
JOG(1455) アイヌよし、和人よし、日本よし ~ 北前船商人たちの三方よし経営
北前船商人たちはアイヌに食糧や生活必需品を提供し、内地では蝦夷地産物で衣食住革命を起こし、ロシア南進への防波堤となった。
■1.「アイヌよし、和人よし、日本よし」を実現した北前船商人たち
伊勢: 花子ちゃん、歴史の授業で江戸時代の北前船については、もう習ったかな?
花子: ええ、大阪から瀬戸内海を経由して日本海に出て、北海道まで行っていた輸送船ですね。各地で特産品を仕入れて北海道で売り、帰りには北海道の海産物などを仕入れて、また内地で売りさばいていた船だと習いました。

伊勢: そう、最近出た中村恵子先生の『北方防衛と開拓の魁(さきがけ)─ 蝦夷地を舞台に暮らし革命を起こし領土を守った商人』では、その北前船が、いかにアイヌと内地の経済的発展に貢献し、しかも北海道をロシアの南進から守るのに役だったか、ということが、詳細な史実で描かれている。
蝦夷地との交易を始めたのは近江商人たちで、彼らがまさに「アイヌよし、和人よし、日本よし」の三方よしを実現したんだ。
中村先生の前作『江戸幕府の北方防衛 ─いかにして武士は「日本の領土」を守ってきたのか』は、以前、紹介したけど、今回はこの新著に基づいて、北前船商人たちの活躍の跡を見てみよう。
__________
JOG(1322) 北辺の歴史戦
~ 北海道を日本から奪おうとする謀略と戦う
北海道、千島列島、樺太を開発、防備した先人たちの苦闘を偲ぶ。
https://note.com/jog_jp/n/n0d40015825e9?app_launch=false
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■2.アイヌよし: アイヌの生活を支えた和人の品々
花子: 北前船商人たちは、アイヌの人たちにどんなものを供給していたんですか?
伊勢: 和人がアイヌに供給した商品は、生活必需品から嗜好品、道具類まで多岐にわたっていたんだ。これらは主に、アイヌが狩猟や採取で得た産品、たとえば鷹の羽、獣皮、干鮭などとの物々交換の形でもたらされた。
まず食料品だが、米、酒、塩が代表的だ。これらはアイヌの食生活を支える上で非常に重要な役割を果たした。
衣類では、木綿の衣服や古着が供給された。木綿は原料の綿花が当時の北海道では寒くて栽培できないもので、動物の毛皮などに比べれば、軽くて肌触りが良く、通気性に優れ、洗濯がしやすい。特に色染めが容易なので、和人の古着はアイヌの間で大変な人気があり、独自の文様を刺繍して「おしゃれ着」として着用されたんだ。
花子: へえ、おしゃれにも使っていたんですね!
伊勢: そうだね。それから鉄器や道具類も重要だった。アイヌは交易で得た鉄鍋を調理に使用していた。また、狩猟や生活に不可欠な斧、刀子(とうす)、小刀などの鉄製品も重要な供給品だった。
花子: 道具も和人から手に入れていたんですね。
伊勢: ああ。さらに漆器も供給されていた。和人が作った漆器、つまり木皿、椀、匙などだ。特に酋長は、富と権力の象徴として、和人が作った漆製の行器を愛好し、家宝のように大切にした。これらの中には、輪島塗の職人に発注されたものもあったらしい。
花子: 輪島塗まで! すごく大切にされていたんですね。
伊勢: そのとおりだ。他にも嗜好品や装身具として、たばこのほか、首飾り(タマサイ)の材料となる青玉(ガラス玉)なども供給された。それから日用雑貨として、縄、筵(むしろ)なども届けていた。
花子: 本当にいろいろなものが供給されていたんですね。
伊勢: そうなんだ。これらの商品供給は、江戸幕府や松前藩がアイヌを「日本人」として保護し、生活を安定させるための「撫育・介抱(ぶいく・かいほう)」と呼んだ政策的な意味合いも持っていたんだよ。
花子: アイヌの人たちの生活を支えるための政策だったんですね。
伊勢: 内地の方でも、北前船交易によって、各地の特産物が育った。今挙げた輪島塗りなどもその一例だし、木綿は大阪や兵庫、岡山などの産品を仕入れたんだ。
■3.和人よし: アイヌから和人に供給した品々
伊勢: 北前船がアイヌの人々から仕入れ、内地で販売した品物は「上(のぼ)り荷」と呼ばれる。それは大きく分けて二つのカテゴリーに分類できる。これらは、本州から運ばれた米、酒、塩、木綿、古着、鉄器などとの物々交換の形で手に入れられたんだ。
花子: 二つのカテゴリーって、どんなものですか?
伊勢: まず一つ目は狩猟産品だ。アイヌの人々が狩猟などで得た産品は、本州で非常に高い価値を持つ貴重な品々だった。具体的には、鷹の羽は武士が用いる矢の材料として重要だった。それから毛皮だが、ラッコ(猟虎)、ヒグマ、鹿、キツネなどの皮が含まれる。鶴も観賞用などの需要があった。
二つ目のカテゴリーは水産物・海産物で、日本の食文化や農業に革命をもたらしたんだ。 まず鮭や干鮭(ほしざけ/からざけ)は重要な食用資源として本州へ運ばれた。それから鰊(にしん)とその〆粕(しめかす)だ。〆粕とは鰊を煮沸して油を搾った後に乾燥させた肥料で、綿花や菜種などの商品作物の肥料として本州の農業を支えた。昆布は全国に広まり、和食の出汁(だし)文化の基礎となった。
花子: 昆布が和食の基礎を作ったんですね!
伊勢: そうなんだ。これらの品々は、本州各地の港で販売され、北前船商人に莫大な利益をもたらした。つまり、北前船の交易はアイヌの人々には生活必需品をもたらし、本州の人々には貴重な食料や肥料、文化的商品を届けた。
その収益のデータが残っているけど、加賀橋立の船主酒谷家の「幸貴丸」の文久4(1864)年の実績では、下り荷(大坂から蝦夷地へ)の利益が約60両に対して、上り荷(蝦夷地から大坂へ)の利益は約2180両。航海諸費用は約200両だから、その半分の100両ずつを上り荷と下り荷の利益から差し引くと、下り荷は40両の赤字、上り荷で2千両以上の黒字となる。
花子: ということは、北前船はアイヌへの食品や生活用品を内地と同程度の値段で供給し、彼らの産品を内地で高く売って、主に利益を上げていた、ということですね。
伊勢: そう、毛皮や鮭、ニシン、昆布などは、蝦夷地では消費しきれないほど大量に採れるので、現地ではそれほどの価値はでないけど、内地にもってくれば、大きな利用価値が出るんだ。
しかも、場所請負人などが、現地でアイヌの人々に漁法を指導し「大網」を導入したことで、鰊の漁獲量は従来の約5倍に跳ね上がった。この大量生産体制が、内地の旺盛な需要を支えたんだ。同時に、アイヌの人々もそれだけ多くの内地の商品を物々交換で、手に入れることができるようになった。
まさに北前船の商人たちは「売り手よし、買い手よし」の交易関係を実現したんだね。
■4.北前船交易がもたらした江戸日本の衣食住革命
伊勢: 実は、花子ちゃん、蝦夷地からもたらされた産物は内地に「衣食住革命」とも呼べるほどの劇的な変化をもたらしたんだ。
まず農業への影響だが、鰊の〆粕は高機能な肥料として極めて重宝され、それまでの干鰯(ほしか、干したイワシ)に代わって、木綿や菜種などの商品作物の増産を支える原動力となった。
〆粕肥料の投入により、それまで寒冷地での栽培が難しかった木綿の生産が急増した。これにより、岡山(倉敷)、三河、播州(兵庫県南西部)、泉州(大阪府南西部)、紀州(和歌山県、三重県南部)、会津などの地域が織物の産地として大きく発展したんだ。
花子: 木綿の産地が生まれたんですね!
伊勢: ああ。さらに木綿を染めるための藍の生産にも〆粕が使われ、阿波(徳島)は全国的なブランド産地となった。庶民の衣服はそれまでの麻から、着心地が良く温かい木綿へと変わった。これが「衣の革命」だ。
鰊そのものや鰊の油は貴重な食料資源として内地へ運ばれた。さきほど述べたように、昆布は全国に広まり、和食の出汁(だし)文化の基礎となった。これが「食の革命」だ。
それから畳の原料であるイグサ(備前早島、備後鞆の浦)や、行灯(あんどん)に使われる菜種(摂津、河内、信州小布施)の栽培も〆粕によって盛んになった。これは「住の革命」だね。
こうして北前船がもたらした蝦夷地の産物は、江戸日本の「衣食住」の革命をもたらした。
花子: 木綿の着物や、畳、和食と、日本人の伝統的な生活スタイルの基礎が、江戸時代に蝦夷地の産物によって築かれたのですね。
伊勢: そうなんだ。さらに北前船がもたらす莫大な利益は、内地の経済を活性化させ、庶民の豊かな消費生活を実現した。たとえば鰊の〆粕は、北前船商人にとって仕入れ値の5倍から10倍で売れる最も利益の大きい商品となり、その利益が国内に循環して、豊かな生活を広げていった。
花子: 蝦夷地と内地が、共に栄えあう関係だったのですね。
■5.日本よし: 漁場開拓による実効支配
伊勢: それだけじゃないんだ、花子ちゃん。蝦夷地での場所毎の交易を担った(場所請負制)商人たちが、ロシアの南進に対する実質的な「防波堤」としても機能していたんだよ。
花子: えっ、商人たちが防波堤の役割も果たしたんですか?
伊勢: そうなんだ。現地でアイヌとともに漁業などを営んで、交易をしているということ自体が実効支配の証拠となる。
たとえば、高田屋嘉兵衛は淡路島の百姓の子として生まれて、何隻もの巨船を保有する船持ち船頭に出世した人物だけど、ロシアに対する北方開発の必要性から、幕命により難所だったエトロフ航路を開拓し、現地で17カ所の漁場開発を進めた。
そしてアイヌの人々に漁法を教え、衣食や漁具を与えるなどして、和人と同等に働ける環境を整えた。嘉兵衛はロシア側との外交危機まで解決しているんだ。
__________
JOG(1102) 高田屋嘉兵衛とピョートル・リコルド(動画+読み物)
~ 幕末の日露外交危機を克服した二人の友情
ロシア軍艦が北方の日本番所を襲った事件から起きた日露外交危機に、二人は立ち向かった。
https://note.com/jog_jp/n/n8ae7858d6409
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
伊勢: 樺太(北蝦夷地)も北方防衛の最前線だけど、ここでも漁場開拓を担った二大豪商、栖原家と伊達家がいた。樺太は本州から距離も遠く、極寒で採算が難しいため、場所請負人のなり手がいなかった。しかも1806年には、文化露寇でロシア船の略奪に遭っている。
両家は採算が合わなくとも、「日本領土を守る」という義侠心から漁場経営を続けた。巨費を投じて、支配人や多くの雇人を送り込み、ロシア人に破壊された建物や倉庫を再建し、48カ所もの漁場を開拓した。彼らの存在が日本の実効支配を支え、ロシアに対する実質的な防波堤となっていたんだ。
花子: 現地で商売をすること自体が、日本の領土の証明になるんですね。
■6.防衛も担っていた商人たち
伊勢: 場所請負をした商人たちは商売だけでなく、行政や防衛活動の第一線を担っていた。たとえば、次のような防衛義務が課せられていた。
まず異国船の監視と通報、つまり外国船を発見した際の急報義務だ。それから烽火(のろし)台の整備で、異変を蝦夷地行政の中心である松前まで伝えるためのネットワークの構築だ。
さらに軍事物資の備蓄と供給も義務付けられていた。警備兵のための宿泊施設の提供、軍需品の輸送、さらに松明(たいまつ)や草鞋(わらじ)、兵糧米の備蓄など。
北前船商人たちが、商業の利便性向上だけでなく、国防上の要請から自費で道路や橋を整備した例もある。札幌の西80キロほどのところに、日本海側に大きく突き出た積丹(しゃこたん)半島があるけど、その北側に余市町、南側に岩内町がある。両方とも北前船の寄港地だったけど、それぞれの開祖と呼ばれる場所請負人がいる。
「余市町の開祖」が1825年に場所請負人となった林長左衛門で、アイヌへの漁業指導や和人の移住受け入れを積極的に行った。「岩内町の開祖」が1823年に場所請負人となった佐藤仁左衛門で、天然痘に罹患したアイヌを救済したほか、天保の飢饉で逃れてきた人々を定住させるなど、地域の福祉に尽力した。
そして、二人は力を合わせて岩内~余市間の山道を自費で開削した。これは幕府の北方防衛方針に基づき、ロシアの南下に対する警備や物資輸送を円滑にするためのものだった。
このように、北前船商人は「経済・行政・防衛」を一体化させた活動を通じて、ロシアの南下という国家的危機に対し、日本を護り抜く役割を果たしたんだよ。
花子: 商人さんたちが、こんなに国を守るために尽くしていたなんて、知りませんでした。本当に立派な人たちだったんですね!
■7.北前船商人たちの貢献を全く無視した歴史教科書
伊勢: しかし、小学校の教科書では、こんな記述をしているものもある。
__________
蝦夷地とよばれていた北海道では、アイヌの人たちが、狩りや漁を行いながら生活していました。松前藩との交易が始まると、アイヌの人たちは、不利な条件の取り引きをしいられたり、自然を荒ら
されたりして、しだいに生活をおびやかされるようになりました。[中村、p307]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
いままでの話を踏まえれば、これがいかに史実を無視した記述か、よく分かるよね。
花子: 三方よしで頑張った商人さんたちの努力を全く無視して、こんな嘘を教えるのは、許せませんね。
伊勢: 教科書の中には、当時の地図で、北海道を内地と違う色分けをして、いかにも日本の領土ではなかったように見せかけたものもある。著者の中村恵子先生は、そうした歴史のねじ曲げとも戦われている。北前船の商人たちの史実を知れば、先人たちの志と苦闘に頭が下げる思いがするよ。



コメント