東京スカイツリーには、足元からてっぺんまで日本企業の最先端技術の粋が集められている。
東京スカイツリーには、塔のど真ん中に鉄筋コンクリート製、高さ375メートルの“心柱(しんばしら)”を挿入した「世界初」の制振システムが使われている(図「東京スカイツリーの制振機構“心柱”」)。この心柱の下3分の1はツリー本体に固定され、上3分の2がツリー本体とは分離しており、地震や強風で本体が揺れる際に、本体とは異なる動きをして、結果的にツリー全体の揺れを抑えるはたらきを果たす。
ところで、数百に及ぶ木塔が破壊された歴史がある中で、日本で多発する“ある災害”によって倒れた例は非常に少ないのだという。
その災害とは、「地震」である。「木塔が地震によって倒壊した例」がほとんど皆無なのである。
ギネス公認「世界一高いスカイツリー」…じつは、「6世紀以来の日本技術」で建てられている、という驚きの事実
東京スカイツリーに生きる「古代の心」
2012年5月22日、電波塔・東京スカイツリー(東京・墨田区)が、着工以来およそ4年を経て開業した。高層建築物としては、アラブ首長国連邦のドバイにそびえ立つ828メートルの「ブルジュ・ハリファ」が世界一の高さであるが、「塔」としては、高さ634メートルの東京スカイツリーが世界一を誇る。
計画当初、東京スカイツリーは約610メートルとなる予定だったが、同時期に建設していた中国の広州タワーが同じ高さを想定していることがわかり、高さを634メートルに引き上げて“世界一”を死守したといういきさつがある。
この「634」という数字は、建設地域の旧国名「武蔵(ムサシ)」にちなんで決められたものだ。ちなみに、広州タワーの高さは結局、600メートルにとどまり、2010年9月に一般公開がはじまった。
東京スカイツリーには、足元からてっぺんまで日本企業の最先端技術の粋が集められている。
たとえば、地上350メートルの展望台(天望デッキ)まで約50秒で到達する高速エレベーターは、一般的なマンションに設置されているエレベーターの10倍近い速さである。このような速さに伴う振動に耐えるため、エレベーター室が上下に走るレールのつなぎ目の段差は0.001ミリメートル以下に抑えられており、実質的にゼロである。エレベーター室の上部と下部の覆いを斜めにして、空気抵抗を減らす工夫もなされている。
地上約500メートルから上の「ゲイン塔」に設置された地上デジタル放送用のアンテナも、毎秒110メートルの最大瞬間風速に耐え得るように、従来の角張ったものではなく、流線形に設計されている。また、東京スカイツリーには約4万トンの鋼材が使われているが、それは世界最高レベルの技術の結果として、他に類を見ないほどの高性能を誇るものである。
このほかにも、天望回廊に使われているガラスや外壁の塗料、省エネ・高性能送信機、省エネLED、壁状の杭をつないだ基礎や制振装置などなど、枚挙にいとまがない。東京スカイツリーは、“現代日本の最先端技術”から成る文字どおりの“金字塔”といえる。
世界初の、最古の技術!?
じつは、東京スカイツリーに使われているのは“現代日本の最先端技術”だけではない。
2011年3月11日に発生した東日本大震災(「3・11」)のすさまじさは、いまだ記憶に生々しく残っているが、“地震国”日本の高層建築技術の中で最も重視されるのは、いうまでもなく免震、制振構造技術であろう。
免震構造とは、地震のエネルギーをできるだけ建物に取り込まないようにする工夫で、地盤と建物との間に「ある機構」を挿入することによって、地震エネルギーの伝播を抑制する構造のことである。また、制振構造とは、建物の揺れを制振機構の導入によって抑制しようとする構造のことで、主に風に対する揺れや地震時の揺れを防ぐ目的をもっている。
東京スカイツリーには、塔のど真ん中に鉄筋コンクリート製、高さ375メートルの“心柱(しんばしら)”を挿入した「世界初」の制振システムが使われている(図「東京スカイツリーの制振機構“心柱”」)。この心柱の下3分の1はツリー本体に固定され、上3分の2がツリー本体とは分離しており、地震や強風で本体が揺れる際に、本体とは異なる動きをして、結果的にツリー全体の揺れを抑えるはたらきを果たす。
いま、私はこの“心柱制振システム”を「世界初」と書いたのであるが、じつは、このような“心柱制振システム”は、以下に詳しく述べるように、現存する世界最古の木造建築である法隆寺五重塔をはじめとする日本古来の木塔(五重塔、三重塔など)に必ず使われた「古代日本が誇る伝統的技術」なのである。
私が好きな五重塔
五重塔に代表される仏塔の姿、形の美しさにはうっとりするばかりである。その構造の巧みさ、雄大さを知れば知るほど、そのような仏塔を建てた古(いにしえ)の宮大工に畏敬の念を抱かざるを得ない。
私が実際に見たことがある仏塔の中で、個々に名を挙げれば、奈良・薬師寺の東塔、室生寺の五重塔、京都・醍醐寺の五重塔、山口・瑠璃光寺の五重塔などが好きだ。また、日本最大の(最も高い)京都・教王護国寺(東寺)の五重塔は何度見ても、その迫力に圧倒される。
古刹(こさつ)というわけではないが、青森市にある青龍寺の五重塔(図「青森・青龍寺五重塔」)は特筆に値する。1996年10月に落慶法要をした新しい五重塔であるが、青森檜葉(ひば)の無垢(むく)の木肌がまことに美しい。
日本古来の木造建築技術をもつ数少ない一人であった大室勝四郎棟梁が渾身の想いで建てた総高39.1メートルの、現代の堂々たる木造五重塔である。
高さとしては、前記の東寺(54.8メートル)、興福寺(50.8メートル)、香川・善通寺(45.5メートル)に次ぎ、日本で4番目である。若々しかった青森檜葉の無垢の木肌はいまは味のある飴色に変わったが、杉木立の山を背景に、青龍寺五重塔は凜として立ち、その姿は日本伝統の美を誇っている。
しかし、私が最も魅力を感じる寺といえば、それはやはり法隆寺である。個々の建物とともに、総合的な伽藍(がらん)のすばらしさ、風格となると、法隆寺の右に出る寺はない。また、伽藍のすばらしさとは別に、法隆寺の寺歴・縁起にも興味の尽きないものがある。
多重塔と多宝塔
法隆寺は1300年以上前に建てられた古刹中の古刹で、世界最古の木造建築物を現世に遺している。法隆寺の伽藍を見ると、私はいつも、えもいわれぬ感動に襲われ、静寂の中にも胸が熱くなる感じを覚える。1300年以上もの間、さっそうと立ち続ける五重塔の美しさは格別である。
仏塔を建築様式で分けると、「多重塔」と「多宝塔」に大別される。
五重塔や三重塔の多重塔は、飛鳥時代に朝鮮半島から日本へ伝えられたものである。
多宝塔は、円筒状の塔身に隅棟が中央に集まる宝形(ほうぎょう/方形)の屋根を載(の)せた宝塔の周囲に裳階(もこし)をつけた形式の、平安時代にはじまる仏塔である。
多重塔と聞いて、われわれの頭にまず浮かぶのは五重塔である。実際に、“五重塔”は“多重塔”の代名詞といってもよい。しかし、意外なことに、日本の多重塔で最も数が多いのは三重塔である。
慶雲(けいうん)3(706)年に完成した奈良・法起寺の三重塔は過去、1262年、1678年の2回にわたって大修理を施されており、法隆寺の五重塔に匹敵する日本最古の三重塔である。
私の主観かもしれないが、姿の優美さやその歴史によって、一般的に最も人気がある三重塔は、薬師寺東塔であろう。この東塔は、薬師寺創建当初の唯一の遺構である。各層に裳階がつけられているので六重塔に見えるが、れっきとした三重塔である。2009年から大規模な解体修理が行われ、2021年に竣工した。
薬師寺の東塔 photo by SatoyamaPG
100メートルに迫る仏塔があった!
日本に現存する木造の多重塔は五重塔、三重塔と奈良県桜井市にある談山(たんざん)神社の十三重塔(701年創建、1532年再建)のみであるが、過去には七重塔、九重塔も造られた。遺された記録や基壇跡から判断すれば、想像を絶する高さのものもある。前述のように、現存する最高の木塔は京都・教王護国寺(東寺)の五重塔であるが、かつては、その2倍近い高さの木塔がそびえていたのである。
談山神社の十三重塔 photo by Isoterial
暦応(りゃくおう)3(1340)年の「院家雑々跡文」という史料には、
- 春日東御塔五重塔 高一七丈
- 興福寺五重塔 高一五丈
- 東大寺七重塔 高三二丈
- 法勝寺八角七(九)重塔 高二七丈
- 東寺五重塔 高一六丈
- 宇津宮十三重塔 高一六丈
と、京都、奈良周辺のものと目される木塔の高さが記されているそうである(上田篤編『五重塔はなぜ倒れないか』、新潮選書、1996)。法勝寺の八角塔は当初、七重塔であったが、すぐに、さらに二重が組み上げられて九重塔になったという。一丈は約3メートルだから、東大寺七重塔は約九六メートル、法勝寺八角九重塔は約81メートルの高さということになる。じつに、高さ100メートルに迫る仏塔が、かつての日本に存在していたのだ。
東大寺七重塔(東塔、西塔の2塔である!)が建てられたのは、第45代聖武天皇(在位724~749年)の天平時代である。そして、それらの塔は、それから約400年の間、存在していたという。当時の人びとが、その塔の高さにどれだけ驚いたか、私自身が、五十数年前に超高層ビル第1号(霞が関ビル、147メートル)を見たときの驚きを思い出すと、まさに想像を絶するものがある。
倒れない木塔
日本の歴史上、木造の仏塔は全国に500以上あり、それらの多くは兵火や雷火、失火、放火などによる焼失と建て替えを繰り返してきた。実際に存在した木塔の数は、それより何倍か多かったと考えられる(前掲の『五重塔はなぜ倒れないか』)。江戸時代から近代にかけての“廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)”、仏教排斥思想のために破壊された仏塔も少なくなかったろう。
たとえば、天保年間(1830〜1844年)、藩主・徳川斉昭下の水戸藩では190の寺が破却され、領内寺院から撞鐘(つきがね)、半鐘などが押収されて大砲の材料として使われたという記録がある。
明治元(1868)年には、明治政府によって廃仏棄釈政策が実施され、全国的に多くの寺院が破壊されている。
日本では過去、数百という数の木塔が失われている。雷火のような天災による焼失はやむを得ないとしても、兵火や廃仏棄釈などの“人災”によって、数多くの日本の木塔が破壊されたのはまことに遺憾なことだ。いずれも、歴史の流れの中の“事件”あるいは“愚行”として諦めるほかはない。古今東西、人間が“愚行”を犯すのは不可避のようである。
ところで、数百に及ぶ木塔が破壊された歴史がある中で、日本で多発する“ある災害”によって倒れた例は非常に少ないのだという。
その災害とは、「地震」である。「木塔が地震によって倒壊した例」がほとんど皆無なのである。
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