再選を5回果たした後、2018年に知事に初当選し、2022年の再選も勝利した。しかし、2001年から2006年までの間に、ウォルツにとっての「闇」がある。
ヴァンス副大統領候補の鋭い批判
共和党の副大統領候補J・D・ヴァンス(オハイオ州選出の上院議員)は8月7日、ウォルツが兵役を逃れ、退役軍人であることについて国を欺いていると非難した。
ヴァンスは、デトロイトで開かれた選挙集会で記者団の質問に答えながら、「ティム・ウォルツは国からイラク行きを要請されたとき、彼が何をしたか知っているか?」と問うたうえで、「彼は陸軍を退役し、自分の部隊を自分抜きで行かせた。イラクに行くために部隊を準備し、それを実行すると約束し、実際に行かなければならない直前に脱落するのは恥ずべきことだと思う」と批判した。この発言は保守派のFOXニュースがビデオつきで報じている。

「ティム・ウォルツ、君はいつ戦争に行ったんだい? これはいつだった? イラクに行く直前に部隊を見捨てたというのに、彼は一日も戦闘地域で過ごしたことがないのか? ティム・ウォルツについて私が気になるのは、『盗まれた勇気』のゴミ野郎であることだ」
ヴァンスの発言は辛辣だが、ある意味で、的を射ている。「盗まれた勇気」(stolen valor)とは、民主党が主要マスメディアや連邦捜査局(FBI)などと結託して、2020年11月の選挙直前に明らかになったバイデン親子の不正を隠蔽し、選挙結果が「盗まれた」事件を想起させる。
その時と同じように、民主党および主要マスメディアが共謀して、ウォルツの勇気の欠如を隠蔽し、民主党勝利に導こうとしていると批判しているのだ。
ウォルツという男
ヴァンスは、2018年のフェイスブックへの投稿と、同年のウェスト・セントラル・トリビューン紙への有料の編集者宛書簡を根拠に、ウォルツの本性を暴いたのである(下の写真)。この二つは、ともに、退役軍曹長のトーマス・ベアレンツとポール・ハーによって書かれたもので、その内容はほとんど同じだ。

ここでは、彼らによる告発について紹介しよう。
・2001年9月18日、ウォルツはミネソタ陸軍州兵に再入隊し、6年間在籍するはずだった。
・2003年初め、彼はアメリカ陸軍少佐アカデミーに選抜された。
・2003年夏の終わり、ウォルツ一等軍曹は不朽の自由作戦を支援する第1-125野戦砲兵大隊とともにイタリアに派遣された。任務は6ヶ月間、基地警備を行う欧州空軍警備部隊を増強することだった。
・2004年春に部隊がミネソタに戻った後、彼は高いレベルの司令部少佐たちから、第1-125野戦砲兵大隊の司令部少佐に抜擢された。
・2004年9月17日、彼は条件付きで司令曹長に昇進した。その条件は、カウンセリングを受けたときに説明され、同意書と証明書に署名した。条件が満たされなければ、昇進は無効となり、何事もなかったようになる。
・2005年初め、彼が所属していた第1-125野戦砲兵大隊に、イラクへの積極的な派兵に動員される準備をするよう警告命令が出された。警告命令が出されてから 「引退」するまでの間、彼は旅団司令部の曹長に、自分は任務に就くから心配するなと言った。それは嘘だったようだ。
・2005年5月16日、彼は祖国を裏切り、第1-125野戦砲兵大隊とその兵士たちを宙吊りにしたまま、大隊が戦争に備えるなか、上級下士官を残して辞めた。他の指導者たちに対する彼の言い訳は、下院議員に立候補するために引退する必要があったというものだった。
ウォルツは、仲間の兵士たちが経験豊かなリーダーシップをもっとも必要としているときに、仲間を見捨てて辞めてしまった。国の要請に応え、われわれのために奉仕し、戦い、不運にも命を落とし続けている勇敢なアメリカ人男女の名誉を傷つけるものだった。

・2005年9月10日、条件付きで昇進したウォルツ少佐は曹長に格下げされた。少佐への条件付き昇進後、2年間勤務しなかったためである。2001年9月18日に署名した入隊の6年間を全うできなかった。彼は祖国を裏切った。率先垂範を怠った。その上、陸軍の七つの価値観を守ることもできなかった: 忠誠、義務、尊敬、無私の奉仕、名誉、誠実、そして個人の勇気だ。裏切り者であり、詐欺師であり、恥ずべきことだ。
なお、ウォルツ自身は、「私は2001年に20年間の兵役を終えた後、9.11の後さらに4年間国のために尽くすために再入隊し、私の大隊がイラクに派遣される前年に引退した」と言っている。しかし、彼の正式な離職証明書と勤務記録によれば、彼は2001年9月18日に6年間再入隊したことになっている。
それでも彼の回答によれば、彼は4年間再入隊し、大隊がイラクに派遣される1年前に都合よく退職したという。仮に9月11日に4年間再入隊していたとしても、退役日は2005年9月18日である。それなのに、なぜ4年間の入隊期間が終わる前の2005年5月16日に「退役」したのか?
大隊がイラクに派兵される1年前に「退役」したかのように言っているが、実際には、「退役」した時点で大隊がイラクに派兵されることを知っていたのだ。
ウォルツは「裏切者」
前述したウォルツを告発した一人、ベアレンツは、ウォルツがイラク派兵前夜に退役することを選んだとき、代わりに軍に入った人物である。彼は、『ニューヨーク・ポスト』の記事のなかで、「私は、すぐに部隊の面倒を見なければならなかった。あのような立場の人間が辞めるのは臆病だ」とのべている。
そして、ミネソタ州で現在、農業を営むベアレンツは、ウォルツを「裏切者」と呼んだ。部隊はイラクで17ヶ月を過ごし、ミネソタ州ウィルマーの19歳、カイル・ミラーを含む3人の死傷者を出した事実がある以上、こうウォルツが非難されるのも当然だろう。
ベアレンツはまた、ウォルツが昇進の条件を満たす前に引退したため階級が曹長に下がったにもかかわらず、政治家としてのキャリアを通じて司令曹長(陸軍の最高下士官のひとつ)と名乗り、軍での階級を偽って誇張していることを示唆した。ウォルツは選挙運動用資料のなかで、軍歴の説明にこの階級を使いつづけたと、『アルファ・ニュース』は2022年に報じたという。
トランプも批判
トランプは8月7日、『トゥルース・ソーシャル』で「ウォルツは国の恥(a disgrace to our country)だが、カマラはもっとひどい!」とのべた。そこには、右派ポッドキャスト・ホストで陸軍退役軍人のダン・ホロウェイによる「私のような退役軍人にとって、ティム・ウォルツの部隊放棄は許しがたい」とする『ニューズウィーク』の論説がリンクされていた。

もっとも、あまりウォルツを追い込むと、トランプ自身にも跳ね返りかねないことを忘れてはならない。1968年秋、ドナルド・J・トランプは、タイムリーにかかとの骨棘の診断を受け、ベトナム戦争中の兵役免除につながった。これはトランプ氏の父親の好意で行われた医学的評価だったと、医師の娘が2018年に『ニューヨーク・タイムズ』に語っている。
これに対して、副大統領候補のヴァンスは元海兵隊員であり、イラクに従軍した。主に広報を担当していたが、イラクを避けたウォルツとはまったく違う。ウォルツはヴァンスを「変な」(weird)という言葉を使って言いくるめようとしているが、どうみても「臆病者」で「裏切者」のウォルツには説得力がないのではないか。

ウォルツ米副大統領候補 教師として中国赴任後10年連続訪中

8月6日、アメリカ民主党の副大統領候補にティム・ウォルツ氏が決まった。ウォルツ氏は1989年から1年間、中国広東省佛山市に外国人教師として赴任後、中国がものすごく気に入って10年間に及び30回以上訪中し、中国旅行会社まで設立している。中国のネットにはウォルツ氏が中国を絶賛する記事がいくらでも貼られているし証拠写真もある。
ウォルツ氏が中国を初めて訪問したのは1989年8月。6月4日の天安門事件をアメリカで見た上で赴任先に中国を選び長いこと中国を褒めまくっていたが、中国の経済成長に伴いアメリカの対中世論が厳しくなると、それに合わせて突然論調を変えている。
中国のネットでは「本当は親中なのにアメリカでのバッシングを避けるため中国批判を偽装している」と指摘する声が大きい。
本稿ではウォルツ氏の、中国との関係における「正体」を解剖する。
◆ウォルツ氏「中国に赴任したことは、私にとって人生最高の出来ごと!」
中国大陸のネットはウォルツ氏の話題で持ちきりだ。彼が「大の中国ファン」だからである。一つだけリンク先を書くと8月7日の<极客老唐>などがある。以下は多くの記事を参考にしながら、中国におけるウォルツ論をまとめたものだ。
1964年4月6日に生まれたウォルツ氏は、1989年8月に中国広東省の佛山市にある佛山中学(正式名は佛山第一中学)(高等中学=高校)に英語教師として赴任した。ハーバード大学の国際教育交換プログラムである「World Teach Program(世界教育プログラム)」に応募し、中国を選んだ。
のちに(2007年に)アメリカのメディア「THE HILL(ザ・ヒル)」の取材を受け「外国人教師としての赴任先になぜ中国を選んだのか?」という質問に対して「中国が成長しつつあるからだ(=これからは中国の時代だからだ)」と回答している。小さいころから共産主義が好きだったとも回顧している。
1989年9月以降の、佛山中学での同僚たちとの写真が中国のネットに出回っているので、それを図表1に示す。
図表1:ウォルツ氏と佛山中学の同僚たち

また赴任中に、「持ち帰れないほどのもの」を多くの友人からもらったとも回顧しているが、図表2にあるのはその友人からもらったプレゼントの一つで、大きな扇がよほど嬉しかったのだろう。中国のネットで出回っている写真の一つだ。
図表2:友人にもらったプレゼントを喜ぶウォルツ氏

帰国後にウォルツ氏は「中国に行ったことは、私の人生で最高の出来ごとだった!」と感激したと言っているらしい。中国のネットの至るところにそう書いてあるが、香港に住んでいるらしいコラムニストKangHexinさんがX(元Twitter)で数多くの昔の新聞記事を投稿しているので、その中の一つを図表3に示す。1990年9月18日に受けた取材の記事で、佛山中学での思い出に関して”No matter how long I live, I’ll never be treated that well again,”(どれだけ長生きしても、あんなにまで良くしてもらえることは二度とないだろう)とまで言っている。
図表3:ウォルツ氏「どんなに長生きしても、あんなにまで良くしてもらえることは二度とないだろう」

1994年に結婚したウォルツ氏は、数十名の学生たちを伴って中国に新婚旅行に行った。それからというもの、中国に旅行するアメリカの学生を組織したEducational Travel Adventures Inc.(教育的トラベル冒険)という旅行代理店を設立し、アメリカの若者が中国に行くことを奨励した。2003年までにウォルツ夫妻は毎年夏に中国に旅行し、30回以上、10年連続で訪中している。旅行代理店は2008年になって閉鎖された。
香港の鳳凰網にも、1989年から2016年までウォルツ氏は30回ほど中国を訪問したとあるので、1年に3回というくらいのペースで訪中していたことは確かなのだろう。また鳳凰網には「ウォルツ氏は対中政策に関しては、中国との通商交渉の正常化を主張し、中国市場はかけがえのないものであると考え、米中は敵対関係になるべきではないと考えている」と書いてある。
ところが、2010年に中国のGDPが日本を追い越し世界第二位に上り詰める頃からアメリカでは「中国潰し」が始まり、「反共反中」論が主流となりはじめた。
ウォルツ氏の言論が変節していくのは、それからしばらくしてからのことである。
◆アメリカメディアVOA:ウォルツ氏は対中人権派でダライ・ラマとも親交
2024年8月6日のアメリカのメディアVOA(Voice Of America)はウォルツ氏と中国との関係に関して以下のようなことを列挙している。
●ウォルツ氏は、2014年、米下院議員在任中にVOAのインタビューを受け、天安門事件に関して「6月4日に目が覚めてニュースを見て、想像を絶する出来事が起こったことを知ったのを覚えています。私たちは決断を下さなければならず、同僚の多くが中国から米国に戻り続けるのではなく、この物語を確実に伝え、中国に私たちが彼らを支持していることを知らせるために、これまで以上に中国に行かなければならないと感じました」と回答している。
●ウォルツ氏は、連邦議会議員として、中国の人権記録に焦点を当てた「米国中国議会執行委員会(CECC)」の9人のメンバーの1人であり、中国での広範な現場経験を持つ数少ない議員の1人だった。
●ニュースレター「チャイナトーク」のジャーナリストノートは、ウォルツ氏を「人権を深く懸念する親中派の人物」と表現した。
●「チャイナトーク」の記者のノートによると、2016年の人権に関する議会公聴会で、ウォルツ氏はチベットについて語った。ウォルツ氏はそのとき「アメリカは普遍的な自由という考えに基づいており、中国政府に対して、チベット人に対する宗教の自由の規制を緩和するよう、引き続き強く求めなければなりません」とした上で、「私はチベットの未来について、中国政府との実りある対話をすべきだと思っています。チベットの生活の質、清潔な水へのアクセス、医療サービスの改善には、チベット人の生活様式を維持するための努力も含まれなければなりません」と語ったという。
●2018年3月15日、ウォルツ氏はチベットの精神的指導者であるダライ・ラマと一緒に写った写真をツイートし、2016年にダライ・ラマと「人生を変えるランチをした」と述べた。「私たちは謙虚さ、忍耐、思いやりについて話しました。私は毎日、これらの価値観を自分の仕事に具現化しようとしています」と彼は語った。
●2011年11月1日、ウォルツは「中国の法律活動家・陳光誠とその家族の虐待と超法規的拘禁についての調査」に関する議会執行委員会の公聴会で証言し、「私は中国政府の一部が法の支配の強化を提唱していることを認識しています。しかし、陳光誠氏とその家族が強制的に拘束され、虐待されている状況を考えると、中国が法の支配に真剣に取り組んでいるとは思えません。中国が、公然と本国の法律と国際人権認識に違反しておきながら、人権問題に関して真剣に考えているとは思えないのです」と語っている。
●議員としての在任中、ウォルツ氏は他の議員とともに、中国の人権記録に関する一連の決議を共同提案した。これらの決議には、2017年の香港人権と民主法案、ノーベル平和賞受賞者である劉暁波氏の釈放を支持する決議、劉暁波氏の死後の生涯と遺産を追悼する別の決議が含まれる。また、「投獄された抗議者の処遇について調査を求める、天安門虐殺20周年記念に関連する決議」や「中国人権活動家・黄琦氏と谭作人に関する決議」および「中国政府の承認を得て囚人から臓器を摘出したという報告について懸念を表明する決議」などを支持するという内容も含まれる。
●2016年、ウォルツ氏は「中国が南シナ海に新たな島を建設し、現在、その島に飛行機を着陸させている」という懸念に関して建議した。(ウォルツ氏に関するVOAの中国関連情報はここまで)
中国のネットでは、あれだけ対中友好的なウォルツ氏が最近、突然のように対中批判を盛んにおこなうようになったのは、「自らの保身のため」で、「批難を避けるためのポーズを取っているだけかもしれない」といった見方が散見される。
誰がどれだけ、より対中強硬であるかを競う米大統領選の中で、ウォルツ氏の対中姿勢がどのように掘り返され選挙民が判断するのか、興味深いところである。
11月5日まで、目が離せない。
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