日本において以前は、農村共同体が一つの生産体、今の企業のようなモノだったと思います。
農村共同体が地域の主体であり、自立して自治を行い、その地域を支え、これが集まって国が形成されていました。このような社会モデルは縄文文明以降、戦後まで続いていました。
現在は近代化という名の下に、残念ながら農村共同体はほとんど無くなってしまいました。
これからの社会を考える上では、各地域も都市でも、生産体や企業が自立して、地方自治を担う事が求められているように思います。
国としての政治課題は限定し、このような生産体が自立し、地域の自治を行うような社会モデルが日本には最も適しているのではないでしょうか?
このようなモデルの事例の記事を紹介します。
事業を通じて社会を変えるソーシャル・ベンチャーは日本の伝統。
事業を通じて社会を変える
■1.「俺たちがやらなくちゃ、ほかに誰かいるのかい?」
駒崎弘樹青年は、高校在学中に一年間アメリカに留学した。留学先は太平洋海岸北辺にあるワシントン州の空港から車で数時間もかかる人口5千人ほどの小さな村だった。日本人は一人もいない。
ホストファミリーの白人家庭はキリスト教の中でも最も戒律の厳しいモルモン教徒で、酒、たばこはおろか、コーヒー、紅茶も飲まず、テレビもなかった。
それだけに人は温かい。ホストファミリーの息子デイビッドは、自分の家の玄関から道路までの5メートルほどの歩道をショベルで雪かきする。自分の家の分を終わると、2軒隣の家の通路を同じように雪かきし始めた。
雪かきに疲れて、雪の上に座り込んでいた駒崎青年が「おいデイビッド、何しているんだよ。そこは俺たちの家じゃないだろう?」と聞くと、「このムーアさんは一人暮らしのお婆ちゃんで、足が悪いから雪かきができないんだ。俺たちがやらなくちゃ、ほかに誰かいるのかい?」と、さも当たり前のように答えた。
自分とたいして年も変わらない同年世代のやつが、当然のように地域に貢献している! 駒崎青年は軽い羨望と嫉妬を覚えた。
日本の同級生たちは「いい大学に入って、いい会社に勤める。そのためにはどの予備校がいいか」などという話ばかりしていた。そうして有名大学に行ったやつらが地下鉄でサリンを撒いて罪もない人々を襲っていた。
そんな日本から逃れたいという気持ちでアメリカまで留学してきたのだが、駒崎青年はこの村で、自分は日本のために何ができるのか、などと考え出した。
■2.「日本社会の役に立ちたい」
日本に戻り、ある大学に進学した駒崎青年は、情報技術(IT)に強い学生たちが始めたベンチャー企業に誘われ、経営学を専攻していることから、社長に就任した。この頃は、多くのITベンチャーが株式公開して、創業者の青年社長が数十億円の資産を得て、芸能人やモデルと華やかな交流をしたりして、マスコミに取り上げられていた。
そうした同年代の成功者たちを見ながら、駒崎青年は「自分はどうしていきたいのだろう」と考えた。六本木ヒルズの高級マンショに住みたいわけでもないし、高級外車にも興味がなかった。彼らと話すと、「これからは中国だ」とか「携帯だ」とか言うが、それにも違和感があった。
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お金のなるところに羽虫のようにブンブン群がるのは、ビジネスだから、ある意味では当然だ。しかし、ビジネスというのは本来、手段であるはずだ。目的は、誰かが満足したり、足りないところが埋まったり、困っていることが解消されたり、そういったことではないのだろうか。[1,p31]
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こう考え出すと、自分のやっている事業の意味が、よく分からなくなってしまった。それまで一日15時間働いても平気だったのに、急に疲れを感じだした。
「これではいけない。自分のなかできちんと整理しなければ」と思い、休みを数日とり、山奥の温泉に逃げ込んだ。そこで、じっくりとノートにあれこれ書きながら、考え始めた。思い出したのが、アメリカ留学時代だった。「日本社会の役に立ちたい」とノートに書いた。
■3.「事業によって社会問題を解決する」
しかし、社会の役に立つには、どうしたら良いのか。高級官僚や、政治家を思い浮かべても、新聞を騒がせていた汚職事件がすぐ浮かんできて「違うな」と思った。それなら社会事業のボランティアか。ボランティアでは、どうやって食べていくのか。
パソコンに向かって、「社会」「問題」「職業」などという検索語を入れてネットで調べてみると、アメリカのある「NPO」(Not-for-Profit Organization、非営利団体)のサイトに行き着いた。
NPOという言葉は聞いたことがあった。阪神大震災で自治体の機能がマヒした時に、民間有志が物資提供や炊き出しを行い、その後、そうした活動を行うためのNPO法人という組織が日本でも爆発的に増加した。
しかし、アメリカのNPOのウェブサイトは、駒崎青年たちのITベンチャーよりも格好良かった。NPOと言ったら、素人が汚い格好をして汗をかきながら、無料奉仕で頑張る、というイメージだった。しかし、そのサイトを見ると、CEO(最高経営責任者)やマーケティング・ダイレクター(営業担当役員)がいる。
アメリカのNPOも昔はボランティア団体が大部分だったが、政府の補助金が絞られるようになると、「事業によって社会問題を解決する」方向へとシフトしていった。こういう形をソーシャルベンチャー(社会問題解決型ベンチャー企業)と呼ぶようになった。
駒崎青年は、このソーシャル・ベンチャーこそ、2年間、学生ITベンチャーをやってきた自分にできる「日本社会に役立つ」方法ではないか、と思った。
■4.「病児保育」問題
「日本社会の役に立つ」とは言っても、それではどういう問題に取り組むのか。そこで思い起こしたのが、駒崎青年が母親から聞いた話だった。
母親は下町でベビーシッターをしていたが、ある女性客から「今日で最後にしてください」と言われた。事情を聞くと、先月、子供が熱を出した。保育園では37度5分以上の熱のある子は預かってくれない。しかたなく1週間ほど会社を休んだら、会社が激怒して、解雇された、という。
いろいろ調べていくと、「子供が病気になると保育園で預かってくれずに、母親が会社を休むしかない」という実態は、病児保育問題と言って、実は多くの働く母親が悩まされていることが分かった。
たとえば「仕事と育児の両立で最も悩むことは?」というアンケート調査では「子どもの病気で遅刻や欠勤をすることがあり、周囲に迷惑をかけてしまう」との回答がトップの72%だった。
また全国に保育園は約2万9千もあるが、そのうち病気の子どもを収容できる施設は約500カ所、2%にもならない。
■5.全国の9割の病児保育施設が赤字
なぜ、病児保育をする保育園がこんなに少ないのか。駒崎青年は小児科の病院で、病児保育も行っている施設に聞きに行った。病児保育事業は赤字で、小児科の黒字でなんとか穴埋めをしていた。
病児保育の収入の多くは自治体からの補助金であり、利用者からいただく料金は、1日10時間以上預かって、2千円にしかならない、という事が分かった。東京でベビーシッターを頼むと、1時間2千円ほどにもなるのに、これでは安すぎる。
なぜこんなに安い価格にしているのか、と聞くと、補助金を貰っている区から「その値段でやれ」と言われている、という。補助金を貰うために、安い価格設定にして、それで補助金でも埋められないほどの赤字になっている。
この悪循環で、全国の9割の病児保育施設が赤字になっているという。これでは病児保育をする施設が増えるわけがない。事業として成り立つ病児保育のあり方を駒崎青年は探った。
■6.こどもレスキュー隊
ここから、駒崎青年の七転び八起きの奮闘が始まるのだが、その詳細は[1]に譲る。たどり着いた形だけ紹介すると、施設の費用を抑えるために、自分の家で病気の子どもを預かってくれるおばちゃんたちを「こどもレスキュー隊員」として集めることにした。「隊員」の第一号には母親を拝み倒してなって貰い、さらにビラ貼りや新聞チラシで、なんとか10人ほどに集まって貰った。
そして、病児の手当のために、近所の小児科に頼んで、レスキュー隊員が電話で相談に乗って貰ったり、緊急の場合は子どもを連れて行く事とした。さらにレスキュー隊員たちには、病児の扱いについて研修を受けてもらった。
問題は料金だった。子どもが熱を出すのは冬が多いが、預かった時間分だけの料金請求では、冬だけピーク需要が来て、他の季節はあまり収入がない、ということになってしまう。そのために一工夫して、保険のような掛け捨ての月会費制にした。こうすれば、レスキュー隊員の収入も安定する。
会社名はいろいろ考えた末、「フローレンス」とした。近代看護教育の母と呼ばれるナイチンゲールのファースト・ネームである。
このような準備を整え、平成17(2005)年4月に事業を始めることとして、ホームページを作り、説明会を開いた。契約世帯数は数ヶ月で40世帯弱に達し、そこで能力一杯になってしまうので、受付をストップした。その後も利用希望者は増え続け、250世帯も順番待ちする事態となった。
■7.「私は、感動しているんです」.
サービス開始から数ヶ月経った頃、ある利用者から電話があった。従来は子どもがよく熱を出して、そのたびに休んでいたので、パートのまま、重要な仕事を任せて貰えなかった。それがフローレンスに子どもを預かって貰うようになってから、ほとんど休まなくて済むようになったので、パートから正社員になれた、という。駒崎青年は受話器を置いたとき、ぽろぽろ涙が出ていることに気づいた。
また、別の利用者は入会金1万円なのに、10万円振り込んできた。間違えたのだろうと思って、電話すると「それは寄付です。私は、感動しているんです」と言う。こう説明してくれた。
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私は以前、大きな病院に勤める医師でした。長く働いていました。でも、子どもができたときに「いつやめるの?」と言われたんです。医療界は、本当に遅れていて。いまでも、医師免許があるのに医者をしていない母親ドクターはたくさんいます。医師不足が叫ばれているにもかかわらず、です。
医師の母親にとって、病児保育はライフラインです。手術をしなければならない日に子どもが熱を出したら、一巻の終わりです。休もうにも休めませんし。それがつづいたら、やはり医師をやめるしか
ありません。そうしたなかで、リスクの大きい病児保育の事業を立ち上げられたフローレンスさんに、寄付をしたいと思ったのです。もらってください。[1,p207]
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病児保育事業はマスコミの注目を浴びて、新聞やテレビでも報道され、見学に訪れる人も多くなった。その中で厚生労働省の女性官僚が3人の部下を連れてやってきた。いろいろ説明を受けて帰って行ったが、その後、音信なし。2ヶ月ほどして、日経新聞に厚労省がフローレンスの真似をして、病児保育施設を助成するという記事が出ていた。
「こちらに一言くらいあっても良さそうなものだ」と駒崎青年は激怒したが、介護業界の先輩から「国にパクられて一人前。利益のためでなく、社会問題の解決のためにやっているのだから、いくらでもパクらせてあげればいいじゃないの」とたしなめられた。
その後、厚労省から委託を受けて、病児保育を始めようとした多くの団体が「ノウハウが分からず、厚労省も教えてくれないので困っている」と見学、相談に来るようになった。そこでフローレンスは経済産業省のバックアップを得て、全国の事業者をサポートする仕組み作りに乗り出した。
こうして病児保育という問題を解決する事業が全国に広がっていった。
■8.ソーシャル・ベンチャーはわが国の伝統
病児保育については「病気の時くらい母親が子どもの面倒をみるべきだ」という根強い批判がある。もっともな意見だが、そのためには、職場の方で、働く母親が子どもを看病する時くらい、仕事を休める仕組みを持たなければならない。駒崎青年はそのために企業に対してコンサルティングを行う取り組みを始めた。
伝統的な日本社会では、農家でも商家でも母親が働いており、子育てはお祖母さんや近所のおばさんたちがサポートをしてきた。病児保育もまたその伝統に連なるものとも考えられる。
また近所の子育て経験あるおばさんたちが、若い女性をサポートしたり、子育ての相談に乗ることで、育児のレベルアップも図れるし、近所の共同体の強化にもつながる。
駒崎青年は有名になるに従って、政治的発言もするようになり、その中には弊誌として賛同できないものもある。ただ「日本の社会の役に立つ」事を志して、社会問題を事業を通じて解決するというアプローチには共感する。
日本最初の株式会社の一つとも言われる坂本龍馬の亀山社中は、海洋立国と海軍力の強化を目指したもので、ソーシャルベンチャーの元祖とも言えるだろう[a]。
また企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献して日本型資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一も、金儲けではなく、日本の各産業分野の近代化を志していたので、ソーシャル・ベンチャーの巨人である。[b]。
煎じ詰めれば、わが国の先人たちは深く国を思い、国家公共のための手段として企業を興した。こう考えると、社会問題の解決のために事業を興すことは、わが国の伝統そのものであり、何ら新しいことではない。それが新しく見えるのは、それだけ現代日本人の国を思う気持ちが薄れてしまった、ということであろう。
先人の伝統を受け継いで、国家社会の問題を解決すべくいろいろな分野で起業に取り組む青年たちが数多く現れることを期待したい。
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