知っておこう、中国共産党の「沖縄は日本ではない」プロパガンダを、「でっち上げ」と反論するためのこれだけの歴史的事実

これは日本語でしょう
12月2日付の中国国営英字紙「チャイナ・デイリー」は、琉球王国が歴史的に中国の属国だったことや日本による琉球侵略が行われたことを示す「重要な証拠」が遼寧省の博物館で公開されたとの記事を掲載した。公開された「証拠」なるものは、中国の明王朝が1629年に琉球王国に下した勅書の複製だ。
ここには琉球王国が「隣国からの嫌がらせを受けた」ということが書かれている。これは薩摩藩が3000人の兵士を琉球王国に送り込み、琉球王国の上寧王を捕らえた「島津侵入事件」のことを指していると思われる。ただ、「島津侵入事件」が実際にあったのは1609年のことだが、この記事にはなぜか1612年と記載されている。
この事件が起こるまで中国に近い立場にあった琉球王国を、日本が侵略して奪ったものだという解釈が中国でなされている。日本の歪んだ学校教育でもこれに近い感じの教え方が普通だったのではないかと思う。
ところがこの認識は完全に間違っていると言わざるをえない。というのは「島津侵入事件」以前から、沖縄はずっと日本だったからだ。日本に属しているとはいえない独立国だったというのは正しくない認識である。
まず言葉の観点から考えていこう。
よく、沖縄の言葉と日本語は違うという話があるが、そんなことはない。沖縄の言葉の配列は間違いなく日本語の配列であり、中国語のような配列ではない。
確かに沖縄の言葉を本土の日本人が聞いてもなかなか理解できないことから、沖縄の言葉が日本語と大きくかけ離れているように感じるのは自然だが、それは沖縄の言葉が古代大和語の系譜を比較的守っている一方で、標準的な日本語が古代大和語からかなり変わってしまったという事情があるのだ。
例えば、日本語の「いらっしゃいませ」は沖縄の言葉では「めんそーれ」といい、全然違うと感じられやすいが、「めんそーれ」は「参り候え」が訛ったものだ。現代の標準日本語では「参り候え」なんて使わないので、「めんそーれ」が日本語と全然違うと思いがちなのだが、語源を辿ればまごうことなき日本語なのである。古い時代の日本語に近い言葉が、沖縄にはまだ残されている。
「とても」の意味で「しに」という言葉が沖縄で使われることがあるが、これにしても「死ぬほどすごい」みたいなイメージでできた言葉だと言われたら、理解可能になるだろう。
日本語の「ハヒフヘホ」は江戸時代以降現在のように発音されるようになったが、奈良時代には「パピプペポ」のように発音されていた。それが室町の頃に「ファフィフフェフォ」 のように変わり、江戸時代以降は「ハヒフヘホ」に変わった。
この昔の発音の名残が、沖縄の言葉の中には残されていることがよく指摘される。例えば「鼻」を、標準的な日本語では「はな」と発音するのに対して、沖縄では「パナ」とか「ファナ」と発音したりすることもある。こうした話は、言語学では確立されていることなのだ。
そもそも沖縄で沖縄の言葉のことを「しまくとぅば」と言うが、これが「島言葉」なのは、簡単にわかるだろう。沖縄で日本本土の言葉を「ヤマトゥグチ」と言うが、これにしても「大和口」なのだろう。
本土の日本語でも、例えば訛りまくった津軽弁が理解できる人はほとんどいない。理解できなくても津軽弁を日本語ではないとは考えないだろう。沖縄の言葉もそれと似た話であって、沖縄の言葉を日本語と別の言葉だと思う方が間違っている。
そもそも琉球の正史に
言葉だけでなく、民族意識の面でも、沖縄の人たちは本土の日本人との深い関係を感じながら生きてきた。
琉球王朝の正史に位置付けられる歴史書に「琉球国中山世鑑」というものがある。1650年に成立したものだが、ここには琉球国中山の初代王の舜天から27代続く歴代の王の名前が列挙されている。
舜天は1166年生まれだが、この「中山世鑑」には興味深い記述があ1156年に起こった保元の乱で崇徳上皇方は敗北したが、この時に崇徳上皇方に味方していた源為朝が、舜天の父親だとされていることだ。
源為朝は生まれつきの乱暴者で、父親の源為義の手に負えなくなり、九州に追放されたけれども、そんなことでおとなしくなる為朝ではなかった。為朝は手下を集めて暴れ回り、九州一帯を制覇して「鎮西八郎」とも名乗っていた。「鎮西」とは「西を鎮める」で、九州を平定していたという意味だ。
源為朝は保元の乱で敗れた結果として伊豆大島に流されたのだが、ここでまた大暴れして、伊豆諸島を制覇したという豪傑だ。為朝はその後朝廷から追討され、自害したことになっているが、この為朝が本当は自害しておらず、沖縄に逃れたとの伝説がある。そして「中山世鑑」によれば、舜天の父親になったというのだ。だから琉球王朝は源氏の末裔なのだということになっている。源氏は清和天皇から別れてきた血筋だから、舜天は間接的には天皇家の末裔だということにもなる。
ただし「中山世鑑」は信頼できない書籍だということが指摘されている。実際には琉球王国の中で王朝は交代しているのに、あたかも万世一系であるかのように描かれていたりもするのもその一例だ。
だから為朝の話もでっち上げの可能性は高いのだが、この為朝の話が史実かどうかはあまり重要ではないだろう。でっちあげだとしても、こういう話を使うと、沖縄の人たちの心を掴んで権威づけすることができたから、採用されたのである。沖縄の人たちが大和民族を異民族だと考えているなら、作り話の伝説だとしても、こんな話を作るわけがない。
また「中山世鑑」の「琉球開闢之事」に、沖縄がどうやって作られたかの神話が書かれているが、ここに天帝に由来する「天孫氏」が国主の始めになったとの記述もある。これもまた、日本に伝わる天孫降臨神話に倣ったものだろう。
さらに興味深いのは、この歴史書が作られたのは1650年で、「島津侵入事件」が起こった1609年よりもずっと後のことなのである。「島津侵入事件」で琉球王国の人たちの中で、大和民族を侵略してきた異民族として排斥したい気持ちがあるなら、こんな記述をするわけがないだろう。
日本史の中の「島津侵入事件」
さて、「島津侵入事件」が起こった1609年は、徳川幕府が成立していた一方で、未だに大阪城には豊臣家がいた時代だ。ちょっと前まで戦国武将が互いに相争っていた。織田信長の出身は尾張国、徳川家康の出身は三河国というように、琉球国もまたこうした「くに」の一つだった。地理的に特殊な位置にあり、戦国時代の戦乱からは免れていた。それでも秀吉の朝鮮出兵の際には、秀吉の求めに応じて兵糧米の供出に応じている。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、明を従わせようという秀吉の野望と繋がっていて、その通り道として朝鮮を通行しようとして起こったものだが、このため日本と明との関係は悪化し、貿易も途絶えていた。徳川家康は明との貿易再開を目指すのだが、ここで琉球王国をうまく使うことを考えた。
1602年に東北の伊達政宗の領内に琉球の船が漂着した時に、家康は漂着者たちを丁重に扱い、島津氏に付き添いさせて、琉球に送り返した。1605年には松浦鎮信の領内の平戸に琉球の船が漂着した。この時にも家康は漂着者たちを丁重に扱って送り返した。
家康は琉球王国側から感謝の気持ちを伝える何らかのアクションを期待し、これをうまく使って琉球王国を挟んで明との貿易ができるようにしたいと考えていたが、琉球王国側からは何らのアクションもなかった。平戸の松浦氏を介して謝意を表するよう促したが、ダメだった。
こうした中で、琉球王国の問題で常に窓口になっていた薩摩藩が危機感を持った。琉球利権はずっと薩摩藩が握っていたので、これを松浦氏に取って代わられるようなことがあっては困るのだ。そこで薩摩藩の島津忠恒は、返礼使節がやってこない琉球王国の失礼を許すべきではないと幕府に進言し、幕府から琉球王国への出兵を認めてもらった。
薩摩軍は兵士3000名、鉄砲734挺からなり、弓がメインで戦慣れしていない琉球王国には勝ち目はなかった。ほとんど戦闘らしい戦闘もなく、薩摩軍は琉球王国を制圧した。この結果、琉球王国の尚寧王と重臣たち約100名は薩摩に向かって旅立ち、翌年の1610年の8月に江戸城で2代将軍・徳川秀忠と謁見している。
秀忠は尚寧王を処分することもできたが、尚寧王の統治を続けた方が日明貿易の再開に有利だと考え、そのままの統治を認めた。明の冊封体制に入っている尚寧王の琉球をそのまま残すことは、明と琉球の朝貢貿易を傷めないための手段として有効だったからだ。
この「島津侵入事件」は、同じ日本の中でのことであり、戦国時代の武将たちが「勝った、負けた」と争っていたのと同じレベルで考えるべきことだ。豊臣秀吉が小田原征伐を行なったのを、侵略だとは考えないだろう。あくまでも国内で豊臣秀吉に歯向かうものを豊臣秀吉が抑えただけの話だ。
同様のことが沖縄についても言える。沖縄は日本の一部だと沖縄の人たちも日本の人たちも普通に考えていた。そして琉球王国は江戸幕府の意向に従っているとはいえない姿勢を示したために、薩摩軍が送られることになった。
これが実際であるのに、琉球王国を日本から距離を取った独立国だとみなすストーリーを左翼勢力が作り上げ、本土と沖縄との間の不毛な対立が煽られることになった。史実とは全く違ったストーリーに組み替えられて、幕府や薩摩が琉球王国を侵略したのだということにされたのだ。そしてこの誤ったストーリーに、今や中国も乗っかる動きになっていると見ればいい。
中国共産党の「悪意」
問題は、こういう点に関する情報発信を、日本政府は対外的どころか、国内向けにも全くやってこなかったところにある。そのために、中国側から悪意あるプロパガンダがなされても、「薩摩は琉球に攻め込んでいるのは確かな話だし…」との後ろめたい思いを感じ、「中国側の言い分にも一理あるんじゃないか」という疑念を生むことになっている。こういう間違った話を、今やしっかりと正すべき時が来ている。
そもそも中国共産党が、沖縄や尖閣諸島について、かつての主張とはまるで違った主張をしているのだが、このことを日本政府はしっかりと国際社会に打ち出すべきだ。
例えば、中国共産党の機関紙である人民日報が1953年1月8日に出した「米国の占領に反対する琉球群島人民の闘争」という記事には、「琉球群島はわが国の台湾東北部と日本の九州島西南部の間の海上にあり、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隅諸島、など七つの島嶼だ」と記した上で「自由、解放、平和を求める琉球人民の闘争は孤立したものではなく、独立、民主、平和を求める日本人民の闘争と切り離せない」と書いている。
この記事を読めば、尖閣諸島が沖縄の一部であることを中国共産党も認めていたこと、アメリカの占領に抵抗している沖縄の人たちを、日本の本土の人たちと切り離すことができない存在だとしていたことがわかる。尖閣は沖縄に属し、沖縄は日本に属するということを、かつての中国共産党は100%認めていたのだ。「尖閣諸島は台湾の付属島嶼だ」「沖縄は日本ではない」という近年の中国の主張とは、明らかに違ったのである。
なお、尖閣諸島については、1919年に福建省の漁民31名が尖閣諸島最大の島である魚釣島付近で遭難し、当時尖閣諸島に居住していた日本人たちによって救助される出来事があった。遭難者たちはその後石垣島に収容され、石垣村役場が中国へ送還したのだが、これに対して長崎駐在の中華民国領事から、翌年の1920年5月20日付で感謝状が送られている。
そしてこの感謝状には、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載されている。当時中国全土を支配していた中華民国は、尖閣列島が日本の沖縄県に所属すると認識していたことがはっきりとわかるだろう。なお、1960年代までの中国の地図には、尖閣列島が日本に帰属する形で記されてもいたことも知っておきたい。
こういった事実も、日本国民にも、中国国民にも、それ以外の世界の人たちにも広く知らしめることが重要ではないか。世界中に中国の危険性を知らしめるためにも、こういう情報戦を世界にどんどんと広げていくことを、高市政権には期待したい。



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