
「人間以外は同種間の殺し合いをしない」という誤解!群れで暮らす生物における「自然淘汰と進化」のはたらきを考えてみると

同種の個体を殺すのは人間だけ!?
「同種の個体を殺すのは人間だけである。人間以外の動物は、たとえ同種の個体同士で争いになっても、相手を殺すまで闘うことはない。残忍に思えるオオカミも、敵わないと思って相手が服従のポーズを取れば、そこで闘いは終わる。こういう行動は、種を存続させるために進化したものである」

私が学生だったころの話だが、動物の行動についてこのように教わった。もちろん、これは正しくない。同種の個体同士で殺し合いをする動物はたくさんいる。
たとえば、サルの仲間ではハヌマンラングールやチンパンジーなど、その他の哺乳類ではライオンやイルカなど、鳥の仲間ではカモメやレンカクなど、昆虫ではタガメやミツバチなどで、同種の個体を殺す行動が観察されている。
オオカミの群れとよそ者のオオカミ
また、オオカミといえば、人類学者であるパット・シップマン(1949‐)が、アメリカのイエローストーン国立公園で目撃した例が忘れられない(*1)。
8頭のオオカミの群れが、死んだバイソンを食べていた。それからオオカミの群れは、川へ下りて、水を飲んだり、泳いだり、うたた寝をしたりしていた。

そのとき、まだオオカミの群れが川から立ち去っていないのに、よそから来た1頭のオオカミが、バイソンの死肉をあさり始めた。それに気づいたオオカミの群れが、よそ者のオオカミに突進した。よそ者のオオカミは逃げたが、それでもオオカミの群れは諦めずに追いかける。その追跡は執拗で、群れを先導するオオカミを交代させながら、追いかけ続ける。
ついに、群れのオオカミの1頭が、よそ者のオオカミの尾に食らいついた。そして、取っ組み合いが始まると、群れの他のオオカミも、取っ組み合いに飛び込んでいく。現場は藪の陰になって見えなかったが、獣毛が激しく舞い上がった。
その後、よそ者のオオカミがふたたび立ち上がることはなかった。おそらく、体をバラバラに食い千切られてしまったものと思われる。
階級に別れて暮らすハダカデバネズミの群れ
私が学生のころに教わったことの最初の部分、つまり「同種の個体を殺すのは人間だけである」という主張が間違いであることは、広く認識されつつあるようだ。しかし、教わったことの最後の部分、つまり「種を存続させるために進化した」という主張が間違いであることは、今でもあまり認識されていないのではないだろうか。
たしかに、動物の行動のなかには、自分のためではなく、あたかも種のために行っているように見えるものがある。
たとえば、アフリカのサバナの地下にトンネルを掘って棲んでいるハダカデバネズミは、群れのなかに階級があることで知られている。子を産むことができる「女王ネズミ」と、女王ネズミと交尾する「王様ネズミ」、そして餌の採取や子の世話やトンネルの掘削や警備を行う「働きネズミ」である。

数十匹(多いときは200匹以上)からなる群れのなかに、女王ネズミは1匹、王様ネズミは数匹いるだけで、他はすべて働きネズミである。働きネズミは繁殖せず、ひたすら女王と王様に尽くして一生を終える。どう考えても、自らを犠牲にして種のために尽くしているとしか思えない。それにもかかわらず、こういう行動は、どうやら種のために進化したのではなさそうだ。
ハダカデバネズミの自己犠牲と「種のための進化」
なぜこういう行動が進化したか、についての説明の一つは、血縁関係の側面からなされる。自らは子を残さず女王や王様に尽くす、という働きネズミの遺伝子は、子を通じて子孫に伝えることはできないので、血縁者を通じて子孫に伝えられる。
その際に、働きネズミとその血縁者(女王ネズミと王様ネズミ)の損得が問題になる。
働きネズミは血縁者に尽くすのだから、いわば損をする。反対に、血縁者は得をする。このような状況で、働きネズミが「損をした分」を、血縁者の「得をした分×血縁度」が上回れば、そういう遺伝子は増えていく、つまり、そういう行動は進化する、という説明だ。

ちなみに、血縁度というのは遺伝的な近縁度を示す尺度で、私たちヒトの場合、「親子」や「兄弟姉妹」の血縁度は2分の1で、「祖父母と孫」や「おじ・おばと甥姪(おいめい)」の血縁度は4分の1になる。
ただし、ハダカデバネズミの行動は、血縁関係だけで、すべてが説明できるわけではない。たとえば、他の個体の労働を邪魔するハダカデバネズミがいる。そういう行動は群れ全体の利益にならないと考えられるので、ますます「種のための進化」という考えは旗色が悪くなる。
ところで、こういう血縁関係の説明に納得したからといって、「種のための進化」を否定する気分にはならないかもしれない。一つの現象に複数のメカニズムが働いていたって、少しもおかしくないからだ。利他行動は、遺伝子のレベルで説明できると同時に、種のレベルでも説明できる可能性も残っているのである。
「集団」の進化のスピードはとても遅い
ただし、「種」という概念はややあいまいなので、ここでは「種」の代わりに「集団」を考えることにする。つまり、自然淘汰は集団のレベルでも働くかを検討するわけだ。
して、先に結論を言ってしまうと、自然淘汰は集団レベルでも働くことはあるけれど、その力は非常に弱く、ほとんどの場合ゼロと考えてよいのである。
その理由はいくつかあるのだが、ここでは単純なケースを例にして2つだけ説明しよう。
1つ目はスピードがとても遅いことである。
仮に、種がいくつかの集団にきっちりと分かれているとしよう。その集団は絶滅することもあるし、新しい集団を生み出すこともある。新しい集団を生み出すというのは、集団の一部の個体が別の場所に移住して、そこで新しい集団(子集団)を形成することだ。
こういう集団に、自然淘汰が働くことを考えよう。この場合、より多くの子集団を生み出す集団ほど、適応度が高いと表現される。つまり、個体の適応度は作った子の数だが、集団の適応度は作った集団の数になる。
しかし、集団ができてから絶滅するまでには時間がかかる。それは個体の一生よりもはるかに長い。また、新しく集団ができることも、それほど頻繁にあることではないだろう。個体はしょっちゅう新しい個体を作るけれど、それに比べたら新しい集団ができることは滅多にないと言ってもよい。

一方、自然淘汰が作用する速さは、世代交代の速さに左右される。世代交代が速いほうが、自然淘汰が速く働くのである。したがって、個体に作用する自然淘汰は、集団に作用する自然淘汰より、はるかに速く働くと考えられる。そうであれば、集団に作用する自然淘汰は、個体に作用する自然淘汰に圧倒されて、ほとんどかき消されてしまうはずだ。
「集団」の数が少ない
2つ目の理由は、集団の数が少ないことだ。個体の数に比べて、集団の数はずっと少ない。そのため、自然淘汰はあまり働かないと考えられる。
サイコロを投げて1が出る確率は6分の1である。だからといって、サイコロを6回投げれば、かならず1が1回出るとは限らない。1回も出ないかもしれないし、3回出るかもしれない。3回出た場合、1が出た割合は2分の1になる。
しかし、サイコロを1万回投げれば、1が出る割合はかなり6分の1に近くなるだろう。1万回投げて、そのうちの半分、つまり5000回が1だったら、誰でもびっくりするはずだ。そんなことが起きる確率は、1兆分の1よりも1京分の1よりも、ずっとずっと小さいからだ。

このように、サイコロを投げる回数が多ければ、1が出る割合は6分の1からあまり外れないけれど、投げる回数が少なければ、6分の1から大きく外れることもある。つまり、回数が少なければ少ないほど、偶然の作用がより強く働くのである。
進化のメカニズム「遺伝的浮動」とはなにか?
進化のメカニズムには、自然淘汰のほかに遺伝的浮動もある。
遺伝的浮動は遺伝子頻度が偶然に変化することなので、いわば進化における偶然の作用といえる。個体の数が多いときは、遺伝的浮動より自然淘汰のほうが強く働くので、生物は着実に、環境に適応するように進化していく。
しかし、個体の数が少ないと、遺伝的浮動が強くなって、自然淘汰の作用はかき消されてしまう。こういうときには、生物は環境に適応しないように進化することもあるわけだ。
集団の数はかなり少ない。そのため、自然淘汰はあまり働かないと考えられる。偶然の力に飲み込まれてしまうからだ。一方、個体の数は集団の数よりはるかに多いので、個体レベルの自然淘汰は着実に働き続けるはずだ。

「集団のための進化」は非常に起こりにくい
さきほど述べたように、「集団のための進化」に否定的な根拠はこれだけではないが、この2つから推測するだけでも、「集団のための進化」は非常に起こりにくいことがわかるだろう。そして、「種」は「集団」よりたいてい大きく、自然淘汰はさらに働きにくい。そのため、「集団のための進化」は事実上起こらないと考えてよさそうだ。
一見したかぎりでは、種のために進化したと思える行動はたくさんあるけれど、そういう行動に出会ったときは、まずは立ち止まって冷静に検討してみることが必要ではないだろうか。
(*1)Pat Shipman(2015)The Invaders(Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts).(邦訳『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』河合信和監訳、原書房)
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