ウクライナ元国会議長殺害は「ロシアの犯行」ではなかった⁉

ウクライナ戦争の停戦・和平を論じるには、ウクライナの内情に精通していなければならない。ところが、欧米や日本では、「ロシア=悪」「ウクライナ=善」という視点からの偏向報道が幅を利かせている。その結果、多くの人々は何が本来、停戦・和平の足かせとなっているかを理解できずにいる。
そこで、今回は、ウクライナ国内で広がる復讐の連鎖について解説したい。日本のテレビや新聞が報じない『ほんとうのウクライナ』を知ってほしい。
8月30日に起きた衝撃殺人事件
先月30日、ウクライナ西部のリヴィウにおいて、現職国会議員で元最高会議議長のアンドリー・パルビーが殺害された(下の写真1)。8発の銃弾が彼を襲ったのである。
パルビー(下の写真2)はウクライナの有名人だ。2014年に刊行した拙著『ウクライナ・ゲート:「ネオコン」の情報操作と野望』でも、43頁において、つぎのように紹介した。
「ヤヌコヴィッチ政権に反対する勢力は当時、「ユーロマイダン(広場)」と呼ばれている場所に集結し、反政府活動を行っていた。そこで、「マイダン自衛」という組織が設けられ、その指導者、「ユーロマイダンの司令官」として君臨していたのが後に暫定政府の枢要な治安機構(国家安全保障国防会議)のトップに就任するアンドリー・パルビーである」
殺害現場の写真1 Фото: Mykola Tys / EPA
写真2 アンドリー・パルビー Фото: Андрей Парубий / Х
パルビー殺害の容疑者は、リヴィウ在住のミハイル・スツェリニコフ(52歳)だ(下の写真)。9月1日には拘束され、捜査当局から流された情報として、彼には兵士で行方不明となった息子がおり、その行方を捜す過程で、ロシアのソーシャルメディアを監視しはじめたという。その後、彼はロシアの代表者(現在、捜査当局により身元不明)と連絡を取り始め、彼らは息子が死亡したという情報を彼に提供したとされる。
容疑者によると、ロシアの代表者は、ウクライナに対する戦争におけるロシアの行動を正当化し、逆にウクライナ当局が戦争を引き起こしたと非難した。その結果、容疑者は、このロシアの代表者と連絡を取り合いながら、武器を受け取り、自転車やヘルメットなどの装備を購入。さらに、偽造書類で車を購入し、パルビーを尾行し、殺害に至ったというのだ。
どうやら、ゼレンスキー政権側のウクライナ保安局(SBU)と警察は、パルビー殺害にロシアの諜報機関、連邦保安局(FSB)が関与した可能性があり、殺人はロシア側から頼まれた契約殺人であったという構図にしたいらしい。
ミハイル・スツェリニコフがパルビイ殺害を告白
(出所)https://www.bbc.com/russian/articles/cq585jyed0lo
パルビーへの「復讐」だった
そのために、ウクライナのマスメディアの多くが、この見立てを最優先に報道している。そこで、比較的中立的と思われるBBCの報道をもとに、スツェリニコフの状況を説明してみよう。
9月2日、まず、法廷開始前に記者団に対して、スツェリニコフは、こう述べた。
「今、私が望んでいるのは、判決を早く発表してほしいということだ。私が彼(パルビー)を殺したことは認める。そして、(ロシアに)行って息子の遺体を見つけるために、捕虜との交換をお願いしたい」
さらに、法廷において、彼は、「これはウクライナ当局に対する個人的な復讐だ」と語ったという。加えて、「なぜ被害者がパルビーだったのか」と問われると、パルビーは「近くにいた」、とスツェリニコフは答えた。そして、「もし私がヴィーンヌィツャに住んでいたら、ペーチャがいただろう」、と彼は付け加えた。これが意味するのは、ペトロ・ポロシェンコ(ペーチャ)前大統領を殺していたかもしれないということだ。
「личная месть」の意味
容疑者スツェリニコフが明らかにした、パルビーやポロシェンコへの「個人的復讐」(личная месть)という感情は注目に値する。スツェリニコフは、過剰なほどにロシアを憎み、ロシア語を排斥し、ウクライナやウクライナ語を信奉するナショナリストであるパルビーやポロシェンコに憎しみをいだいていたことになるからだ。そう、同じウクライナ人であっても、ウクライナ語一辺倒のナショナリストに憎悪をいだく者がいるのである。
パルビーの人となりや、その経歴をみてみよう。彼は17歳のときから政治に携わってきた。当初から急進的なナショナリズム路線を堅持していた。1988年、彼はリヴィウで「スパドシチナ」という組織を設立し、独ソ戦最中の1942年10月に結成され、第二次世界大戦終結後はソ連と戦ったウクライナ蜂起軍(UPA)メンバーの墓の修復や、ウクライナ西部での最初の反ソ集会の警備にあたった。
さらに、1991年、ウクライナ社会民族党(SNPU)を結成し、後にスヴォボダ(自由)と改名。2004年の第一回マイダンに参加した。その後、ユシチェンコのナーシャ・ウクライナ党に参加する。2010年春には、黒海艦隊のクリミア滞在延長に関するロシアとの協定の批准投票を妨害しようとした罪で刑事訴追されたこともある。
マイダン革命の勝利後、2014年5月2日にオデーサで起きた、公式発表で42人もの人々が労組会館で殺害された事件の首謀者の一人とロシア側はみている。2019年、ゼレンスキーの大統領選勝利後、国家捜査局(GBI)は「2014年5月2日にオデーサ市の領域で大規模な暴動を起こす目的でパルビーが公的武装グループを創設し、調整した」という事実で、パルビーに対する刑事事件を起こしたが、この事件は積極的に調査されず、パルビーに対する嫌疑は宣言されなかった。
2014年の国会議員選挙では、パルビーは「人民戦線」のリストに名を連ね、当選後、第一副議長に就任。ウォロディミル・フロイスマン(グロイスマン)議長が首相になった後は、議長に就任した。
2019年の選挙では、ポロシェンコの政党「ユーロ連帯」のリストに名を連ねて当選する。ウクライナのナショナリストは、反ロシア、親欧米を特徴としており、パルビーもポロシェンコも「同じ穴の貉(むじな)」であった。わかりやすく言えば、スツェリニコフからみると、パルビーもポロシェンコもゴリゴリの「右翼」ということになる。
恨まれる過激な右翼
それでは、なぜスツェリニコフはパルビーやポロシェンコのような右翼を殺したいと思うほどの復讐心をいだくようになったのか。ここからは私の想像でしかないが、おそらく彼らがウクライナという国をめちゃくちゃにした、とスツェリニコフは考えたのではないか。
2014年2月のクーデターがなければ、同年末までに大統領選が実施されていたはずだ。任期より1年早く大統領選を実施することにヤヌコヴィッチ大統領が同意し、その協定書の締結をフランス、ドイツ、ポーランドの外相級の人物が見守ったにもかかわらず、実際にはクーデターによってヤヌコヴィッチは追い出され、ウクライナは過激なナショナリストが主導する国になってしまった。それは、それまで虐げられていた西部のリヴィウ周辺にくすぶっていた人たちが急に偉そうにする、あるいは、権力を謳歌して無理難題を押しつけるウクライナを招来したのである。
2019年の大統領選では、ゼレンスキーはロシア語を話すことで、ゴリゴリの右翼との関係に一線を画し、腐敗していたポロシェンコを破った。だが、ミンスク合意の履行、すなわち、ドンバス問題の解決という公約は過激なナショナリストの反対で実現できなかった。それ以降、ゼレンスキーは右派勢力とともにウクライナを統治するようになる。だが、そうした姿勢がウクライナ戦争を引き寄せたと言えなくもない。
このように考えると、ゴリゴリの右翼の横暴がウクライナをロシアとの戦争に向かわせたのではないか、という疑念がごく普通の感覚をもったウクライナ人に生じても不思議ではない。ウクライナ戦争を招いた本当の悪人は、パルビーやポロシェンコのようなゴリゴリの右翼ではないか、とみなすウクライナ人が出てきても不思議ではないのである。
ウクライナを蝕む対立
ウクライナの内情に疎(うと)い者はとかく、今回のパルビー暗殺事件が2014年2月のクーデターの首謀者の一人に対するロシア側の恨みを晴らす目的で、ロシア側によって言いくるめられたパルビーが殺害に至ったとみなす。そう考えれば、本当の殺害犯はロシア側に潜む「悪人」であり、スツェリニコフはいわばロシアに騙された犠牲者とも言えなくもない。
事実、BBCの記事では、「彼(パルビー)はソヴィエトとロシア政権を打ち負かした。だから殺されたのだ」という、かつてはパルビーにもっとも近い政治仲間だったヤツェニューク元首相の発言が紹介されている。主犯はクレムリンとすることで、パルビーその人が悪人であったかもしれない事実を隠蔽しようとしているようにみえてくる。こうすることで、パルビーやポロシェンコ、あるいはヤツェニュークが「やりすぎた事実」を隠蔽できるからだ。
ウクライナ議会は9月3日、ポロシェンコが主導して、パルビー殺害事件に関して議会が諸外国議会および政府、国際機関に訴える決議案を採択した。過半数を超える296人の国会議員が「賛成」に投票した。決議は、この犯罪がロシアによって組織された政治的テロ行為であると強調する内容となっている。つまり、自分たちの非を一切認めようとしていない。
それどころか、ポロシェンコは平然とパルビーを弔う葬儀に参加した(下の写真)。
だが、彼らのようなナショナリストの過激な言動や政策が戦争の種を蒔いたことはたしかだろう。スツェリニコフからすれば、こんなゴリゴリの右翼こそ、ウクライナ戦争を招き寄せ、息子の死亡につながった原因ということになる。それが、パルビー殺害という復讐劇につながったように思われる。
聖ジョージ大聖堂で行われた葬儀に参列したペトロ・ポロシェンコ前大統領(中央左)と元国会議長で元国家安全保障国防会議議長でもあるオレクサンドル・トゥルチノフ(同右)。
(出所)https://www.bbc.com/russian/articles/cq585jyed0lo
復讐の連鎖が始まっている
本当は、すでに復讐の連鎖がはじまっているのかもしれない。実は、昨年7月19日の夕方、同じリヴィウ市で、イリーナ・フォリン(下の写真)という言語学の教授が殺害された。彼女は、パルビーも属したことのあるスヴォボダ党所属で2012年から2014年まで議員を務めたこともある。2023年末、ウクライナ兵がロシア語を話すならウクライナ人とは呼べないと発言し、激しい怒りを招いたこともある。さらに、占領下のクリミアに住む親ウクライナ派の学生からの支援メッセージを受け取った後、そのメールを自身のソーシャルメディアに公開し、彼の個人情報を暴露したことで激しく批判された人物でもある。
2022年4月5日、ウクライナ西部の都市リヴィウでポーズをとる教授で元議員のイリーナ・ファリオン。ファリオンは2024年7月19日に暗殺された。 (Yuriy Dyachyshyn/AFP via Getty Images)
9月3日付の「キーウ・インディペンデント」の長文記事「ウクライナで新たなナショナリスト政治家が殺害され、ロシアによる暗殺作戦の懸念が高まる」によると、「捜査当局は二つの可能性を検討中だ」という。ファリオンの殺害は、彼女の政治活動によるものか、あるいは個人的な対立によるものか、という二つのシナリオである。10代の若者が拘束されているが、捜査は継続中であり、殺害理由は現段階では不明だ。
ただし、当局はパルビー殺害と同じく、若者がロシア側からの洗脳によって犯行におよんだというシナリオを想定している。だが、昨年7月27日付の「キーウ・インディペンデント」では、従軍中の父親が「息子はウクライナの愛国者だ」とのべたと報じており、スツェリニコフのように、過激なナショナリストへの復讐として殺害に至った可能性もある。
今年3月には、別のナショナリスト、デミャン・ハヌルがオデーサ中心部で拳銃によって殺害された。彼は、2014年の「ユーロマイダン革命」(本当はクーデター)に参加し、前述した5月2日にオデーサで起きた親ロシア勢力との衝突にも加わった。最近では、ウクライナ支持の集会や軍隊支援の募金活動に積極的にかかわり、ロシア・ソ連の記念碑撤去運動を推進していた人物だ。
容疑者として、46歳のウクライナ人兵士が逮捕されたが、先の9月3日付の長文記事では、警察は①ロシアの関与、②ハヌルの政治的・社会的活動、③個人的な対立――という三つの可能性で捜査が継続中である、と報道されている。つまり、スツェリニコフのケースのように、過激なナショナリストへの復讐として殺害された可能性を現段階で排除できないのである。
このように、ウクライナの内情をつぶさに観察すると、ゴリゴリの右翼への復讐心を燃え上がらせている国民がいることがわかる。ゴリゴリの右翼はもちろん、ウクライナ戦争を継続し、領土奪還やロシア殲滅(せんめつ)を夢みている。そうした右翼に引っ張られるかたちで、ゼレンスキーも戦争継続に傾きつづけている。もし停戦・和平に応じれば、ゴリゴリの右翼から命を狙われることになるだろう。
他方で、いつまでも戦争をつづけようとするゴリゴリの右翼への反感も着実に広がっている。それが復讐の連鎖を引き起こしているのかもしれない。
こうしたウクライナの内情を知れば知るほど、2013年ころから西部でナショナリズムを煽動しヤヌコヴィッチ政権の転覆(クーデター)を支援した、当時の責任者ヴィクトリア・ヌーランド国務省次官補の罪深さを感じる。彼女を支えたジョー・バイデン副大統領やバラク・オバマ大統領の責任も重い。
さらに、ここで紹介したようなウクライナの内情を報道しないまま、すべて「ロシアが悪い」かのような報道をつづけている、日本を含む西側のオールドメディアもまた、重罪を負っているように思われる。どうか、「ほんとうのウクライナ」を知ってほしい。



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