日本人の価値観、世界観は他国と比較して特殊なモノなのかも知れません。
戦時中であっても、敵であっても、規範や秩序を重視し、他者にも思いを寄せることが出来る。
このような実例の記事を紹介します。
今回の記事は、偉人のお墓巡り特集です。
そして、長い記事ですが本当に日本人なら知っておくべき内容なので、最後まで読んでいただくようお願いいたします!!!
やってきたのは、埼玉県川口市にある薬林寺というお寺。
恐らく地元の人しか知らないような寺だと思うこの寺に、多くの日本人に知ってほしいとある偉大な男が眠っています。
その男の名は、「工藤俊作」。
山形県の出身で、広島県の江田島にある海軍学校を卒業し、駆逐艦「雷(いかずち)」の船長になった方です。
私の家は神奈川県の川崎市ですが、工藤俊作のお墓参りをすべく、埼玉県の川口市までやって来ました。
そして、こちらが工藤のお墓。
先人として立派なことをして下さった工藤俊作に、祈りを捧げてきました。
では、工藤はどんなことを成し遂げたのか?
それは、日本人の誰もが知らなかった、世界の海軍史の中でも歴史に残る感動の物語だったのです。
その物語を以下で紹介したいと思います。
1941年12月8日に起こった太平洋戦争。
1945年に終戦し、日本は敗戦国となりました。
ハワイの真珠湾から始まり、ガダルカナル島、サイパン島などのマリアナ諸国、ミッドウェー、硫黄島などなど様々な場所で様々な物語があったこの戦争。
そんな戦争中の1942年、実はインドネシアのスラバヤ沖という場所。
ここでは、日本軍の攻撃により、イギリスの軍艦である「エンカウンター」が撃沈したのです。
船に乗っていた船員たちは海中に放り出されたのです。
イギリス兵たちはボートや木材にしがみつき海を漂流する羽目に。
その際には、船から漏れた重油によって体が汚れたりもする状況。
仲間の船が助けにくる気配もなく、疲弊し切った隊員たちの中には、自殺を図る人も現れたという。
そんな最中、漂流すること21時間が経ったとき、彼らの視線の先に巨大な軍艦が見えたのです。
彼らは、救助が来たと思った。
ところが、その船は敵国である日本の船である駆逐艦「雷」だったのです。
その雷の船長は「工藤俊作」という男。
身長185cm、体重90kg、堂々たる体格であるが、非常に温厚な性格であった。
あだ名は「大仏」。
海軍時代、江田島の海軍学校で鉄拳制裁を禁じた「鈴木貫太郎」元首相のように、艦長であった時に、船員に対して、鉄拳制裁は禁止した。
部下からの評判も良く、工藤が艦長だった戦艦はいつもアットホームな雰囲気だったという。
イギリス兵たちは、日本戦だと思った時は、撃ち殺されるだろうと思ったそうです。
駆逐艦「雷」では、漂流者のイギリス兵と距離四千まで近づいたところで、二番見張りと四番見張りから連絡が入る。
「浮遊物は漂流中の敵らしき」「漂流者四百以上」
実際に漂流していたのは422名のイギリス兵だった。
彼らを殺すかどうするかは、工藤の判断次第。
このスラバヤ沖は、海鮮の最中でもあるため、救助をしている最中に連合国に攻撃される可能性が十分にある危険な場所。
そして、工藤艦長は叫びました。
「救助!」「取り舵いっぱい」
そして雷は救難信号の旗を上げた。
ここから、世界の海軍史上でも極めて異例となる救助劇が始まったのです。
イギリス海軍達は、ボートや木材などにしがみついているものの、船の重油などで衣服が汚れてもいた。
雷の乗組員たちは、先に自力で上がれるものを上げ、重傷者は後で救助しようと考えていた。
しかし、イギリス兵たちは先に重傷者を上げるように言ったのです。
ところが、イギリス兵たちは、先に負傷者を救助するようにと要求してきました。
重傷者を引き上げつつ、ロープを海中に投げてイギリス兵たちに握ってもらう。
しかし、彼らは、相当疲弊しており、ロープを握れないほどだった。
そのため、乗組員が竹竿を下ろし、それに抱きつかせておこうとした。
しかし、竹竿に触れると、イギリス兵は安堵したのか力尽きて海の中に沈んでいった。
すると、この光景を見かねた船員達は独断で海中へ飛び込み、立ち泳ぎをしながらイギリス兵たちを救ったのです。
実際の救助の様子。
ここまでくると、もう敵も味方もなかった。
とにかく、雷の船員たちはあらゆるものを駆使してイギリス兵の救助を行った。
この救助劇は、イギルス兵の日本人に対する印象をガラリと変えた。
雷に引き上げられたイギリス兵たちは、引き上げられたのはいいものの、まだ警戒心が完全にとけたわけではない。
「もしかしたら、この後何かひどい目にあわされるのではないか」、と。
しかし、工藤は彼らにこう言ったのである。
「諸官は勇敢に戦われた。
今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。
私は英国海軍を尊敬している。
ところが、今回、帰国政府が日本に戦争を仕掛けたことは愚かなことである。」
乗組員は、イギリス兵が重油で真っ黒になった体を、木面の布とアルコールで拭き取り、また、シャツ、ズボン、運動靴、ミルクやビールなども支給した。
その後、終日、雷は海上に浮遊し続ける生存者を捜し続け、たとえ遠方に1人でも人がいたら艦を近づけて停止させ救助をした。
その後、イギリス兵たちはオランダ病院船である「オプテンノート号」に引き渡された。
これにより、世紀の救助劇は幕を閉じたのです。
その後、工藤は「雷」を降りて、最終的には埼玉県の川口市にて余生を過ごした。
戦争で多くの仲間を失った工藤であるが、自身は生き延びたのです。
また、 駆逐艦「雷」は、その後連合国軍にやられ沈没をしてしまう。
余生は、海上自衛隊や江田島海軍学校時代のクラスが在籍する大企業からの招きなどすべて断っていた。
工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや部下の冥福を祈って仏前で合掌していたという。
一方、その後、工藤の消息をずっと探し続けた一人の老人がいた。
彼の名は「サムエル・フォール」。
彼は、雷によって救助されたうちの一人でした。
何としても、死ぬまでに命の恩人である工藤に一度でいいからお礼を言いたかったのだそうです。
あの救助された日以来、フォール氏は1日として工藤を忘れた日はなかったという。
そのため、海上自衛隊や英国海軍に正式に調査を依頼。
しかし、なかなか工藤の消息を掴むことはできなかった。
ところが、その消息をつかんでくれた方がいた。
その方は、「恵隆之介」元自衛艦である方で、最近では「そこまで言って委員会NP」「チャンネル桜の番組」によく出演している方。
そして、 恵さんのおかげで、フォール氏は工藤のお墓の場所を掴むことができたのです。
ちなみに、この救助劇の話は、実はフォール氏がいなければ誰もが知らずに封印されてしまっていた可能性があるのです。
実は工藤は、敗戦や仲間を失ったショックからか、自身の海軍に関すること、そしてこの救助劇に関しては身内にさえ話さなかったという。
そして工藤は、1979年1月12日、78歳で生涯の幕を閉じた。
そして、2007年12月、ついにフォール氏は念願の工藤の墓にたどり着いたのです。
フォール氏は足が不自由なため、車椅子で墓前に達したが、献花の時には満身の力を振り絞って立ち上がり、工藤艦長に語りかけたという。
66年ぶりに命の恩人に対面した彼は、いったい何を思ったのか。
その後、フォール氏は2013年2月、95歳の年齢でこの世を去った。
本人と対面はできなかったですが、お墓参りができて本当に良かったです。
私がもし映画監督だったら、工藤俊作の物語をぜひ映画化したい。
杉原千畝さんの物語が映画化されるし、工藤の物語も映画化して、多くの方に知ってもらえたら本当にうれしいです。
この話は、昔にフジテレビの番組である「奇跡体験アンビリバボー」で放映されたことにより、知ることになりました。
その後、今回の記事を作るにあたり、惠隆之介さんが書いた「敵兵を救助せよ」の本を読み、記事を書く参考にさせていただきました。
この武士道の精神は、今を生きる私たちに必要なのではないかな~~と思う今日この頃です。
最後まで目を通していただき、ありがとうございました。
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